没落貴族か修道女、どちらか選べというのなら
「初めまして、イザベラ・リリーと申します」
愛する息子のテオが連れてきた婚約者を、私は一目見た時から気に入らなかった。
まず目は大きすぎるし、身体は細すぎる。あの娘が私の隣に立つと、まるで私が太っているように見えるのだ。
それに年齢も気に食わない。テオより六つも年上なんて。いくら見た目は若くても、わざわざ年上の女を選ばなくたっていいものを。
そして何より、出自が悪すぎる。聞けば娘は天涯孤独で、どこぞで下働きをしているらしい。みっともないったらない。
「テオ……あの娘と結婚するだなんて、本当に言っているの?」
「もちろんだよ母さん。すてきな子だろう?」
「あなたの選ぶ相手なら文句を言わないと、たしかにそうは言ったけれど……――」
まさかあんな娘を連れてくるとは思わなかったのだ。テオには懇意にしている立派な肩書きの令嬢たちがたくさんいたから、そのうちの誰かだろうと思っていたのに。
「ねえ、あなたはどう思いまして? さっきの娘」
「そうだなあ……」
夫は腕を組んだまま難しい顔をしている。そんな風に言葉を濁さずに、あんな娘との結婚は認めないとはっきり言えばいいものを。
「ちょっと、年が離れすぎてるんじゃないか? たしかに美人ではあったが……――」
「何言ってるんだよ父さん。父さんと母さんだって、母さんのほうがいくつか年上でしょう? 愛に年齢差なんて関係ないじゃないか」
「いや……それにほら、家の格というものがあるだろう?」
「説明しただろう? たしかに彼女は今でこそ身寄りがないが、出自はたしかだ。ご両親に不幸があっただけで由緒正しい生まれであるし、高貴な血が流れているんだから」
「だが……下働きの娘というのは外聞が……」
「下働きなんかじゃないったら。彼女は身寄りをなくした後、商家に引き取られたんだ。とても優秀で、今では店の切り盛りを任されているんだから」
「ううむ……」
夫は相変わらず煮え切らない。ただでさえ優柔不断だというのに、テオのことになるといつもこうだ。いくら息子を溺愛しているとはいえ、もう少し毅然とした態度をとって欲しい。
見た目が良くてお金もまあまあ持っていたから結婚したけれど、夫にはいつもイライラさせられる。
夫との結婚生活で良かったことと言えば、この可愛い息子を産めたことくらいだ。
「――とにかく、母さんは反対よ! あんな娘との結婚は認めないわ」
私がそう言うと、テオは勢いよく椅子から立ち上がって宣言した。
「彼女との結婚を認めてくれないのなら、僕は家を出たって構わない! 彼女と二人でなら、家名も財産もなくたってやっていけるさ!」
ああなんてこと……テオはすっかりあの女にたぶらかされてしまっている。
テオの宣言をもって、私たちはあの娘を受け入れざるを得なくなった。
「お屋敷に一緒に住ませていただけるなんて……嬉しいわ。どうぞよろしくお願いいたします」
テオは式も終わらぬ前から、あの娘を屋敷に呼び寄せた。彼女の人となりを知れば、結婚に反対などしないはずだからと。
「こんな素敵なお屋敷に住めるなんて、私とっても嬉しいわ。住んでいらっしゃる方が立派だと、こんなふうに居心地が良くなるのですね」
「まあ! 今日のお義父さまのお召し物、なんてお似合いなんでしょう」
「テオさまからお聞きしたのですけれど、お庭の薔薇はお義父さまがお選びになったのですって? 私、あまりにきれいだから驚いてしまいました」
あの娘はわざとらしく褒めちぎり、見え見えの媚を売ってくる。
いつのまにか夫のことをお義父さまなどと呼び、まるでこの家の娘気分だ。
夫もすっかりたぶらかされて、近頃はよくあの娘のことを持ち上げる。
「やはり一緒に暮らしてみるものだね。なかなかすてきな子じゃないか」
「何言ってるのよ! あなたもテオもすっかり騙されて!」
私が詰め寄ると、夫は慌てて私をなだめた。
「まあまあ、そう怒らずに。君ももう少し落ち着いて、あの子とゆっくり話してごらんよ。君に嫌われているんじゃないかと、ずいぶん悩んでいたよ」
