【022】正しさの正しさ
「お兄様のいらっしゃった場所では、誰も魔法を使えない……のでしたか。確かにそれなら……お兄様の言い分も、多少はわかる気もします」
教室を出る際、ナナリーゼが必要以上に言葉を選んでそう告げた。
しかし、結局のところナナリーゼもイオリの意見に理解を示しても、同調することは無かった。
わかっていたはずだったが、それでもイオリは理解していなかったのだ。この世界が、元居た世界とは全く別の世界であることを。
世界が異なるとは秩序が異なることであり、あるべき姿も当然変わるのだ。大人が力を持っていた向こうの世界とは違い、こちらの世界では子供でも力を持っている。異能の力がそれを可能にする。
だからこそ、子供にも義務や務め、力を持つ責任が求められる。至極当然の理屈だった。
だと言うのに、イオリの心は晴れなかった。
「イオリ様」
モヤモヤとした想いを抱えたまま教室を出ると、自分を呼ぶ声が聞こえて視線を上げた。
視線の先で、ずっと待っていたらしいゼラフィーナがこちらに駆け寄ってくる姿が見えた。
「……悪い、待たせた」
「いえ。勝手に待っていただけですから。……何か、ありましたか?」
僅かに微笑んだ彼女だったが、すぐに心配そうに瞳を揺らす。どうやら彼女には、イオリの消沈もお見通しらしかった。
「いや……ただ、やっぱ俺がいた場所とは違うんだなって、そう思ってさ」
「イオリ様……」
愚痴るようにこぼすと、ゼラフィーナの形のいい口元が一緒に下がり、彼女の紫色の瞳がイオリだけを映し出した。
そうして彼女はするりとイオリの右手を取って、その手を自身の両手で柔らかく包み込んだ。まるでイオリの右手を温めるかのように。
突然のことに呆気に取られていると、彼女はゆっくり口を開いた。
「帰りたい……ですか? ここに居ることは、辛くは……ないですか?」
それは沈痛な問いかけだった。この世界とあちらの世界。二つの世界の違いは、今更ながらイオリにショックを与えた。
どこかでやはり、自覚しきれていなかったのだろう。この世界が、イオリの知る元の世界とは違うと言うことを。
だからこそ急に孤独を思い出したが、彼女の温もりに触れてその孤独が和らいだ。
今まで一人だったイオリにとって、彼女はいつも暖かい。出会ってまだ一月も経っていないと言うのに、お互いのことを知り尽くしたような妙な安心感があった。
幼い頃にも面識があったと言う話が確かなら、もしかするとイオリの中にその時の記憶があるのかもしれない。その時の記憶が、彼女の温もりに懐かしさを感じさせているのだろうか。
「……いや、大丈夫だ。ありがとな、ゼラ」
ほっと一息ついたことで、頭の中が落ち着いた気がした。必要以上に孤独を恐れることはないのだと。
ぎこちなく、それでもイオリが笑って見せると、ゼラフィーナも「はい、イオリ様」と吊られるように微笑んだ。
そうしてゼラフィーナがイオリの手を離して、彼女の温もりが薄れ出した頃。突然、聞き覚えのある嫌味な声が二人の間に水をさした。
「全く……第四階梯級の格も下がったものだよ。まさか、あんなことを聞くなんて。同じ第四階梯級の僕まで馬鹿にされてしまう。あんなのが魔王候補と言うのも不愉快だ。比べられる僕の身にもなってほしいね」
チラリと声の主を盗み見れば、いつものように取り巻き達に囲まれて、ご高説を賜っているトルナスの姿。イオリに気付いているのかいないのか、どうやら先ほどの一件について話しているらしかった。
「一体どうやって第四階梯級に上がったのやら。いや、きっとあのハスブルートの差し金だな。ハスブルートは昔から悪だくみが得意だと聞く。きっとあの女もその例にもれず、姑息で卑しく狡猾なのだろう。裏で一体企んでいるか――」
「オイ!」
