【030】決戦
炎の翼を振り乱し、炎の腕で地面に爪を突き立てて、炎の尻尾を所在なく揺らす。今のイオリは炎の獣を人がまとったようにも、獣と人の合いの子のようにも見える姿をしていた。
体の節々から炎を噴き上げ、二人の姿を金色の双眸で捉えたイオリはニヒルに笑う。狂気と灼熱に呑まれた破壊の化身は、もはや言葉では止まらない。
「トルナス、トルナス、トルナァァァァァァァス!!」
咆哮に合わせて空気が轟く。茜色の炎に模られた爪が地面をえぐり、大地が赤熱する。
まるで僅かに残った理性が、その名前を色濃く覚えていたかのように。
トルナスの名を連呼するイオリの瞳にはもはや、知性は感じられない。衝動だけで敵を見据え、その力を振るう暴威そのものだ。
膨大な魔力が胎動し、イオリの体を茜色の炎が覆いつくす。みるみるうちにその炎が体の一部のように振る舞い、炎の獣へと変容する。
「チィッ……! その姿、いよいよ獣にまで堕ちたかイオリア・クロスフォード……! そこまでやりたければ、相手をしてやる!」
「トルナス、ダメ! 今のお兄様を相手にしては――!」
「下がっていろナナリーゼ! 奴は僕が倒す!」
イオリに充てられたのか、トルナスまでもが冷静さを欠いてナナリーゼの制止を振り切った。彼の周りに逆巻く風を見て、ナナリーゼはこれ以上の説得の無意味さを理解する。
ならば今、ナナリーゼのやるべきことは他にある。二人の戦いに巻き込まれないように他の者たちの身を守ることだ。そう決意したナナリーゼは手早く辺りを見渡し、状況の把握に努めた。
左手側には先ほどイオリが化け物たち諸共破壊しつくした森林が、未だ消えることのない炎を燻らせて煙を上げている。そしてその傍らには、マテューの体が本来あるべき一部分を欠損して横たわる。
息は、もう無い。先ほどナナリーゼを逃がすために彼自らが囮となった結果だった。
とうとう堪えきれなくなったのか、ポツポツと降り出した雨が彼の体を冷たく打ち付ける。
すぐに強くなる雨脚に、ナナリーゼは唇を噛み締めた。
そしてその光景から目を逸らすように、今度は自身の背後へ視線を向ける。離れたところには先ほど襲われて気を失ったままのサルティムとトゥイス。そして更にそこから離れたところにフィスタの姿。
こちらは三人ともまだ息がある。そのことに無意識に胸を撫でおろし、そして最後の一人、すぐ傍で倒れたままのゼラフィーナを視界に捉える。
息は――ある。微かにだが、まだ生きている。
だが、状況は最悪だ。申し訳程度にイオリの上着で止血されているとはいえ、引き裂かれた背中から今もなお血が流れ出ている。このままでは長くないだろう。
確かに、ナナリーゼとて彼女に対して思うところがある。しかし、だからとここで見捨てて良い理由になりはしない。何より、彼女もまたナナリーゼが庇護すべき魔王国民の一人なのだから。
迷いなく、彼女の傷口を魔法で凍結して止血を行う。応急処置だが多少はマシになるだろう。
しかし、重症の彼女をこの場から無理に動かすことは危険だ。ならばとナナリーゼは、その場で魔法障壁を構えた。
枷を外したイオリや全力のトルナスに劣るとはいえ、ナナリーゼとて彼らと同じ第四階梯級なのだ。守りにだけ集中すれば、二人の戦いの余波に巻き込まれても防ぎきれる。それを自負するだけの努力と研鑽は積み重ねてきた。
はずだった。
「オ゛オ゛オ゛オオアアアアアアアアアッッッ……!!!」
イオリが――獣が咆哮する。その正面に生み落とされたのは火炎の球体。太陽のように煮えたぎる灼熱の球が瞬く間に収束すると、次の瞬間にはトルナス目掛け放たれた。
「ッ――!」
その球体をトルナスは魔法障壁で受けようとして、何を思ったのか突如、体を大きく逸らした。防御ではなく回避を選んだのだ。そしてその判断は、この上なく正しかった。
火球はトルナスの目の前を掠めるように抜き去り、森の彼方へと消え去り、そして。
「きゃあ――ッ!!」
着弾。直後に鳴り響くけたたましい轟音と共に、辺り一帯を爆風が襲った。
その余波が時間差でナナリーゼ達を襲い、降り頻る雨を瞬く間に吹き飛ばした。それは彼女が思わず叫び声をあげてしまうほどの衝撃だ。