なんて嫌らしい娘だろう。私を悪者に仕立て上げるなんて。
「これを見てくれ、あの子が見立ててくれたんだ」
夫は嬉しそうに言いながら、地味で質素なカフスボタンを取り出してきた。
「なによこれ、石も何もついていないじゃないの」
「君は本当に宝石が好きだな。わからないかい? これは高名な職人が作ったもので……――」
夫は細部の作りがどうのこうのと、興味のないうんちくを語ってくる。
「君は金だの宝石だのと派手で値が張るものばかり愛でているが……たまにはこういう質の高いものも身につけてみたらどうだ?」
「何ですって? あなただって高価な衣装ばかりこしらえているくせに!」
「僕は素材と仕立てにこだわっているんだよ。ああそうだ、今度のパーティ用の衣装なんだけどね、あの子に見立てを頼んだんだ。あの人気の仕立て屋につてがあるそうでね……――」
夫は地味な装飾を好むから、昔から私とは趣味が合わない。地味なくせに高価ものなんて、私は少しも惹かれない。
せっかく夫が私の見立てを身につけてくれるようになってきたのに、あの娘のせいで台無しだ。
夫までたぶらかされて、ますますあの娘に苛立ちが募った。
けれどテオはことあるごとに、私にあの娘を認めさせようとする。
「――ほら、母さんも食べてごらんよ。このプティングは絶品なんだ。イザベラは料理もすごく上手なんだから」
「まあそんな、テオさまったら。お口に合って何よりですわ」
「このプティングに使われているブランデーもイチジクも、僕の大好物だしね。君の作る料理にはいつも僕の好きなものが使われているね。まさか君は、僕の好みを全て把握しているのかい?」
「ふふふ、偶然ですわ。テオさまのことを思いながら作っているから、自然とテオさまの好物ばかりになるのでしょう」
テオは好き嫌いが多く偏食家で、コックたちがいつも頭を悩ませているというのに。
夕食の席で、私はそのプティングにだけは口をつけずに席を立った。ブランデーの香りは好きではないし、イチジクの食感も大嫌いだ。
またある時は、あの娘との馴れ初めを嬉しそうに話してきた。
「――イザベラと初めて会ったのは、フィンの家だったんだ。ほら、僕の友人でノース家の次男の」
ノース家といえば名門中の名門だ。ノース家の娘を嫁に連れてくるなら、文句なんてなかったのに。
「御用聞きがあったとかでね、偶然ノース家に来ていたんだ」
「ふふ、懐かしい。あの時はあなたの愛馬が突然私のほうへ向かってくるのだがら、驚きましたわ」
「あいつは普段僕以外に懐かないのに、君を見た途端走り出すからびっくりしたよ。君の服を汚してしまってすまなかったね」
「いいえ、とんでもない。おかげであなたと知り合えたんですもの」
「それもそうだ。でも母さん、僕らはまさしく運命の相手なんだよ。あれからノース家で度々顔を合わせるようになったんだが、それだけじゃない。偶然街で出会ったり、行きつけの店で鉢合わせたり……まるで神様が僕らを引き合わせたみたいだろう?」
運命だなんて馬鹿馬鹿しい。
そんなことがあってたまるもんですか。
あの娘が屋敷にやってきてしばらく経っても、私は娘を受け入れなかった。
一緒に暮らせば暮らすほど、娘の嫌なところばかり目に入る。趣味も好みも私とは合わず、苛立つようなことばかりしてくるのだ。
それにこの娘は夫やテオにはひどく愛想が良いというのに、私に対してはいつもおどおどしている。
腹が立って仕方ないが、その態度が夫とテオにはいじらしく見えるらしい。私が怖がらせているのが悪いのだと、あの娘ばかりを庇い立てる。
そんな私に媚を売りたいのか、ある日娘がリボンのかかった箱を渡してきた。
「あの、これ……今度のパーティにいかがでしょう? お気に召していただけると良いんですけれど……」
娘の隣では、夫とテオが微笑ましそうに見ている。
箱の中身は、宝石が散りばめられたネックレスだった。
デザインは悪くないし、パーティで着るドレスにも似合いそうではある。