「――おや、これはこれは……イオリア・クロスフォード様ではございませんか。ああ、特別措置とはいえ第四階梯級になられたのですから、こうお呼びすべきでしょうか。イオリア・ハルロス・ネフェル・ラトゥア・クロスフォード様、と」
ハスブルート――それはかつてトルナスが口にした、ゼラフィーナに対する蔑称だ。意味はわからずとも、それが良い言葉ではないことは彼女の反応を見ても明白だった。
我慢できずにイオリがトルナスに向かっていくと、トルナスはイオリのことを認識するなり嫌みな笑みを口元に浮かべてニタリと笑った。
誰の目にも、皮肉であることが明らかだった。
「言いたいことがあるなら直接言えよ。自分の囲いと仲良く陰口なんざ、随分と回りくどいじゃねえか。それが魔王らしい振る舞いって奴か?」
ただならぬ気配を察したのか、先ほどまでトルナスの周りを歩いていた生徒たちはすぐさま立ち去り、彼らの視線の先にイオリとトルナスだけが残された。
「ならば言わせてもらうがね、イオリア・クロスフォード。先ほどの発言や魔法階梯を軽んじるようなその態度。そして何より、汚らしいハスブルートを未だ婚約者とし続け、平然と傍に置くその無神経さ。何もかもが魔王に……いや、魔人にすら相応しくない」
取り巻きたちを下がらせて、トルナスは一歩前に進み出る。まるで、受けて立つとでも言うように。そんな彼の言葉にイオリは反論する。
「俺は何を言われようが構わねえよ。確かにお前の言う通り、第四階梯ってのがどれだけの意味を持つかなんて知りやしねえ。けどな……ゼラは関係ねえだろうが……!」
「いいや大アリだ。まさかその女の血が、我らや世界にとってどれほど悍ましいものか、知らないなどとは言わせんぞ」
「知るわけねえだろ! 血だの生まれだの、そんなくだらねえ理由で人を蔑んでも許されるような、ふざけた理屈なんか知りたくもねえ!」
「ふざけた理屈だと……? なるほど、そういうことか……さては既に、その毒婦の色香に惑わされ、夜を共にしたな? さぞ抱き心地は良かっただろうな。その女に一体何を囁かれた。世界が自分にしてきた仕打ちでも、悲劇交じりに語ったか!?」
「テメェ――!」
「お辞めなさい二人とも! 人前でみっともない!」
今にも掴み掛かろうとしたイオリとトルナスの間に、見かねたナナリーゼが割って入った。しかしイオリは止まらない。
「今の言葉、取り消しやがれ!」
ナナリーゼ越しにイオリは咆える。対してトルナスは相変わらず不敵な笑みを浮かべて、何かを思いついたように口を開いた。
「取り消してほしければ、それこそ我々の流儀に則るべきだ。そうやって喚くのではなくな」
「……流儀だと?」
「古来より、魔人は互いに主義主張を違えた時、己の誇りを賭けて決着をつけた……決闘だ」
「トルナス、あなた……!」
ナナリーゼが息を呑む。しかしイオリはすぐさま「上等だ、やってやるよ!」と返事するなり前に進み出ようとした。そのイオリをナナリーゼが細い腕で静止する。
「いい加減になさいトルナス! そんな前時代の遺物を今更持ち出すなんて……これ以上続けるならば、アスクタート先生にも声をかけますよ……!」
アスクタートの名前を聞いた途端、トルナスの表情が一瞬翳る。その後、逡巡するように視線をさ迷わせ、そして。
「……フン、まぁ良いさ。いずれ誰が魔王に相応しいかすぐにわかる。精々、怪我しないようにでも気をつけたまえよ、イオリア・クロスフォード」
それだけ言い残すと取り巻きたちを引き連れて、トルナスはその場を去っていったのだった。
トルナスの背中が見えなくなったところで、イオリは再び声を荒げた。
「何で止めるんだよ! アイツが四大貴族だからか!? それとも、ゼラがハスブルートって奴だからか!?」
「はい、そうです」
