ロマンス小説に憧れているので、学園で運命の相手を探そうと思っていたらなぜか次期公爵様に溺愛されていました!
『いやっ! 離して!』
『声をあげたってこんな路地裏には誰も来ねぇよ』
『やっ! 助けて……っドミニク様っ!』
『――彼女に触れるな』
瞬間、体がふわりとあたたかいものに包まれた。
サンダルウッドの香りに、強ばった体から力が抜ける。
――あぁ、彼が来てくれたんだわ。
いつだって、私のピンチに駆け付けてくれる私だけの王子様。
◇◆◇
「はわわ……! ドミニク様、なんて素敵な方なの! 私もこんな素敵な方に守られたいわ……!」
流行りのロマンス小説を読み、部屋に響いた恍惚とした声の主――シエラ・レインズワースは、うっとりと天井を見上げた。
今読んでいる小説は、『花の乙女と運命の王子』という、貴族令嬢の間で人気が爆発している本だ。
主人公の別荘の近くにある花畑で、熊に襲われそうになったところを偶然通りかかった王子、ドミニクが華麗に熊を撃退して主人公を助ける。助けてくれたお礼にと手料理を振る舞うと、普段はシェフが作ったものしか食べないドミニクが新鮮に思い、足繁く通うようになる。そうしている内にお互いに惹かれるようになり、2人は恋仲となるのだが、2人が結ばれるまでに数多の困難が待ち受けているのである。そして、主人公がピンチに陥ると、すんでのところでドミニクが助けに来てくれるのである。困難を乗り越え、2人はめでたく結ばれる、といった内容のものである。
貴族令嬢の間では、ドミニクは“理想の王子様”と言われているのだ。
金髪翠眼の整った顔に優れた運動神経に騎士に劣らないほどの剣術の腕、主人公を一途に想い続け、いつでもピンチに駆け付けてくれる。
唯一の欠点は、彼は小説の人物であるということ。うら若い令嬢たちは、それを理解していても、否、しているからこそ、自分の婚約相手もそんな方にならないかしら、と夢想するのだ。
そして、シエラも例に漏れずその内の一人である。
友人に勧められて読み始めた本だが、あっという間に物語にのめり込んでいった。
とはいえ、もちろん現実にそんな完璧な人はいないと分かっている。分かっているが、頭の中で妄想するくらいは許してほしい、と思う。
シエラは現在15歳だ。この国の結婚適齢期は18歳から20歳ほどなので、このまま何も無ければその頃までに親が決めた婚約者と結婚するのだろう。
もちろん、シエラも貴族の娘なので政略結婚に異を唱えるつもりはない。しかし、恋愛結婚に憧れるのもまた事実なのだ。
「……そうだわ、学園で運命の相手を探しましょう!」
この国の貴族の子息令嬢と王族は、16歳から18歳までの間、王都にある王立学園に通うのが決まりになっている。
「学園にいる人なら、お父様も反対しないはずだわ」
もちろん身分が全てではないと思っているが、シエラは伯爵家の令嬢なのだ。平民と結婚するとなると簡単にはいかない。
その点、王立学園は男爵家以上の家格の生徒しかいないため、そこで婚約者を探す人も多い。
「ふふ、学園に入学するのが更に楽しみになったわ」
……なんて、夢見る乙女のようだが、小さい頃に一度だけ、主人公ではなくドミニクの立場のような経験をしたことはある。
とはいっても、ドミニクのように窮地を救うようなものではなく、相手を庇ったことがある程度のことだが。
その頃のシエラはまだ年端もいかない子供だったし、よく覚えていないが、助けた子がとても綺麗で天使のような顔立ちだったことはよく覚えている。
――そんな決意からあっという間に1年が経ち、学園に入学して数ヶ月が経った。
「あ〜〜〜私の運命の人、どこ?」
「シエラ、毎日そればっかりね。でもまだ1年生よ? 今年で終わりじゃないんだから」
「そんな悠長なこと言ってたらあっという間に卒業しちゃうわ!」
昼休み、食堂のテラスで親友のレベッカに呆れられたような声で言われる。