でも、トップの石が気に入らない。私の嫌いな青色の、大粒のサファイアがあしらわれているのだ。
「あの……――」
娘はこちらを見ながら、相変わらずおどおどと反応を伺ってくる。それを見てか、夫とテオは二人して娘とネックレスを褒めちぎる。
「センスがいいだろう? 彼女は仕事柄、こういうのが得意だからさ」
「こういう豪奢なデザイン、君好みじゃないか。僕も衣装だけではなくて、新しい剣の装飾の注文を彼女にお願いしたところなんだ。衣装の出来栄えも文句なくてね……――」
ああ腹立たしい。二人とも私の嫌いな色すら覚えていない。それもこれも、全てこの娘が悪いのだ。
私は苛立ち紛れに、目の前のネックレスを床に投げつけた。
「――こんなもの、全く私の好みじゃないわ! パーティになんてつけていけるもんですか!」
しん、とその場が静まり返った後、娘はしくしくと涙を流し始めた。
「酷いじゃないか、母さん!」
「私、青は嫌いなのよ! だからサファイアなんてちっとも嬉しくないの!」
「ごっ、ごめんなさい……――私、存じ上げなくって……――」
娘は私に向かって頭を下げると、涙目で部屋から飛び出していった。
テオは私を睨みつけると、走ってあの娘の後を追っていく。
「君……いくら気に入らないからって、そこまでしなくて良いじゃないか」
「テオどころか、あなたもすっかりあの娘にたぶらかされてっ……!」
「失敬だな、人聞きの悪い」
夫は床に落ちたネックレスを拾いながら、それをしげしげと眺める。
「これはまた、ずいぶん良い石を使ってあるな……君のお気に入りの宝石商に、わざわざ頼んで作ったそうだよ。あそこは値が張るだろうに」
どうせテオにお金を出させたに決まっている。そもそも私の馴染みの宝石商が、あんな小娘などを相手にするわけがない。
「なんと言われようと、私はそんなものいらないわ。それよりも私、新しくダイヤのネックレスが欲しいの。頼んでも良いでしょう?」
「え、いやしかし君、この前も新しくこしらえただろう?」
「この前作ったのはエメラルドのネックレスよ! それにあなただって、新しく剣をお作りになるんでしょう?!」
「いやそれはほら、あの子は顔が広いしつても多いだろ? 一級品の素材を集めてくれるって言うもんだから、つい……」
またあの娘の話かと辟易して睨みつけると、夫は慌てて話を終わらせた。
「ま、まあいいんじゃないか、ダイヤモンドのネックレス。きっと君に似合うさ」
あの娘が来てからというもの、苛立つことばかりだ。
その苛立ちを解消するために、近頃は宝石商を呼びつけてばかりいる。
「ではこちらのペンダントはいかがでしょう? 希少な石が使われております」
「そうねえ……でも、ちょっと地味ね」
「左様でございますか……ではこちらの指輪はいかがでしょう? 品はかなり良いのですが、その代わりお値段も少々……」
宝石商は私の顔色を伺いながら失礼なことを言ってくる。宝石商ごときに懐具合を心配されるなんて。
「いくらでも構わないわよ、これをいただくわ。それから新しくネックレスもあつらえたいの」
苛立ちながら睨みつけると、宝石商はあわてて媚を売り始める。
「このお品をお選びになるとは、さすがお目が高い! かしこまりましてございます。それからネックレスでございますね、ではどのようなデザインにいたしましょうか……」
本当に、苛立つことばかりだ。
今日は、かねてより準備していたパーティの日。
テオはこの機会にと、あの娘を婚約者として披露するらしい。どれだけ反対しても否定しても、とうとうテオは折れなかった。今では夫もすっかりあの娘を嫁として受け入れている。
本当に憎たらしい小娘。
ノース家をはじめ名門貴族を招待しているのだから、あの娘が恥を晒さないか心配だ。
「……あら?」
私が支度を終え部屋の外に出ようとすると、いつのまにかカードの添えられた小箱が置かれている。
"愛しい人へ――"
誰からだろうか、心当たりはいくつかある。
