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微笑み令嬢

婚約者に虐げられ続けた微笑みの令嬢、ついに覚醒する

作者: 夜宵


王城の庭園の奥。

満開の白いバラの足元に、泣きそうなほど静かな少女がいた。


カナリア・フローレス侯爵令嬢。

薄茶色のふんわりとした柔らかな髪、少し垂れた菫色の瞳の可愛らしい少女だ。


婚約者である第三王子アーヴィンに突き飛ばされ、膝から赤い血がにじんでいる。


「カナリア。泣くなよ?」

アーヴィンが上から見下ろし、くすりと笑う。

金髪に青い瞳の美しい王子様のその笑顔には、悪意しかない。

側室の子として育ち、兄たちに相手にされない彼は、唯一“逆らわない”カナリアにだけは強く出た。


「ぼくの婚約者なんだから、これくらい我慢しろよ。

泣いたらみっともないぞ?」


「……はい。アーヴィン様のおっしゃる通りですわ」


カナリアは微笑んだ。

まだ七歳だと言うのに。

痛みに震える唇を無理やり動かしながら。


「お前って、ちっとも面白くないな。ちゃんと笑ってみろよ」

言いながら、小さな手でカナリアの肩を乱暴に押す。


そのとき。


「カナリア!!」


風を切って走ってきた少年が、二人の間に割り込んだ。

薄い金髪に灰色の瞳を持つ、カナリアの幼馴染のエリアスだ。

魔法学園を目指して勉強している、頭の良い少年。


「アーヴィン殿下、カナリアに何を……!」


アリオンは鼻で笑い、肩をひょいとすくめた。


「婚約者同士のことに口を出すのかよ?

身の程をわきまえろ、ただの子爵家の息子が」


冷たいその一言に、エリアスは唇を噛んだ。

でも怒鳴り返さない。

代わりに、カナリアの手をそっと取った。


「カナリア、痛くないふりしなくていいよ。

ぼくに、見せて」


「だいじょうぶですわ。転んだだけですの」


微笑みながら言うけれど、

その瞳はうるんでいる。


エリアスはカナリアの袖の陰に手をそっと忍ばせて、

人に見られないように掌を重ねた。


「……じっとしてて。すぐ治すから」


小さく息を吸い込むと、

掌からふわりと淡い光が漏れた。

未熟だけど暖かい治癒魔法。


カナリアの膝の傷が、じわりと閉じていく。


「……エリアスさま、泣いているのはあなたのほうではなくて?」


カナリアが小声でささやくと、

エリアスは慌てて目元を指で拭った。


「泣いてない……っ。

でも、カナリアが痛そうにしてるの、いやなんだ」


仲の良さそうな二人を見てアーヴィンが不満げに舌打ちし、「勝手にしろ」とだけ言い捨てて去っていく。


残されたのは、二人だけ。


エリアスは治った膝にそっと触れて、

悔しそうに眉を寄せた。


「カナリア。

いつかぼくが……あなたを守れるくらい強くなるから」


「……ええ、楽しみにしていますわ」


少女はまた微笑んだ。

今度は、痛みを隠すためではなく、

エリアスの気持ちがただ嬉しいから。


◇◇◇


ある日、「今日は特別だ」と言って、第三王子アーヴィンは幼いカナリアを馬車に乗せ、郊外の小さな森に連れていった。


「秘密の遊び場を教えてやる。婚約者の特権だぞ?」


そう言われて、カナリアは素直に喜んだ。

まだ幼く、彼の言葉を疑う理由を知らなかったから。


森の奥まで進んだところで、アーヴィンはぴたりと立ち止まる。


「ここで待ってろ。すぐ戻る」


そう言い残し、ひとりで森の奥へ歩き去る。

…だが、振り返ることはなかった。


最初は、カナリアもただ座って待った。

王族の子どもは忙しいのだと、健気に信じて。


しかし、

日が傾き、森が薄紫に染まる頃――


小さな肩は震えはじめ、

「どうしよう…」が胸の奥で大きく膨らんだ。


森は静かで、聞き慣れない音がする。

帰り道もわからない。

侯爵家の馬車が来るなんて思いつけない年齢だった。


涙がこぼれた瞬間――

風が揺れ、淡い魔力の光が森に散った。


エリアスの探知魔法だ。


(カナリア…どこ? 返事して…)


魔力の糸がカナリアの心細さに触れたような気がした。


そして、木々の合間から青年の影ではなく、

幼い少年のエリアスが必死に駆け寄ってきた。


「カナリア!!」


はぁ、はぁ、と息を切らし、

彼はその小さな体をぎゅっと抱きしめた。


「良かった…! 本当に…無事でよかった……!」


「エリアスさま…どうして…?」


「君が泣いてる気がした。魔力が勝手に動いたんだ…

 でも、それだけじゃ来れない。だから必死に探した」


夕暮れの森で抱きしめる腕は震えていた。

怖かったのは彼も同じだった。


「帰ろう。大丈夫、今度は絶対に離さない」


その夜、エリアスは小さな手を強く握りしめたまま離さず、

カナリアも彼の手の温かさに安心して歩いた。


◇◇◇


翌日、王城の客間。

昨日のことは、さすがに問題になり、アーヴィンは国王陛下にこっぴどく叱られたらしい。

お詫びをしたいと言うことで、エリアスとカナリアは王城に来ていた。


それなのに、アーヴィンはなぜか機嫌が良さそうだった。


「カナリア、昨日のお詫び!

