【007】怒りの果てに
イオリが床を踏み抜く音が、戦いの始まりを告げた。
噴出した炎の爆発と共に、イオリは魔王までの距離を一足で踏み越えて襲いかかる。
十歩分はあろうかという距離を踏み抜いたその一足は、爆発の勢いを充てにして跳躍しただけの乱雑な一歩だった。
その手に武器は無く、代わりに炎が吹き上がる。まるで拳が炎に溶けたかのように。
しかしイオリの炎の拳は、魔王の顔を捉えようかというまさにその瞬間、目に見えない壁に阻まれて空中で静止した。
「何ィ!?」
「まずは私の魔法障壁を越えてみろ。でなければ話にならん」
「ぐアッ!?」
魔王の言葉通り、見えない壁に弾き出されてイオリの体は宙を舞う。あの壁を破らない限り、きっと魔王への攻撃は拳一つ届かない。
「だったら……!!」
吹き飛ばされた勢いを回転に変えて、イオリは炎をその身に纏う。身に纏った炎はまるで意思を持った生物のように振る舞うと、イオリを支えて体勢を整えることに貢献した。
炎の支えもあって猫のように体を回して着地するイオリ。その着地に合わせて再び足元で炎を爆発させ、魔王の懐へと飛び込んだ。
その姿に、部屋の隅で様子を伺っていたナナリーゼが声を上げる。
「魔力をもうあそこまで……!? ッ――くうっ……!」
その時、イオリの起こした爆発の余波が、ナナリーゼとゼラフィーナの二人を目掛けて襲い掛かる。ナナリーゼはそれを魔法障壁で防いだが、熱波は容赦なくその壁を殴りつけた。
一方、相変わらず涼しい顔をした魔王は、自身目掛けて跳躍するイオリの姿に眉をひそめる。
「同じ手を……」
そして先ほど同様、魔法障壁を展開。イオリの攻撃を造作もなく遮った。しかし、今度は先ほどと様子が異なっていることにすぐに気がつく。
「おらよ!!」
「ほう……?」
イオリの拳が魔王の魔法障壁に遮られると同時、イオリの身体から茜色の炎が溢れ出したのだ。
溢れた炎は激流のように魔王に襲い掛かり、嵐のような炎の奔流が魔王の魔法障壁を覆いつくす。
濁流に晒される巨石の如く、激しい炎の流れにも魔王は全く動じない。しかし、その炎に晒され続ける魔法障壁からは、少しずつ魔素が溶け出していく。
技術も知識も全く必要としない、力と物量による正面からの制圧。それは古来より現存する最も単純で、最も効果的で、最も強力な戦い方の一つだ。
その圧倒的魔力の量に、魔王の魔法障壁が悲鳴を上げた形だ。
「潜在能力は私に匹敵するか。だが――」
パキン、とついに音を立てて、魔法障壁が砕け散る。結合が解け、その隙間からイオリの炎が水のように滑り込み、魔王目掛けて襲い掛かった。
しかしその全てが魔王に到達する直前で、まるで強風に煽られたろうそくの火ように、あっさりと掻き消えていく。
「――だが、それだけだ。その程度の怒りで何を為せる。私を相手取るには余りに未熟……威勢ばかりの子供と同じだ」
気付けばイオリの右拳は、あっけなく魔王の左手で止められていた。
「てめッ……! クソ、離せ……!」
身じろぎするがびくともしない。イオリは魔王に蹴りを入れようとしたが、それもやはり魔法障壁に遮られる。
今のイオリでは、全力を向けなければ魔王の魔法障壁を破れそうにない。
「今のお前では、私に届きすらしない」
冷たい魔王の言葉に、イオリは吠える。
「ンだと!?]