小箱を開けると、輝くルビーのネックレスが入っていた。細かなダイヤもふんだんに使われていて、私好みの豪華なデザインだ。先日宝石商から買った指輪にもよく似合う。
「誰だか知らないけど、なかなか良い趣味をしてるじゃない」
あの娘にもこのくらいのセンスがあったら良かったものを。
それにしても、なんて立派で美しいルビーだろう。
私はいったん部屋に戻り、そのネックレスをつけてパーティ会場へと向かう。
ちょうどクロウリー夫人とバーンズ夫人が到着したようだ。さっそくネックレスを自慢しよう。
けれど二人に近づき挨拶をしようとしたところで、テオが慌てた様子でやってきた。
「ああ母さん、ここにいたのか」
「あらテオ。どうしたのよ、そんなに慌てて」
「いや、ちょっとしたトラブルがあって――……母さん、そのルビーのネックレスは……――」
テオは私のネックレスに目を止めると、ふと真顔になった。
「ああこれ? 良いデザインでしょう?」
自慢げに見せると、テオは無言で私の手を引き、会場から連れ出した。
「ちょっとテオ、一体どうしたの?」
「……どうしたじゃないよ、母さん」
連れて行かれた先には、夫とあの娘がいた。
娘は青い顔をしている。
「あら、あなたまで。それにしても酷い顔ね、そんな顔でパーティに出るつもりなの?」
「……母さん!」
「なによテオ、そんな大きな声を出して。はしたないわよ」
諫める私を見て、夫はため息をついた。
「はしたないのは君のほうだ。一体何をしてるんだ」
「何って……何のことよ」
「この子が持っていたネックレスが無くなって、使用人たちとみなで探していたところだったんだ。メイドがお前の部屋に掃除に入ったら、リボンやカードが捨てられていたと言うからまさかと思えば……」
「なっ……?!」
「イザベラ、君の部屋から無くなったのはあのネックレスだね?」
テオは私の胸元を指差した。
娘は涙目になりながら、かすかにうなずく。
「なっ、なんですって……――?!」
このネックレスが? 違うわ、これは私の部屋の前に置いてあったんですもの。
「な、何を言っているのよ! そもそもあなたみたいな娘が、こんな大きなルビーのネックレスを持ってるわけないじゃない!」
「……いいえ、それは私のものではなくって……ノースさまからご注文いただいていたお品だったのです。今日パーティでお渡しする予定で……――」
娘の言葉を聞き、今度は私が青くなった。
「……ノースさまの……? う、嘘よ、なんであなたがノースさまに……――」
「前にも言っただろう、母さん。ノース家はイザベラを重用しているって」
「嘘だわ、こんな小娘をっ……!」
「この子はデザイナーとして一流だよ。宝飾類だけでなく、衣装や剣のデザインもすばらしい。だからあのブラウン商会でも一目置かれているんだと、そう話したじゃないか」
ブラウン商会? そういえばあの娘が下働きをしているのは、そんな名前の店だった気がする。
「ブラウン商会といえば、ここ最近手広くやっているだろう? それもこれもイザベラの手腕だと、みなが噂しているよ。僕も最初は下働きだと誤解していたが、大変申し訳なかった」
「母さんはイザベラを否定してばかりで、僕の話をちっとも聞いていなかったんだね……それどころか、彼女の部屋に盗みに入るなんて……――」
「ぬ、盗みですって?!」
何を言っているのだ、このネックレスは私の部屋の前に置いてあったのに。
「違うわっ……! これは私の部屋の前に置いてあってっ……これは罠だわ! 私を陥れるために、あなたが仕組んだんでしょうっ!」
娘を睨みつけるも、しくしくと泣くばかりで何も言わない。
夫もテオもそんな娘を慰めながら、まるで私の話を信じていない。
「母さん……ネックレスだけじゃない、イザベラが持っていた指輪も無くなっているんだ」
「し、知らない! 知らないわよ指輪なんて!」
「――君の部屋を、見せてもらうよ」
何を言っているのだ、そんなもの知らない。あるわけがないのに。
探せるものなら探してみればいい。
だが――……。
「ええ、その指輪です……私の部屋から無くなったのは」
