【033】 決意
「――ッ! ゼラがッ! ……ゼラが、謝ることじゃないだろ……悪いのは全部……俺なんだ」
思わず浮かした腰をゆっくり下ろすと、先ほどまで詰まっていた言葉たちがこぼれ落ちていく。
「……俺ずっと、力さえあればって思ってた……力があればどうにかなるって信じてたんだ。力さえあれば全部守れる、これ以上何も失わずに済むんだって……でも、違った……」
それはイオリがずっと抱いていた後悔だった。
まるで懺悔のようなイオリの言葉を、ゼラフィーナはただ静かに、寄り添うようにイオリの手を握り返す。そこに言葉は何もない。
「力だけじゃ、ダメだったんだ……結局誰も守れなくて……俺には、その資格が無くって……」
涙がまた、瞳を揺らす。後悔たちが言葉になって行く。文法も脈絡もめちゃくちゃな、思いが次々あふれ出るばかりの言葉たち。イオリの震える唇は、ただ彼女の赦しだけを求めていた。
彼女に赦して欲しかった。幼すぎた自分自身を。
いっそ罵倒でもしてくれれば楽になれただろうに、彼女はイオリの望みなど叶えてはくれなかった。
「……私はあの時……あなたのためなら……死んでも良いと、思っていました」
切れ切れに、しかし確かにそう告げる。それは赦しの言葉などではなく、イオリにとっては更に重い枷になる言葉だった。
ゼラフィーナが口にした言葉が信じられず、思わず彼女の顔を覗く。すると彼女はいつものようにイオリの目を見て微笑んでいた。
震える唇で、イオリは問いかける。
「なんで、そこまで……俺が、伝説の二人の子だからか?」
しかしゼラフィーナは、僅かに首を横に振る。
「いいえ……あなたが、イオリ様だから……です。まっすぐで、誠実で、強くて……それでいて優しくて。私は昔、そんなあなたに……救われたんです」
大袈裟な、と思った。そんなことで自分の命を捨てても良いなどと、本気で思えるものか、と。だが、ゼラフィーナの瞳は至極真面目だった。
彼女は言う。昔のイオリに救われたと。しかしイオリに昔の記憶はない。かつてこちらの世界で過ごしたはずの記憶は、ひと欠片たりとも残っていないのだ。
彼女の言う過去のイオリアは、イオリの中に残っているのかさえ定かでない。
イオリが忘れてしまったそんな過去は、きっと彼女にとって掛け替えのない思い出だったのだろう。
居た堪れなさが募っていく。
過去を覚えていない自分は、彼女を救ったという自分と果たして同じ人物なのか。
ゼラフィーナの望む言葉すらかけてやれない自分が、果たして本当に帰ってきたと言って良いのか。
彼女が命をかけてまで救いたかった”イオリア・クロスフォード”は、本当に今の自分なのだろうか。
握られたままの手から力が抜け落ち、解けそうになった時。今度はゼラフィーナがその指に力を込めた。
「私も……この力のせいで、取り返しのつかない過ちを、犯しました……望んだわけでもない、勝手に与えられた、こんな力のせいで、大切なものを失って……傷つけて。だからイオリ様には、同じ後悔をしてほしく無かった……」
「取り返しのつかない、過ち……?」
イオリの問いかけに、彼女は静かに頷いた。
イオリは確かに過ちを犯した。しかし、それがあと一歩のところで最悪に至らなかったのは、彼女の命がけの献身あってのこと。
彼女によって踏みとどまったイオリでさえ、それでもこれほどの自己嫌悪に陥っているのだ。彼女の言葉が事実なら、彼女は一体どれほどの後悔を――自己嫌悪を、抱えて生きてきたのだろう。
「ゼラは、後悔しなかったのか?」
それはある意味、当然の問いだった。そして彼女も静かに頷く。
「しました。凄く……いいえ、今もしています。もしあの時、別の可能性があったなら、って」
彼女の視線が、イオリから月に移る。寂し気な視線は、まるで過去を思い返すかのように揺らぐ。
「強い魔力は、心の奥底に眠る感情……怒り、悲しみ、憎しみ、そして恐れ。それらを増幅させて、表に引きずり出してしまいます。それは決して、万能の力なんかではありません。必ず自分を傷付ける、呪いです」
「呪い……」
「どんなに否定しても、目を逸らしても。あの時私を突き動かしていたのは、紛れもない私の心そのもの。私はあの時、自分の中に巣くう化け物に気が付いて、自分自身を嫌悪しました」
ああ、そうだ。イオリもそうだった。あの時イオリの中に渦巻いていたのは怒りと憎しみ……そして享楽。
圧倒的な力を振るい、他者を虐げる喜び。そしてそれを心の底から楽しむ、醜い自分自身。
あれが本当の自分だと言うのなら、イオリは自分のことを嫌悪し続けることになる。あんな醜いものが自分の本当の姿だと、認めたくなかった。