そして、怒りに任せた炎の嵐が魔王を襲ったが、魔王は軽く右手を振ることでその一撃をあっさりと掻き消した。
それはまるで、子供のわがままをあしらうような軽い動作。それこそがまさに、イオリと魔王の間にある、大きな大きな格の差を物語っていた。
「控えろ」
「ぐァッ――!?」
そして次の瞬間、イオリの視界が反転する。
吹き飛ばされた、と気づいた頃には謁見の間の壁に叩きつけられ、壁が割れるほどの衝撃が背中から流れ込み、イオリの意識は遠くなる。
「がふっ……!」
力を込めたようには全く見えなかったにも関わらず、魔王の僅かな動作でイオリの体がほぼ水平に吹き飛んだ。
単純な身体能力でも、魔王とイオリに差があるらしい。
「所詮お前は、その力を与えられただけで使い方を知らぬ。力にはふさわしい使い方というものがある。激情に任せてただ振るうだけならば、獣にもできよう」
遠ざかる意識の向こうから、そんな魔王の声が耳に届いた。
「その力で何を為すべきか、今一度よく考えよ」
「ちく……しょう……! テメェ、だけは……絶……対に……」
ゼラフィーナに抱き抱えられ、自身を見下ろす魔王の姿を遠目に見据えたまま、イオリの意識はそこで潰えたのだった。
◆
「イオリ様っ……!」
気を失ったイオリの頭を抱き抱え、ゼラフィーナは引きつった声を上げた。取り乱した彼女の姿に少しばかりの物珍しさを覚えつつ、ナナリーゼは魔王に向き直る。
「申し訳ありません陛下、お手を煩わせてしまって……ですが、なぜ加減を? 魔力の制御もままならないお兄様に、魔法障壁が破られるなんて……」
ナナリーゼの視線の先で、魔王は倒れたイオリを眺めたまま佇んでいた。まるで何かを考え込むように。
やがてひとしきり考えがまとまったのか、返事にしてはずいぶんと遅く、たっぷりと間を開けて魔王は呟いた。
「加減などしていない」
「……はい?」
聞き返したのは、遅れた返事が何に対する答えか理解できなかったからではない。
答えの意味が理解できなかったからだ。
ダメ押しするように、魔王は続けた。
「私は加減などしていない。初めから私は、イオリアを叩き伏せるつもりだった。だが、あれは真正面から私の魔法障壁を破った。それだけのこと」
「まさか……一枚とは言えそんなことが……?」
辺りではイオリが放った茜色の炎が、力を失ったかのように揺らいで消失し始めていた。後に残るのはその炎によって焼かれ、焦がされた床と壁、そして天井だけ。
イオリが踏み抜いた床も、叩きつけられた壁も、そして炎によって焼け焦げた絨毯も。先ほどまで炎上していたことが嘘のように炎が蒸発していく。
それは魔法によって生み出された炎が、普通の炎とは似て非なる性質であることを示していた。
魔人の戦いの後では珍しくないそれらの光景が、ナナリーゼの背筋に寒いものを走らせる。
「ククク。面白い」
先ほどまで一切の感情を見せなかった魔王が――否、普段から全く笑わない魔王が、珍しく楽しげに、愉快げに笑う。その笑みを見て、ナナリーゼの表情は自然と難しく引き締まる。
「……私は、恐ろしいです。あれほどの力を、まともに制御しないまま有しているなんて……あの力がいつ再び暴走するか」
「イオリアには魔力抵抗を付けさせろ。昔私が使っていたものが残っていたはずだ。あれならば、イオリアの魔力量でも抑えきれよう。制御については……アルドラークに入学させる」
「……お兄様を選定戦に参加させるおつもりですか」
「元よりそのために呼び戻したのだ。魔力の制御を学ぶにせよ、魔王候補として学ばせるにせよ、アルドラークへの入学が一番早い」
「それは、そうですが……」
「それに、どの道アレは必ず学園へ行く。そうすることでしか叶えられぬ望みがあることを知っていよう」
「望み……?」
「あの目。力に飢えた目だ。己の力を追い求める、獣のような目。力のためならば何でもする……よく知った目だ」
「……」
魔王の視線の先には、床に膝を付いたゼラフィーナに、相変わらず抱き抱えられたままのイオリの姿。気を失ったまま、目を閉じていて反応がない。
そして、そのイオリを抱き抱えるゼラフィーナはじっと魔王を睨みつけていた。
彼女の紫色の瞳に宿るのは強い感情。憎しみとも怒りとも取れぬその感情は、イオリを傷付けられたためか、或いはそれ以外の理由からか。
その二人を一瞥して、魔王は薄く笑う。
「ナナリーゼ、アレに魔法の手ほどきをしてやれ。どの道、最低限の知識は必要だろう。仔細はお前に任せる」
それだけ言い残して部屋を後にする魔王の背中に、ナナリーゼは小さく「……承知致しました、お父様」と告げたのだった。