「毎日飽きもせずよく言えるわねぇ……入学する前からそんなこと言ってるけれど、学園なんて平和な方がいいじゃない。自ら危険に突っ込むものではないわ」
「ピンチに駆けつけてくれるなんてまさに運命でしょう! レベッカだってドミニク様のことかっこいいって言ってたじゃない!」
「昔の話じゃない……今はラウル様一筋よ」
レベッカは学園に入学する前からの友達であり、私に『花の乙女と運命の王子』を勧めてくれた令嬢だ。
前はよくドミニク様のことを2人で語っていたが、1年近く前、レベッカに一目惚れした伯爵家のラウル・スペンサーが婚約を申し込み、半年前に2人は婚約したのだ。
初めはレベッカもビックリしていたが、ラウルの本気さが伝わったのか、今ではすっかりお互いにベッタリだ。
とはいえ、友達の少ないシエラのためにこうしてお昼を一緒に食べてくれるレベッカのことがシエラも大好きだ。
「まぁシエラは可愛いんだから、運命の出会いをしなくてもいい人はきっと見つかるわ」
「運命の出会いが大事なんだけどなぁ」
「そんなこと言ったって、その相手が必ずあなたを好きになるとは限らないでしょ? それに婚約者だっているかもしれないわ」
「うっ……そういう現実的なことは考えないようにしてるの。それに、そういうことを考えるのは卒業までって決めてるの! ついでに言えば在学中に婚約者が決まったらその人に尽くすって決めてるんだから」
それまでは夢を見ててもいいでしょ? と言えば、レベッカは苦笑しながら言った。
「そうね。まぁ、シエラにいい人が見つかることを願っているわ。私の可愛い親友なんだもの」
「レベッカ! 大好き!!」
そんな会話をしてるシエラは、会話を盗み聞きされてるなんて思いもしなかった。
◇◆◇
「……初めまして。シエラ・レインズワースといいます」
「シリウス・マクディネルだ。よろしく」
「よ、よろしくお願い致します……」
ニコりと笑うシリウスを前に、シエラは一歩も動けなくなった。
◆
時は経ち、夏季休業に入る前の試験内容が発表された。
内容は、1年生の中でランダムに2人ペアを組まれ、その2人で夏季休業の間で指定されたテーマでレポートを作り上げること。
そして、シエラのペアは、シリウスだった。
(シリウス・マクディネル様……まさかマクディネル公爵家の嫡男の方とペアだなんて……!)
シリウス・マクディネルは、公爵令息という身分だけではなく、サラサラの銀髪に蜂蜜を溶かしたようなハニーイエローの瞳を持ち、その中性的で端正な顔立ちはある種の神秘さを醸し出す。
そしてなんと言っても彼は、“理想の王子様”と呼ばれるドミニクに2番目近い男性、と言われているのだ。
もちろん、容姿は全然似ていないが、身分に関係なく優しいところや、その線の細い見た目とは裏腹に剣の才能にも秀でていることから同年代の令嬢達から絶大な人気を誇る。
ちなみに、2番目、というのはもう一人、女子生徒から人気を誇る男子生徒がいるからだ。とはいえ、2番目と言いつつ、1番の男子生徒との人気はほぼ五分五分だそうだ。
ペアの発表は、先生が教室でみんなの前で一人一人言うため、シエラのペアがシリウスと分かった時、教室中の女子からの視線が痛かった。
「シエラ、とんでもない大物に当たっちゃったわね」
「発表された時のルイーズ様は視線で私を殺せそうだったわ……」
今思い出しても恐ろしいわ、とシエラが呟いた。
ルイーズはルウェリン侯爵家の娘で、シリウスのことを慕っている令嬢の1人だ。
「でも、マクディネル様は成績優秀と聞いたわ。上手く打ち解けて協力出来れば、すごくいいものが出来上がってシエラの成績も上がるわ」
「もちろん夏季休業の間関わりが増えるわけだから、打ち解けたいとは思ってるけど……あまりにも住む世界が違いすぎるわ」
「生徒たちはみんな寮よ」
「そういうツッコミ今いらない……」
夏季休業の間、いつ会っていつレポートを制作するかはペアによって違う。早めに終わらすペアもあれば、夏季休業が終わるギリギリまで作るペアもいる。