ナナリーゼのさも当然と言わんばかりの態度に思わず言葉が詰まった。しかし、イオリを無視してナナリーゼは続ける。
「今ここでトルナスと決闘して負ければ、次期魔王候補はトルナスでほぼ確定します。そうなれば何の後ろ盾も、政治能力も持たないお兄様は、明日にでも学園を追放されることでしょう。その時一番困るのはお兄様ご自身なのでは?」
「そんなもん関係ねえよ!」
「だとしても、彼女がこの世で最も疎まれるべき血を引くことは事実です。今更、お兄様一人がそれに異を唱えたところで世界は変わりません。彼らも彼女も、それが当たり前の世界で生きてきたのですから」
余りに冷たい言い分に、思わずゼラフィーナへ視線が向く。彼女は俯いたまま、表情を曇らせていた。彼女のためにも、イオリは反論しなければならないと思った。
「今までがそうだったからって……これからもそれでいいわけないだろ! この学園はみんながお互いを知るために建てられた、身分の関係ない平等な学園じゃなかったのか!?」
彼女の言い分に悔しさを覚えてイオリがそう反論すると、わざとらしくため息をついたナナリーゼは淡々と告げる。
「この学園に平等なんてものはありません。人種の隔たりも生まれの格差も当然にあります。それを無理矢理無くせば問題解決だと、お兄様は本気でそう思っていらっしゃるのですか?」
ナナリーゼの纏う空気が変わり、言葉に詰まる。今のナナリーゼは、まるでいつかの魔王のような冷たい目をしていた。
「そうじゃ……ないのかよ」
「口で平等を叫ぶだけなら誰でもできます。自分の理想通りの世界にしたいなら、どうぞご自分で動いてください。まさか、口で平等を叫んで周りを批判するだけなんて、そんな馬鹿げた理屈が通ると考える歳でもないでしょう?」
「けど、こんなことすぐにやめた方が良いに決まってるだろ……!」
「決まってる? 誰が決めたんです? お兄様ですか? この世界の歴史も、この世界の文化も、この世界の政治も理解していないお兄様が、何を基準に? これがあるべき姿なのだからお前たちが変われ、その際に被る問題は全てお前たちが解決しろ。そんな子供のわがままを、一体誰が聞くとお思いで?」
「それは……」
「だから私は散々言っているのです。世界を学び、術を知れと。それとも、お兄様の持つその力で、お兄様が考える悪を断じて世界を変えますか? 主張が異なる相手を排除して? そんなの、主張が違うだけでやっていることはトルナスと全く同じではありませんか」
トルナスと同じ。その言葉が何よりイオリの胸に突き刺さる。
ゼラフィーナを侮蔑するトルナスも、それを否定するイオリも、結局のところ自分の方が正しいと主張しているだけ。その正しさを保証する者は何処にもいない。
イオリにとっての正しさは、正義は。結局、元いた世界で築かれた、秩序と法によって守られていたに過ぎなかったのだ。
今、イオリの正しさを保証してくれる者は、誰一人として居なかった。
愕然とするイオリに、再びナナリーゼはため息をつく。
「わかったなら、今は少しでも学んでください。世界を変えたいならなおのことです。それに、どの道今のお兄様ではトルナスには勝てません。あんな性格でも魔王候補の筆頭格。生徒に限れば魔人最強です。勝ちたければ学んでください」
呆れまじりにそう言い残して、ナナリーゼもその場を後にした。残されたのはその様子を遠巻きに眺めて、そして解散し始めた生徒たちとゼラフィーナだけ。
やがてそっと歩み寄ってきたゼラフィーナが、イオリを庇うように――或いは慰めるように。再びイオリの右手をそっと両手で包みこんだ。
「……そんなこと……」
ナナリーゼの冷たい考えに反論するための言葉を持ち合わせて居ないことが、今は何より悔しかった。