もしトルナスがあの攻撃を防いでいたなら、この爆発が目の前で起きていた。そうなれば、ここに居る者たちの命は――
「諸共か……! どうやら本当に獣へ成り下がったようだな!」
――戦慄するナナリーゼを他所に、トルナスはその指先に風を集める。風が辺りの火の粉を巻き上げ、すぐに巨大な風の刃へ変貌する。
「緑色の魔法刃!!」
放たれた刃は第三階梯、緑色の魔法刃。トルナスが最も得意とする、汎用魔法の一つだ。
観劇を好む彼らしい、大仰な振る舞いから放たれた無数の刃は、しかし確実にイオリの退路を塞ぐようにして襲い掛かる。
「グゥゥウウウウオオオオオオオオオオッッッ!!」
だと言うのに、回避不能に思えたその無数の刃が、しかしイオリの薙ぎ払いによって呆気なく掻き消えた。
魔法の体すら成していない、巨大なだけの炎の左腕が、トルナスの放った刃を次々と焼き尽くしたのだ。
「何ッ!?」
続けて、イオリの突き出した巨大な右腕が炎へと還り、トルナス目掛けて襲いかかった。
すぐさまその炎の波を魔法障壁で凌いだトルナスは、しかし炎の中から現れたイオリ自身への反応が遅れる。
それでも咄嗟に体を翻し、イオリの不意打ちを一度回避した上で改めて魔法障壁を展開できたのは、トルナスの戦闘経験の豊富さによるものだろう。
だが、その経験すらも理不尽な破壊が上回る。
まるで薄氷でも叩き割るかのように。トルナスの魔法障壁を左腕に体重をかけて踏み砕くように粉砕したイオリは、未だ分散したままの炎が戻っていない右手で彼の顔を正面から掴み、地面へ叩きつけたのだ。
「ごァッ!?」
雨によってぬかるんだ地面に、トルナスの顔が無様に叩きつけられた。
しかしそんなことにも構うことなく、イオリはもう一度炎の左腕を振り上げる。熱風が舞い、雨を蒸発させて、茜色の炎が巨大な獣の腕を構築する。
「舐め、るなァァァァァァァッッ!!」
しかしその腕が振り下ろされるよりも先に、地面に組み伏せられたままのトルナスが動いた。
未だ自由に動く彼の腕が風に呑まれる。まるで肘から先を剣とするかのように。伸びた刀身は落ち葉を巻き上げ、引き裂きながらイオリの喉元へ迫った。
「ハッ!」
その一撃を、しかしイオリは口角を吊り上げ鼻で笑い、背中を大きく反らして難なく回避する。
更にはそこから上半身を反らした拍子に、地面に降りた左腕を、今度は下から上へと振り上げた。
「ガッ――」
トルナスの体が宙を舞う。巻き上げられた火花や泥水と共に、空中を錐揉みする。そして。
「失セロォ!!」
宝石のような美しい輝きが、宙を舞うトルナスの傍に生み落とされた。大量の灼熱を圧縮したような力の脈動が、煌めきと共に解き放たれる。
「トルナス――ッ!!」
ナナリーゼの叫びをかき消すように、辺りの空をトルナスごと灼熱が焼き尽くす。
目の前に突如現れた巨大な太陽は、一瞬のうちに近くの枝葉を焼き尽くすと、トルナスの体を吹き飛ばした。
そして水と炎が蒸発すると同時、近くの幹に叩きつけられたトルナスの体が、無造作に地面へ転げ落ちた。
死んではいないはずだ――恐らくは。しかしナナリーゼは、そこから一歩たりとも動くことが出来なかった。
使命があったわけではない。ただ、恐怖に縛り付けられていたからだ。
トルナスが最後に放った魔法、第四階梯の魔法剣。これはトルナスが扱える魔法の中で最も強力で、そして彼が最も嫌う魔法だった。
剣とは魔法を持たない純人が魔法に対抗するため生み出した野蛮さと非力さの証であり、魔人が剣を持つのは魔人という種に対する愚弄である、とはトルナスや彼の所属する保守派閥――排外主義勢力がよく口にする言葉の一つだ。
故に彼は、魔法剣という魔法を嫌っていた。剣から着想を得て魔力を圧縮したこの魔法を、純人の模倣だと歯噛みしながら。
しかし理屈上強力であることは間違いなく、最後の最後でトルナスもその魔法剣を使用したのだ。
つまり、今のイオリはあの誇り高いトルナス・ディルヴィアンにさえ実利を取らせるほどの相手と言うこと。
そんな相手に今のナナリーゼが勝てるかと問われれば、当然否だった。
「次は――テメェか? 妹ォ……!」
「ひっ……!」
雨脚が強くなる森の中、暗がりの向こうの薄気味悪い金色の双眸が爛々と輝き、舌舐めずりするようにナナリーゼを捉えていたのだった。