その辺はペアと要相談、ということだ。
ちなみに、各ペアのテーマはその時に発表される。
「今日のお昼過ぎの授業、ペア同士の顔合わせよね」
「そうなの……さっきから心臓がバクバクして止まらないんだけど」
「心臓は生きてる限り止まらないけどね」
シエラは何か粗相をしてしまわないか心配で、気が重かった。
(このまま昼休憩が続けばいいのに……)
そう思っていたのだが。
◇
シエラは困惑していた。
(なんというか、近い……)
ペアの顔合わせは、空き教室を使用し行われ、一つの教室に4〜5のペアが集まる。
当然、他の人の目もあるわけだが、当の本人は気にした素振りもなく椅子をシエラの方に寄せている。
「えぇと、マクディネル様は……」
「シリウスでいい」
「い、いえ! そういうわけには」
「夏季休業中ずっと一緒なんだ。堅苦しいのはなしにしよう? 」
ずっと一緒は言い過ぎでは?と思いつつ、もしかしたらそれくらいの時間をかけて良いものを作りあげようとしているのかもしれない、ということに思い当たる。
「で、ではシリウス様、私のことはシエラとお呼びください」
「分かった、シエラ」
「……っ」
(どうして……?)
ただ名前を呼ばれただけなのに、その声には甘さが含まれているような気がしてならない。
「そ、それでシリウス様。私たちのレポートの内容ですが……」
「あぁ、すまない。私はああいった類のものはあまり読まなくてだな……」
「で、ですよね……」
そう、私たちのレポートのテーマは、『市井で流行っている恋愛小説について』。
どのペアも、“貴族の枠に囚われず市井の文化に触れる”という内容のテーマが課されているらしい。
なぜ恋愛小説に限定したのかは分からないが、シエラは困惑しつつも楽しみだった。
(だって恋愛小説ってことは、運命の出会いが描かれたものがたくさんあるってことでしょう……!? 素敵だわ!)
王都から離れるほど、平民の識字率は下がっていくが、王都は比較的識字率が高く、娯楽として様々な種類の本が売られるようになった。
シエラは学園に入学するまで領地で暮らしていて、入学してからもずっと寮にいたので、王都で買い物するのは今回が初めてになるのである。
「本を見に行くのはいつ頃にしますか?」
「早めに行こうか。そうすれば、レポートを書くのに費やせる時間が多くなる」
「そうですね、じゃあこの日なんてどうです――か」
ふと横を見ると、端正な顔が思いのほか近くにありシエラは固まった。
「……あ、す、すみませんっ!」
「………………いや、」
なんとなく微妙な雰囲気になり予定を立てる紙に視線を落としたシエラは、耳が真っ赤になってるシリウスに気が付かなかった。
◇◆◇
「――っていうことがあったんだけど、もしかしたらシリウス様は人との距離感をあまり気にしないタイプなのかもしれないわ」
「あら、そうなの? 意外だわ」
それにしても、とレベッカは続ける。
「2人で街へお買い物なんて、デートみたいね」
「デ……!?」
「だってそうじゃない? 男女2人でお出かけするならそれはデートよ。まぁ護衛はつくでしょうけど」
「デート……ロマンス小説っぽいわ!」
「運命の人はいいの?」
「それはまた別よ」
デートと意識してしまうとなんとなくソワソワしてしまい、シエラは当日まで落ち着かない日々を過ごした。
◇◆◇
シリウスとの約束当日。
シエラは楽しみな気持ちが抑えきれず、約束の時間より四半刻ほど早い時間に着いた。
「……え」
「シエラ、おはよう」
「おはようございます……え、えぇと、お待たせしてしまい申し訳ございません……!」
「いや、私が楽しみで早く来すぎてしまっただけだから。気にしないで」
一瞬、シエラは自分が集合時間を間違えたのかと思った。
それにしても。
(楽しみ……楽しみって言った!? シリウス様はもしかしたら恋愛小説に興味津々だったのかしら……?)