「うっ、嘘よ!」
私の宝石箱に入っていたサファイアの指輪を指して、あの娘はそう言った。
違う、そんなはずはない。だってその指輪は……。
「母さん、認めてくれ。この指輪はイザベラが昔から持っているイヤリングと、同じデザインだよ」
「それに君は言っていたじゃないか、青いサファイアは嫌いなんだと。この指輪のデザインは、全く君の好みじゃないだろう」
私の顔はどんどん青くなる。
「その指輪とイヤリングは、母の形見なんです……どうかお返しくださいませ」
娘は泣きながら、私のほうを見てそう言った。
「早く返してあげたまえ、それから君がつけているネックレスもだ。これ以上お客さま達をお待たせするわけにはいかないが、君はここで頭を冷やしたまえ。パーティにはもう顔を出さなくてけっこうだ」
「あの…….――私も失礼してよろしいでしょうか? ノースさまへのネックレスを準備し直さなければなりませんし……」
「ああもちろんだよイザベラ。母さんが本当にすまなかった……一人で大丈夫かい?」
「ええ……いらっしゃっているお客さまに申し訳ありませんし、どうぞ私に構わず会場へ行ってくださいまし」
呆然とする私をよそに、みなは部屋から出ていった。
私から指輪とネックレスを取り上げて。
「――失礼しますわ」
しばらく部屋で放心していると、あの憎たらしい娘がやってきた。
「一体何の用よ! あなた、この私をはめたわね? 泥棒に仕立て上げるなんてっ……!」
今まで見たことがないほどに、柔らかく嬉しそうな笑みを浮かべている。
「あら……だって、泥棒には違いないじゃございません? あなたは、私から全てを奪っていったんですもの」
「何を言って……」
娘はほほえみながら、先ほど持っていった指輪を指にはめた。耳にはそろいのイヤリングをしている。
「この指輪、覚えてらっしゃいまして? あなたが私の母から奪ったものですわ。私の名前……リリーというのは母方の姓なんです。父方の姓は、アスターと申しますの」
「アスター、ですって……?」
「そう。私の父はアラン・アスター……さすがに聞き覚えがありまして? かつて、あなたに恋をしていた男の名ですわ」
何年振りに聞く名前だろうか。
何も答えない私に構わず、娘は喋り続ける。
「屋敷に別荘、宝石にドレス……どれだけあなたに貢いだことでしょう。挙げ句の果てには、母が大切にしていたこの指輪まで渡してしまって。このイヤリングも私が隠しておかなければ、あなたのものになっていたでしょうね」
娘は指輪とイヤリングを触る。
「父があなたと知り合ってから、私の家はあっという間に傾きました。病気がちだった母は充分な治療を受けられなくなり、そのまま……――父はあなたを本妻に迎えたかったようだけれど、あなたは父の財産が尽きたと見ると、あっという間に別の人と結婚してしまった」
部屋の中に娘の冷笑が響く。
「財産どころかあなたも失った父は絵に描いたような没落貴族になり、病でこの世を去りました。父を亡くした後、私は母が懇意にしていたブラウン商会に引き取られたのです。まあでも、父は自業自得ですわね。あなたのような女に騙されるなんて、馬鹿な人でした」
アラン・アスター……そういえばそんな名の男と一時期関係を持っていた。
数いる相手のうちの一人だったけれど、特に私に熱を入れていたっけ。ちょっと優しくしただけで、あれこれ私に貢いでくれたものだ。
「……なっ、なんなのよあなた、そんな昔のことを今更……――財しか取り柄のなかった男ですもの、捨てられて当然じゃない! 今更、私に復讐でもしにきたというの? 逆恨みもいいとこだわ!」
「復讐? いいえ、私はあなたに奪われたものを取り戻しにきただけですわ。この指輪も家族も、そして財産も……――」
「まさかあなた……はじめからそれが目的でテオに近づいたというの?!」
「あら、ようやくお気づきになったのですか? 最初はあなたの夫を……と思っていたのですけれど、それではあなたと一緒になってしまいますものね。それにあなた、夫よりも大切なものがおありのようでしたし」
