【003】知らない婚約者
とにかく、まずは状況を理解しなくてはならない。そう思って、イオリは彼女を部屋に招き入れた。
ドアの前でいつまでも突っ立って話すわけにもいかない、と言う配慮のつもりだったが……そもそも女一人を部屋に連れ込むのはどうなんだ? と思った時には既に、二人は部屋に置かれていた椅子に、向かい合うように腰掛けていた。
婚約者と名乗った彼女、ゼラフィーナ――彼女の名前を上手く発音できなかったので、ゼラと呼ぶことにした――はそれから少しだけ涙を拭って、ポツポツと少しずつ語り始めたのだった。
「……ことの始まりは、今から十三年前まで遡ります」
「そりゃあまた……随分と遡るな……」
彼女曰く。魔王の父、そして勇者の母をもつイオリア――つまりイオリのこと――は、当時六歳のある日、母と共に事故に遭い、行方不明になっていたのだという。
「待て待て待て。いきなり話の腰折って悪いんだけどさ、その魔王だとか勇者だとかって、一体何の話なんだ?」
「はい、イオリア様のお父上は今、私たちがいる魔人の国、ネフェルティアを治める王――つまり、魔王の座に就いておいでです。そしてお母上、マリアリーゼ・クロスフォード様は、純人の国、聖王国ハルロニアにて、聖剣アディス=ロアに選ばれた勇者の称号をお持ちなのです」
ゼラフィーナの言葉を何とか咀嚼しようとうんうん頷いてみたが、やはり何を言っているのかさっぱりわからなかった。
唯一理解できたのは、今のイオリの知識では恐らくいくら考えても理解できないと言うことだけだ。
それに、逐一話を止めていても埒があかない。
一旦全て聞いてから改めて聞くことにしたイオリは、諦め気味に「……やっぱいいや。続けてくれ」と考えることを放棄した。
「はい。それで、十三年前の事故についてですが……公式には移動中の遭難とされておりますが、実際にはある魔法が暴走し、それにお二人が巻き込まれたのです」
「マホー……っすか」
「はい。それから長らく捜索を続けましたが発見には至らず、公式には行方不明と……ですがようやくお二人を呼び戻す準備が整いましたので、召喚魔法を使用し、お二人を呼び戻しました。これが三日前の話です」
余りにうさんくさすぎて半笑いで聞いていたが、ゼラフィーナの表情は至って真面目だ。しかし一体、誰がそんな作り話を信じるというのだろう。
冗談に付き合っている暇は無いんだぞ、勘弁してくれよ。そう思って頭を搔こうとしたら、手の甲に硬い角が当たって現実に引き戻された。
魔王だとか勇者だとか魔法だとか、イオリを騙そうとしているにしてはえらく杜撰な嘘に思えたが、この頭に生えた現実だけはどうにもごまかしようがない。
ひょっとして、彼女の言っていることは事実なのでは……? そんなあり得ない可能性が浮上する。
いやいやまさか、と頭を横に振るが、その拍子に嫌なことを思い出してしまった。
母が昔言っていたのだ。『お父さんは別の世界で王様をやっているのよ』なんてふざけた冗談を。
『別の世界?』
『そう。そしてお母さんは勇者様なの。お互い敵だったこともあるけれど、一緒に戦ったこともあるわ。お父さん、とっても素敵だったのよ……』
時折遠い目をして父のことを語る母の姿。なぜ今頃こんなことを思い出してしまうのか。
母の記憶が引き金となって、ゼラフィーナが使っている言語は昔、母が自分の故郷の言葉だと言って教えてくれたことも思い出した。
これではまるで、彼女や母の語った言葉が――ここが別の世界であるということが、事実であると肯定しているようなものではないか。
「……魔王に勇者に魔法、ね……」
納得はできなかったが、ここまで状況証拠が揃ってしまうと納得するしかなかった。
ここからの逆転劇は名探偵にすら難しいだろう。そして生憎とイオリは名探偵ではないので、ここからはもう諦めるしか道がない。