だからこの間も、顔が近かったのは楽しみにしてたあまり予定表を食い入るように見てしまったのかも、と合点がいったようにシエラは頷いた。
すると、シリウスに手を差し出された。
「では、行こうか」
「はい、ありがとうございます」
――公爵家嫡男にエスコートされる機会なんてこの先一生ないんだろうなぁ。
シエラはしみじみと思いながら、シリウスが用意してくれた馬車に乗った。
◇
「ここが王都で1番大きい本屋……」
「あぁ、学術書から幼児向けまで取り揃えているらしい。恐らくここになら恋愛小説もたくさんの種類が置いてあると思う」
シリウスの口から恋愛小説、なんて単語が出ることに妙な親近感を覚えつつ、店の中へと入る。
店の中は、本のジャンルごとに棚が分かれていて、探しやすかった。
「わぁ、こんなにたくさんの種類があるのですね」
「さすが王都一の本屋だな」
恋愛小説と区分された棚を見て回ると、見慣れた表紙が視界に入った。
「これ……」
その本は、シエラが学園に入学する前、穴が空くほど読み返した本、『花の乙女と運命の王子』だった。
「知っているのか?」
「えぇ、大好きな本なんです」
「そうか……」
「私にも運命の人が現れないかな、なんて思ってます」
「…………運命の人?」
「はい!ピンチの時に助けてくれるかっこいい王子様のことです!」
「……王子」
シリウスの声が一段低くなったことに気付き、慌てて言葉を発する。
「あ!い、いえ! もちろん馬鹿げた妄想ということは分かっています!」
「……運命…………王子」
「シ、シリウス様……?」
「あぁ、ごめん。なんでもないよ」
そういってニコリと笑って、私が持っていた『花の乙女と運命の王子』を手に取った。
「これも買おう」
「え!? で、でも……」
「君が好きな本なんだろ? 私も読んでみたくなった」
シリウスが自主的に恋愛小説を読む姿など想像出来ないが、もしかしたら本のファンになってくれるかもしれない。
それに何より、私が話したから読む気になった、という事実に胸が高鳴った。
そして、他にも何冊かの本を買い店を出ると、カフェに入って休憩しよう、ということになった。
「オシャレなところですね。よく来るんですか?」
シリウスは躊躇いがちに、いや、と言った。
「シエラが好きそうだな、と思ったから」
「え……」
シエラのためにここを選んでくれたのか。その事実に、胸にじわじわと喜びが広がる。
――この感情は何?
「シエラ?」
「すごく嬉しいです、ありがとうございます」
そういって笑うと、シリウスは嬉しそうに目を細めた。
◇
「今日はありがとうございました! すごく楽しかったです!」
「こちらこそありがとう。私も楽しかったよ」
「次からはレポート制作ですね。良いものを作り上げられるように頑張りましょうね!」
「あぁ。次も会えるのを楽しみにしてる」
シリウスはそういってシエラの手を取り、指先にそっと口付けた。
「――っ……!?」
「それじゃあ、おやすみ」
「お、やすみ、なさい…………」
男子寮の方へと帰っていくシリウスを、シエラは呆然と見つめていた。
◇◆◇
レポート制作は、学園の自習室ですることになった。
夏季休業中も、学園は一部の教室だけ空いている。自習室もそのうちの一部屋だった。
(この間はシリウス様をお待たせしてしまったから今日はもっと早めに出よう)
そう思い、自習室が開放されて間もない時間に家を出た。
そこには――……
(…………えっ)
入口のドアの前で立っていたシリウスは、シエラを見つけると嬉しそうに表情を緩めた。
「おはようシエラ。はやいね」
「おはようございます……えっと、シリウス様の方が早いのでは?」
「シエラを待たせるわけにはいかないよ」
シエラは、それは私のセリフですが、といいたいのをグッとこらえる。
◇
「最初はこの間買った本を読む時間にしようか」
「そうですね。私、速読は得意なんです」
「それは知らなかったな」
心地いいな、と思いつつシエラは目の前に置いてある数冊の本から一冊を取り出してページを開く。
一冊読み終えて、ふと前を見るとなぜかこちらの方を見ていたシリウスと目が合った。
「あ、あの……?」
「あぁ、すまない。可愛い顔だなと思って」
「っ……!?」
思ってもみなかったことを言われシエラの顔はじわじわと赤く染まる。
(シ、シリウス様は女性を口説きなれてるんだわ……!)