くすくす笑いながら、娘は馬鹿にしたような目で私を見てくる。
「ここまでくるのに、苦労したのですから。商家の仕事を覚えてノース家とお近づきになったり、彼の愛馬をこっそり手懐けたり、彼の好みや趣味を把握したり。ああ……彼だけじゃなくて、あなたやご主人についても調べさせていただきましたわ」
やはり運命だなんて馬鹿な話はなかったのだ。
全て、最初から、この娘に仕組まれていたのだ。
「じゃああなた、私が嫌い物ばかり寄越してきたのも……」
「ええ、もちろんわざとですわ」
娘はにっこり笑ってそう言った。
「ふ、ふざけないでっ……! テオと夫に全てを話すわ、あなたの素性も企みもっ……――もう一度全てを失って、この家から出ていきなさいっ!」
「あら、良いのですか? そんなことをしたら、あなただって……――」
「私は別に構わないのよ、過去の出来事が知れたって。たしかに私はたくさんの男に貢がせたけれど、それがなんだっていうの? 何の罪にも問われないわ。結婚前に何人かの男と関係があったことは夫だって知っているし、むしろ他の男を出し抜いて私を手に入れられたのだと、喜んでいたくらいなんだから」
「ええ、たしかにそうですわね。この貴族社会においては、愛人や妾すら公認の存在。あなたは何の罪にも問われません。ですが……盗みは罪に問われましてよ?」
娘が取り出したのは、さきほどのネックレスだった。
「何を言い出すかと思えば……そのネックレスだって、あなたが仕組んだことじゃない。盗んだも何もネックレスはここにあるのだし、これからノースさまにお渡しすれば何の問題もないでしょう」
「ふふ、そうでしょうか? さきほどクロウリー夫人とバーンズ夫人が、あなたのネックレスが素晴らしかったと話題にされていましたよ? あのお二人はお噂好きですし、ノース夫人とも親しくされていらっしゃいますわね」
「なっ……――」
「このネックレスはノースさまが夫人に贈るために注文されたものです。もしノース夫人がこのネックレスをつけてお二人とお会いしたら……あなたがノースさまのものを勝手につけていたのだと、噂になってしまいますわね――……ブラウン商会は、あのお二方ともお取引がございます。その際、それとなく相談したこともございますの。あなたに嫌われているのではないか……と。私に対する嫌がらせのためにあんなことをしたのだと、お二人は思われるかもしれませんわね」
「そんな、そんな噂が広まったら……――」
「あなたは社交界で何と言われるかしら? 気に入らない嫁に嫌がらせをするためなら、ノースさまのものにすら手を出す……ノースさまはもちろんお怒りになるでしょうね」
名門であるノース家の怒りに触れることは、貴族社会から弾き出されることを意味する。
「そうそう、それから……あなたが先日購入してくださったエメラルドのネックレスにルビーの指輪、それに新しくあつらえたダイアモンドのネックレス――……代金はいつ頃お支払いしていただけるのかしら? 近頃お支払いが滞り、ずいぶんお代が嵩んでおりますけれど」
「そ、そんなこと……あなたに関係ないじゃないのっ……!」
「まさか、関係しかございませんわ。あなたのなじみのヴィクトリア宝飾店は、ブラウン商会の傘下ですもの。いつもご贔屓にしていただき、ありがたい限りですわ。きちんとお支払いくだされば、ですけど。ああそれに……お義父さまが誂えられたパーティ用の衣装に観賞用の剣、テオのカフスに銃剣代……この屋敷の増築費用に避暑に求められた別荘地代なんかも、全てブラウン商会が債務を取りまとめておりますの」
「何を……一体何を言っているの……――」
「これまでのあなたの散財で、この家はもう傾きつつあったのですよ? あなた方ったら家の財政状況も知らずに、高価なものばっかりお求めになるんですもの。ブラウン商会が債務を取り立てれば、あなたも無事に没落貴族の仲間入りですわ」
この娘が、何を言っているのかわからない。