「だから私は、この力を使わなくて済むように……魔力の制御を学び、その上で魔力抵抗で封じ込めて。この力を、拒絶することを選びました……自分の過ちと、向き合うことが怖かったから」
イオリの左手首で輝く銀の腕輪を見て、ゼラフィーナは目を細める。何の因果か、かつてゼラフィーナを戒めるためにあったはずの銀の枷は、今のイオリを救っていた。
その救いを与えてくれた彼女は、イオリに視線を移してまた微笑んだ。
「でも、あなたは優しい人だから……本当の強さを、知る人だから。きっと、必要になればまた……その力を使うでしょう? だからあなたには、知っていて欲しい。私のような過ちを犯さないために、正しい力の、使い方を」
そう告げると彼女は、イオリの指をゆっくりと撫でた。
「力を手にする恐怖を知った今なら、あなたにもわかるはず。力そのものに善悪はなく、誰かを破滅させるのも、救うのも、どちらも同じ力だと言うことを。全ては……使う人の心次第なんです」
繋がれた指先から彼女の想いが流れ込んでくるようだった。それは確かな、温かな想い。
「だからこそ、その力に呑まれても、その力を恐れてもいけません……為すべきはただ、問い続けること。あなたの今、なすべきことを。そして、あなた自身の使命を。もしいつか、あなたの為すべきことに気づいた時……その時はきっと、その力があなたの道を切り開いてくれるはずだから」
力から逃げない強さ。過ちに立ち向かう覚悟。そして――次を恐れない意思。彼女の言葉には、再びイオリを立ち上がらせようとする、強い想いが込められていた。
それはきっと、彼女が長い間後悔し続けてたどり着いた、一つの答えなのだろう。
そしてその答えが、今のイオリの手を引いている。もう一度立ち上がれと。
「けど……また、同じことが起こったら……」
「その時はまた、私が止めます。いつでも、何度でも」
「止めるって……聞いたよ。ゼラのその力は、禁忌の力、なんだろ? 使ったことが知れたら、今度こそ――」
「だとしても、私が止めます。……あなたを止めるのは……救うのは。いつも私でありたいから」
「えっ……」
驚いて彼女の顔を見ると、彼女は照れるようにはにかんでいた。
不思議ともう、イオリの中に恐怖はなかった。きっと彼女は、無理をおしてでもイオリのために駆けつけてくれるのだろうことがわかったから。
先ほどまで感じていた孤独が嘘のように消えていく。目の前の彼女が寄り添っていてくれる。胸の中に宿るその暖かさが、イオリに勇気をくれた。
だからもう、大丈夫だった。
「ありがとう、ゼラ……もう、大丈夫だ」
「はい、イオリ様」
もう一度見つめ合って、どちらからともなくふっと笑う。孤独と恐怖に震えていた幼いイオリは、とっくにどこかへ行ったようだった。
不意に、月光に反射してイオリの左腕に嵌められた銀の腕輪が輝いて、そういえばとイオリは口を開く。
「これ、良いのか? 俺が使って。ゼラのだろ?」
するとゼラフィーナは「はい」と頷き、続けた。
「私にはもう、必要のないものですから」
その言い回しを不思議に思い、意味を問おうとしたが、ゼラフィーナは静かに首を横に振った。それ以上は何も語ることはないと言うように。
それから言葉に迷って逡巡しているうち、二人の間に静寂が訪れた。
月明かりに照らされる中、お互いに何も語らず、何も告げず。ただ静かに、視線を交錯させるだけの時間が過ぎていく。
但しそれはゼラフィーナが眠っていた時のような、押し潰されるような昏い沈黙ではなく。ましてや言うべき言葉を選び立てている時のような、気まずい沈黙でもない。
ただ、この暖かさを掻き消すのが勿体無くて、不用意に口を開くことが憚られるような、心地の良い沈黙だった。
やがてゼラフィーナの瞼が、ゆっくり閉じられようとしていることに気付く。
昏睡状態から目覚めたばかりだと言うのに、長話に付き合わせてしまった。きっと無理していたのだろう。そう言う性格だ。
少しずつ彼女の瞼が閉じて、穏やかな寝息が聞こえ始めたところでイオリはようやく、彼女に握られた自分の手をゆっくりと引き戻した。
布団の中に彼女の細い指を潜り込ませ、立ち上がる。
「おやすみ、ゼラ」
そしてイオリは部屋を後にした。明日、彼女が目覚めたら、今日言えなかった礼をちゃんと言おうと決意して。
月明かりに照らされた彼女の寝顔は、やはり彫刻のように美しく。そしてどこか、暖かかった。
――それがイオリの見た、ゼラフィーナの最後の姿だった。
その日を境に、ゼラフィーナはイオリの前から姿を消した。
第一部 第七階梯の魔人(上) 了
他に書きたい話があって続きが書けてないので一旦お休みします。
書きたい奴が落ち着いたら続き書きます。
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