「あ、ありがとうございます……冗談でも、嬉しいです」
「冗談なんかじゃないさ。君は本当に可愛い」
「え」
一体シリウスはどうしてしまったのだろう。
もしかして、本の内容がつまらなかったからシエラをからかって楽しんでいるのだろうか。
そんなシエラの思考を読んだかのようにシリウスは言う。
「本当だよ。それに、本はもう読み終わったんだ。ふと君の顔を見たら、目が離せなくなった」
「そ、それはどういう……」
「そのままの意味さ」
これ以上は心臓に悪いため、シエラは話題を変えるため口を開いた。
「シリウス様が読んでいた物語はどんなお話でしたか?」
「婚約者と何年もすれ違いがあって回復不可能のところまできたと思われたが、その誤解を解くために主人公が奔走する話だった」
「わぁ……! かっこいいですね!」
「シエラの読んだ本はどんな内容だった?」
「主人公とその恋人が、身分差を乗り越えて幸せになる話でした!」
「身分差?」
「はい! 主人公は伯爵令嬢なのですが好きになったのは公爵家の嫡男で、身分差がありつつもお互いに惹かれていくんです! そこから周囲の反対を実力で黙らせていくのが爽快でした!」
「伯爵令嬢と公爵令息、か……」
「シリウス様?」
「なんだか、私とシエラみたいだな」
「へっ!?」
「シエラはレインズワース伯爵家の令嬢で、私はマクディネル公爵家の長男。まるで私たちのために作られたような物語だな」
にこやかにそういうシリウスに、シエラは耳まで真っ赤になった。
「わ、私たちは恋人ではありませんよ!?」
「あぁ、今はな」
「え……」
シリウスは一体どうしてしまったというのか。もしかして、この暑さで本意では無いことを喋ってしまうのかもしれない。
「わ、私ちょっとお手洗いに……」
この雰囲気に耐えきれずに、自習室を出る。
(ビックリした……!)
最近のシリウスは、なんというか、甘い。
(いや、最近というか、初めて話した時から柔らかい雰囲気だったし……)
学園の一部の女子生徒は、シリウスを氷の公爵令息といい、そんな姿も素敵! なんて言っているが、どこが氷なんだろう、とシエラは思う。
(氷どころか春の陽だまりのようだわ)
「シエラ嬢」
シリウスのことを考えながら廊下を歩いていると、後ろから声を掛けられ、振り返る。
そこには一人の男子生徒の姿があった。
「リンデル伯爵令息様?」
声を掛けてきたのは、ドミニク・リンデルという男だった。
彼とは同じクラスだが直接話したことはない。しかし、名前はよく知ってる。
なぜなら彼は、“理想の王子様”に1番近いと言われてる男だからだ。
伯爵家次男という、身分はシリウスに劣るが、金髪に翠眼、そして何よりドミニクという名前があの小説に出てくる『ドミニク』を連想させるのだ。
「私に何か……?」
正直、声をかけられた理由が全く思い当たらない。何か粗相をしてしまっただろうか、と考えているとドミニクが口を開いた。
「ドミニクでいいよ。急に声をかけてごめんね。まさか夏季休業中にシエラ嬢と会えるなんて思ってもみなかった。僥倖に恵まれているな」
「……?」
自分は彼と何か接点はあっただろうか、とシエラは必死に脳みそを回転させるが、全く思い当たらない。
「あぁごめんね。シエラ嬢が歩いているのが見えてつい嬉しくなっちゃって」