プレゼントを持ってきたんだ」


(あ…ちゃんと謝る気になったのかな)

カナリアの顔に、小さな期待が浮かぶ。


アーヴィンは豪華なリボンの箱を差し出した。


カナリアは胸を弾ませながら、そっと蓋を開け──


次の瞬間。


「……っ!」


箱の中で、とぐろを巻いた黒い蛇が鎌首をもたげた。


カナリアの顔から血の気が引く。

悲鳴も出ず、固まったまま後ずさる。


アーヴィンはケラケラ笑った。


「おまえ、蛇が苦手だって言ってただろ?

だから“特別”に用意してやったんだよ!」


震えているカナリアを見て満足げに笑っている王子。

その陰で、エリアスは拳を握りしめていた。


「アーヴィン殿下。

これは、悪ふざけがすぎます」


アリオンは鼻で笑った。


「うるさいな。侯爵家の娘にビビってもらえて、上出来だろ?」


エリアスはその言葉に耐えきれず、

カナリアの前に立ちはだかるように手を広げた。


「もうやめてください。

これ以上カナリアを怖がらせるなら、僕は……!」


言いかけて、エリアスは口をつぐむ。

子爵家の息子にすぎない自分が、王子に逆らえるはずもない。


そのとき、カナリアがそっとエリアスの袖を引いた。


「……エリアスさま、

お気になさらないでくださいませ」


彼女はまた笑っていた。

震えたままの、弱い笑顔。


でもその笑顔に、

エリアスはいつも胸が痛くなった。


(どうして、こんなに優しい子が……

こんな目にあうんだ)