「因みに、人違い……って可能性は……?」
それでも悪あがきするイオリの退路を、ゼラフィーナは首を横に振ることで呆気なく断ち切った。
「いいえ、それはあり得ません。今回使用した魔法は、イオリア様の内に眠る魔力を辿ってこちらにお連れする魔法です。間違えようはずもございません。それに――」
「それに?」
「――昔お会いした時の面影が残っておいでです。赤い髪と黒い角も魔王陛下によく似ておいでですし、その一方でマリアリーゼ様に似た金色の瞳と、柔らかな雰囲気もお持ちで……大人の男性に成長されたのだなと、そう思いました……」
「……あ、そう……」
ひどく流暢に、心なしか頰を紅潮までさせて誉めてくれているようだが、まぁつまるところ人違いと言う可能性もなさそうだった。
それから、少しばかりぎこちない沈黙が続いた。イオリは思考を整理するためにその沈黙を必要としたが、目の前で居住まいを正した彼女にとっては、別の理由で必要な沈黙だったらしい。
「それで、あの……イオリア様。申し上げにくいのですが……」
そして意を決したように顔を上げた彼女の瞳が、わずかに揺れてイオリを見つめる。どうやら良い知らせではなさそうだった。
「実は……マリアリーゼ様の召喚に失敗してしまって……マリアリーゼ様の理力を辿ったのですが、召喚できたのはイオリア様だけでした、申し訳ありません……」
ゆっくり、彼女は居た堪れなさそうにそう告げた。
彼女の言うことが確かなら、マリアリーゼとはイオリの母、黒瀬真里のことだったはずだ。そして、もしそうだとするならば召喚とやらが失敗した原因にも心当たりがある。
「……多分、失敗じゃない。母さんは二年前に死んだんだ。病気でな」
あの時の光景を思い出すと、思わず視線が下に落ちていく。その時、ガタンと大きな音がした。
「そんな……!」
思わず顔を上げると、ゼラフィーナが立ち上がって両手で口元を抑えていた。
どうやら立ち上がった拍子に椅子を倒してしまったらしい。その様子からも、彼女が想像すらしていなかったのだろうことが窺える。
或いは、イオリが無事だったからこそ余計に、かもしれない。
イオリにとっては既に過去のことで、もはや今更だ。彼女の驚く動作が、向こうの世界と同じであることに親近感を覚えるくらいの余裕もあった。
しかし、彼女はごめんなさいと呟くなり、再び涙をぽろぽろこぼし始めた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……私の、私のせいで……」
「お、おい……泣くことないだろ……」
当然、母が亡くなったのは彼女のせいなどではない。無理が祟って体調を崩したことが原因だ。
彼女に謝られるようなことは何一つないというのに、彼女は「もっと早くお呼びできていれば……」と泣いていた。
「泣くなって……クソ、何なんだよ……」
こういう時どうすれば良いか知っているほど、イオリは女性慣れしていない。おかげで彼女の扱いに困ってしまった。
思わず頭をかくと、生えたばかりの角が何度も手の甲に当たって余計に苛立つ。
正直に言えば、泣きたいのはこちらの方だった。
どこかもわからない場所に突然連れて来られて、魔法だの魔力だのと訳の分からない単語を並べられ、挙句にこの髪と角だ。今誰に一番泣く資格があるのかと言えば、それは間違いなくイオリだろう。
かと言ってここで自分まで泣き出してしまえば、いよいよ収拾がつかなくなる。泣きたいのに泣けない状況というのは、何度経験してもうんざりするものだ。
そうして諦めと共に大きなため息を一つついて、イオリが彼女を慰めるための言葉を選び始めた時だった。
コンコン、と再び扉が鳴った。こんな時にまた客か? そう思い視線をそちらに向けると、返事するより先に扉が開いた。
「お目覚めになられたのですね、お兄様」
現れたのは、小柄な少女だった。