「えっと……?」
「ううん、ごめん。なんでもない。それよりシエラ嬢はどうしてここに?」
なんでもない、とは言うが先程の呟いたセリフが気になってしまう。しかし聞き返せるような間柄ではないので気にしないことにする。
「課題を進めるために自習室を使わせていただいているんです。ドミニク様は学園に何か用事があったのですか?」
「勉強に使う資料を取りに来たんだ」
「そうだったのですね」
「それより、課題をしてるなら僕と一緒にやらない? 2人でやれば分からないところも教え合えると思うんだ」
「あ、えっと……ごめんなさい、レポートの課題なので……」
シエラ1人だったら良かったが、今はシリウスと一緒なのだ。2人が知り合いだったら大丈夫だが、そうではなかった場合、非常に気まずい雰囲気になるだろう。
「あぁ、シエラ嬢のペアはシリウス・マクディネル様だっけ」
「そ、そうなんです。ご存知だったのですね……。お知り合いですか?」
「いや、違うけど……名前はよく知ってるよ」
やはり彼は有名人らしい。
「僕が君とペアになりたかったのに……」
「え……?」
「それじゃあ、僕はこの辺で。邪魔してごめんね」
「あっ、いっいえ! とんでもないです!」
そうして彼は踵を返して長い廊下の奥へと消えていった。
(こっちの方向に行くんじゃなかったのかな……? あ! もしかして私がいて気まずくて戻っちゃったのかな……)
申し訳ないことをしたな、と思いつつ、そういえばお手洗いと嘘をついて出てきたんだったということを思い出し、シエラは急いで自習室へと帰った。
「すみません、お待たせしました」
「おかえり。話し声が聞こえたけど何かあった?」
この学園は、廊下の構造的に声がよく響くらしい。自習室から少し距離が離れているところで話していたが、聞かれていたようだ。
(お手伝いって言ったのが嘘ってバレた……!?)
そこまで大したことでは無いかもしれないが、嘘をついたという後ろめたさがあり動揺してしまいそうになるが、なんとか堪え、努めて普通のトーンで話す。
「いえ、何もないですよ」
「……そうか」
シエラは普段通りの声を出せたことに安堵し、シリウスも深くは追求してこなかったため、彼の声が僅かに低くなったことに気付かなかった
◇◆◇
「できた……!!」
夏季休業に入り自習室で2人で作業すること2週間、ようやくレポートが完成し、2人は達成感に包まれていた。
「予定よりだいぶ時間がかかったな……」
「でもその分いい出来になりましたよ! シリウス様のおかげです!」
「私は何もしてないよ。シエラの小説に対する熱意が高かったおかげだ」
「わっ私は何も……ってこのやりとり、不毛ですね」
「そうだな」
フッとシリウスが笑うと、シエラもつられて笑顔になる。
(この2週間、すごく楽しかったな……)
シリウスという、天の上のような存在の人と課題のためとはいえ、2週間も一緒にいられたのだ。
夢みたいな時間だったな、とシエラは心の中でこの2週間を振り返った。
すると思い出すのは、2週間で読んだ本の内容でも書き上げたでもなく、シリウスの顔だった。
(わ、私……シリウス様の顔ばかり見てた……?)
そしてシエラは1つの結論に辿り着く。
――私、面食いだったのかしら……!?