エリアスはそっとカナリアの背中に手を置き、

彼女が見ないように蛇の入った箱を閉じた。


王子の前では何も言えない。

でもせめて、カナリアを守りたかった。


◇◇◇


あれから、数年。

カナリアとエリアス、アーヴィン殿下は王立学園の二年生になっていた。


王立学園の昼休み。

中庭や廊下には、笑い声や談笑があふれている。

その中で、学生たちはひそひそと口々にカナリア・フローレス侯爵令嬢のことを話していた。


「ねえ、知ってる? 私が課題を忘れたら、カナリア様が一緒に手伝ってくださったんです!」

「えっ、カナリア様って婚約者のアーヴィン殿下の分もやっているらしいですよ。二人分なんて大変なはずなのに……毎回、嫌な顔ひとつせずに!」


みんなが目を輝かせて話す。

カナリアは今日も、淡い菫色の瞳を揺らさず、微笑みながら周囲に気を配っている。


食堂でもその優しさは顕著だ。

「昨日、あやまってカナリア様のドレスに飲み物をこぼしてしまったんです」

「それなのに、カナリア様は『貴女は汚れなかったかしら』って、私のことを心配してくださったんです……!」


みんなが驚き、ため息をつく。

その理由は簡単だ。

アーヴィン様はよくカナリア様のドレスをわざと汚すので、カナリア自身は常に着替えを用意している。

それでも、他人を気遣うことを忘れない。


廊下でのちょっとした事故も同じだ。

「急いでいて、カナリア様にぶつかってしまったんですが……」

「『私もよそ見していましたから、貴方は大丈夫でしたか?』って、天使のような笑顔で言っていただきました」


殿下に突き飛ばされることも多いのに、いつも優しい笑顔で、痛みを感じさせない。


勉強の場でも、カナリア様の存在は特別だ。

「わからない所があった時、丁寧に教えてくださいました」

「アーヴィン殿下に教えてもらうより、理解力があって……本当に感動しました」


さらに、持ち物に関しても細やかな配慮がある。

「ペンを忘れてしまって困っていたら、カナリア様が予備に持ってきているからと渡してくださったんです。私の宝物です!」


いつも笑顔で、誰にでも優しく。

それでも、学生たちは知らない。

その微笑みの裏には、幼少期からアーヴィンにされてきた理不尽な扱いと、それを耐え続けてきた努力が隠されていることを。


◇◇◇


昼休みの中庭、木陰に集まった生徒たちの会話。


「聞いた? アーヴィン殿下、今日も授業サボってたんですって」

「ええ、しかもカナリア様に雑用押し付けて、他の生徒にはニコニコしてるんだって」


「ほんと信じられないよね。昨日も廊下で他の女の子とイチャイチャしてたんだって」

「それなのに、周りには完璧な王子様みたいに見せてるのよね……ほんとズルい」


「しかもさ、カナリア様に課題まで当然のようにやらせてるって話よ。毎回!」

「え、毎回!? 普通は自分の分だけでも大変なのに……」


「そうそう。授業中にペンとかノートを取り上げて、困るカナリア様を見て笑ってるのよ。だから、エリアス様がこっそり貸してあげてるんだって」

「でも、カナリア様はいつも笑ってるんだよね……本当にすごい」


「うーん……アーヴィン殿下、何もかも自分の都合で動いてるのに、誰も文句言えないのがまた腹立たしい」

「そのくせ、カナリア様には優雅に微笑まれて、ますます格好良く見えるんだって……いやもう、反則だわ」


生徒たちがざわざわ話す中で、

誰もが認める「カナリア様の尊さ」と「アーヴィン様のクズっぷり」のコントラストが、自然と浮き上がる。


◇◇◇


ある日――

学園の魔法実習室。

アーヴィンは、いつものようにふざけた笑みを浮かべていた。


「ちょっと面白いことを思いついた。カナリアをびっくりさせてやろう」


小さな魔法陣を仕掛け、笑いながら呪文を唱える。

だが、魔力の制御は雑で、計算以上の反動が発生した。


「わっ――!」


魔法が制御を失い、室内に爆発の光と煙が広がる。

絶叫とともに机や薬品が飛び散り、火花が舞った瞬間――


「カナリア!!」


エリアスが、瞬時に飛び込む。

防御魔法を展開する暇はなかった。

彼は自分の身体でカナリアをかばい、魔法の直撃を避けようと必死だった。


「エリアス……!」

菫色の瞳が凍りつく。

普段の優しい微笑みは消え、無表情になった。

胸に怒りと恐怖が同時に押し寄せる。


アーヴィンは自分の制御ミスを気取られないように動揺すらせず、笑っているつもりだった。


「ふふっ、驚いたか?ふん!魔法の天才などともてはやされても防御魔法も展開できず、自分の身を挺することしかできないとは、とんだ魔法使い様だな」


カナリアは一歩前に出る。

その背筋の凛とした美しさに、周囲の生徒たちも息を呑む。


「やめてください、アーヴィン様……!!」

その声は震えていない。

静かに、しかし怒りが全身から迸る。


「私や私の大切な人を二度と侮辱しないでください」

手をぐっと握り、冷たい決意を宿した菫色の瞳が、アーヴィンを射抜く。


「これまで、どれほど耐え、笑ってきたか……置き去りにされ、突き飛ばされ、嫌な思いをさせられても、私は我慢してきました。侯爵令嬢として生まれたのですから、国のために尽くさなければならないと思っていたから……。ですが、今日をもって――」


「婚約は、破棄いたします」


その瞬間、学園中の空気が凍る。

アーヴィンは言葉を失い、顔面蒼白。

侯爵家の援助も、婚約の地位も、すべて無意味になることを理解するしかなかった。


カナリアは何も言わず、エリアスの腕に手を添え、彼の無事を確認する。

エリアスはカナリアの手を握りしめた。


「これからは、私が貴女の笑顔を守ります」

カナリアは軽くうなずき、手を握り返す。

二人の間に、笑顔ではない、確かな信頼と絆の光が差し込んだ。


周囲の生徒たちは、息を呑むと同時に、胸の奥でスカッとした感情を味わった。


◇◇◇


魔法実習の事件から数日後、アーヴィンは学園長室に呼ばれていた。

彼の横には、母親が付き添っている。

学園長の厳しい視線がアーヴィンを射抜く。


「あなたの学園での態度、他生徒への迷惑行為……もはや看過できません」

「退学です」


アーヴィンは顔を青ざめさせ、言葉も出ない。

母親も眉をひそめ、ため息混じりに告げる。


「……辺境の地で新しい生活を始めなさい。王家の威光はもう使えません」


こうして、アーヴィンは辺境の地へと送り出されることとなった。

学園でカナリアとエリアスに会うことは、もうないだろう。


◇◇◇


一方、学園の屋上庭園。

柔らかな夕陽の中、カナリアはエリアスと手をつなぎ、ゆっくり歩いていた。


「怪我、大丈夫ですか?」

カナリアが優しく尋ねる。


「うん、カナリアが手当してくれたからね」

エリアスは微笑みながら小さくうなずく。

カナリアも、初めて肩の力を完全に抜き、微笑む。


「これからは、あなたと一緒に、穏やかに暮らしたいですわ」

菫色の瞳には、強さだけでなく安心と幸福が宿っていた。


二人は並んで庭園を歩き、笑い声を交わす。

日常はまだ小さな挑戦で溢れているけれど、

もう恐怖や理不尽に怯えることはない。



そして、駅ではアーヴィンが一人、辺境へ向かう列車を待ちながら、静かに孤独と深い後悔をかみしめていた。



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