たしかにこのところ高価な宝石を求めることが多かったし、夫やテオも……――まさか、まさか。全てこの娘の手の内だったとでもいうのだろうか。
「私、申し上げましたわよね? あなたから奪われたものを取り戻しに来たのだと。指輪に家族、そして財産……――破産する前に誰かに助けを求めても、社交界から弾き出されるあなたには誰も手を差し伸べてはくれないでしょう。お金が無くなって没落し困窮するなんて……自尊心と虚栄心の塊のあなたには、耐えられないでしょうね」
「そんな、そんなことになったら……――」
耐えられるはずがない、そんなこと。
没落貴族だなんて、私が散々嘲笑ってきた下層のものだ。今度は私がその嘲笑の対象になるなんて。
この屋敷も宝石も、今まで築き上げてきた名誉や名声も。全て手放し、みじめな生活を送らなければならないなんて。
娘は震えて何も言えない私を、満足そうな顔で見た。
そしてまた小箱を取り出し、中に入っていたものをこちらに見せる。
中には、先ほどとは別のネックレスが入っていた。ルビーとダイヤなど使われているものは同じだが、デザインが全く異なっている。
「ノースさまのご注文は、ルビーとダイヤをあしらった豪華なネックレス……あなたが身につけたものではなくこちらをお渡しすれば、不名誉な噂が流れることはなくなりますわね。債務の取り立ても、猶予を設けてもかまいませんのよ?」
「急に何を……――」
私をひどく恨んでいるであろうこの娘が、そんな上手い話をするわけがない。
娘は続けて、便箋とペンを取り出した。
「条件は、あなたがこの家から出ていくこと。つてのある修道院に、すでに話をつけてありますの。神の御下で、どうぞ自らの行いを反省なさってくださいまし。お義父さまとテオには、先ほどの盗みを反省して修道院へ入ることにしたと、そう手紙をお書きください」
「まさかこのまま、今すぐに出ていけと……?!」
「だってあなたから全てを取り戻した今、あなたの顔なんて一日たりとも見たくないもの。それに今出ていけば、パーティに参列している皆さまには私からうまく伝えて差し上げますわ。あなたの名誉が守られるような、素敵な言い訳をね……――あなたの選択肢は二つに一つよ。没落貴族となって全てを失うか、修道女になって名誉だけは守り抜くか」
娘はそっと、自らの腹部に手でさする。
「まさかあなた、テオの子を……」
「ええ、ご安心なさって。この子のためにも、この家の財政は私が立て直して差し上げます。お義父さまもテオも純粋で悪い人ではないし、私の思う通りに動いてくれますもの。どうぞ心置きなく、修道院で清貧な生活をお送りください。不名誉な没落貴族の生活よりは楽しいでしょうし……あなたが自らの行いを悔い改めたのならば、呼び戻すことも考えますわ」
この娘は、私から全てを奪っていこうとする。
愛しい息子にまだ見ぬ孫に、従順な夫。貴族としての暮らしも、集めた宝石たちも、自尊心すらも――私が今まで築き上げてきたもの全てを。
けれどこの娘に従うならば、ただ一つ、名誉だけは守られる。
没落貴族か修道女、どちらか選べというのなら――……。
私はわなわなと震えながらも、娘が差し出したペンをとる。
「母の形見のこの指輪、処分されていないか心配だったけれど……あなたが戦利品を取っておく人で良かったわ。私もこのネックレス、記念に取っておこうかしら」
娘は手紙を書く私を見ながら、勝ったとばかりに好き勝手なことを言っている。
「今日はこの後、お義父さまにも懐妊を伝えるわ。私、あなたのことをお義母さまなんて間違っても呼ばないけれど……おばあさまとは呼んで差し上げてもよろしくてよ? おばあさまもこの子を早く抱けるように、よくよく修道院で悔い改めてくださいまし」
修道院での生活なんて、想像するだけでぞっとする。美しい宝石も豪華なドレスも、立派な部屋も食事も何もないのだろう。
けれど……それでも、名誉だけは残るのならば。
「この、悪魔っ……!」
憎々しげに呟くと、娘は天使のような顔でほほえんだ。
「悪魔でも、泥棒よりは良いですわ」