まぁ、運命を信じているくらいだから面食いでもおかしくはないわね、という謎の理論を展開することで驚きは落ち着いた。
◇◆◇
夏季休業が終わり、学園が始まった。
シエラは今日も食堂のテラスで呟く。
「夏季休業中に運命の王子様、出会えると思ったんだけどなぁ」
「いい加減夢見るの諦めたら? そんなことよりマクディネル様とはどうだったの?」
「そんなことって……」
辛辣なレベッカにムッとしつつ、待ってましたと言わんばかりに声を発する。
「私ね、面食いかもしれないわ!」
「はい?」
「レポートを作っている間ずっとシリウス様の顔ばかり見ていたの……! あぁ、シリウス様はとても素敵な方だったのよ! でも、もしかしたら女性を口説き慣れてるのかもしれないわ!会う度に可愛いねって言ってきたり自然にエスコートするの!」
「は、はぁ……」
シエラのあまりの勢いに、一瞬ついていけなかったレベッカだが、改めて考えてみれば、1つの結論に辿り着く。
(まぁ、確かにマクディネル様が女好きの可能性もなくはないのかもしれないけれど……シエラもマクディネル様も、それってお互いに――……)
「レベッカ?」
「! な、なんでもないわ」
確証もないのに不確かなことは言ってはいけないわね、と思い胸に収める。
その後、2人で他愛もない話をしていると突然シエラに声が掛けられた。
「シエラ嬢、久しぶりだね」
「ドミニク様」
「たまたま君の姿が見えて思わず声を掛けてしまったよ。お話中にごめんね」
「いっいえ! 滅相もございません!」
“理想の王子様”と呼ばれるドミニクの登場に、辺りがワッと騒がしくなる。
「普段はここで昼食をとってるの?」
「はい。ここは風が心地良いので」
「そっか。僕もこれからはここに来ようかな」
「はい! すごくいいと思います! ここのテラスは学園も一望できるのでオススメです!」
「そっか。僕は君と一緒にここに来たいな」
「へ……!?」
ドミニクにそのセリフに、にわかに辺りが騒がしくなった、
「ちょ、ちょっとシエラ! あなたいつの間にドミニク様と交流があったの……!?」
レベッカが小声でそう言うものの、シエラには全く心当りがなかった。
「あ、あの、失礼ですがドミニク様は私とどなたかをお間違えになっているのでは……」
「はは、そんなわけないよ。シエラ嬢。あぁ、シエラ、と呼んでも?」
「え、ど、どう……」
「ダメだ」
休業中、ほぼ毎日聞いた甘いテノールの声がその場に響いた。
「シリウス様だわ!」
「ドミニク様とシリウス様がお並びになると絵になるわ……!」
“理想の王子様”の2人の登場に周りで見ていた女子生徒達から黄色い悲鳴が上がる。
「これはこれはシリウス・マクディネル様。今は僕がシエラ嬢を口説いている最中ですので邪魔しないでいただけませんかね」
「く、口説……?」
「シエラが嫌がっているだろう」
「僕にはそうは見えませんが」
「そうか。お前の目は節穴だな」
「それはシリウス様の方でしょう」
お互い一触即発の状態に困惑しシエラが何も言えないでいると、シリウスはシエラの手を取り走り出した。
「行くぞ」
「えっ、ちょ……っ!?」
そのまま2人は食堂を抜け空き教室へ入った。
「シリウス様、どうし……」
「君はあの男をどう思っている?」
「え……?」
「好きなのか?」
「すっ好きじゃないです! 会話したのも夏季休業中が初めてでしたし……」
「夏季休業中?」
(はっ!あの時シリウス様にはトイレに行っていただけと言っていたんだわ!)
「あ、あの、その……シリウス様とレポートを作ってる最中に廊下に出た時にたまたまお会いして……」
「何を話したんだ?」
「え? ええと……確か、一緒に勉強しないかって誘われました」
「――……そうか」
場の気温を下げるような低い声を呟いたシリウスは、続けて言った。
「あの男には気を付けろ」
「あの男……? ドミニク様のことですか?」
「あぁ。それから、君の名を呼ぶ男は私だけにしてほしい」
「へ……」
シエラは一瞬、言われた言葉が理解できなかった。
「そ、れは……どういう……」
「シエラ、君のことが好きだ。ずっと昔から好きだった。君が他の男と話しているのを見るだけで嫉妬で脳が焼き切れそうだ」
(好、き……?)
――シリウス様は今、好きと言った? 私に?
状況が飲み込めず、困惑しているシエラに、シリウスは更に言葉を重ねる。
「すまない、こんなところで言うつもりではなかった……だが、私は本気だということを覚えておいてほしい」
「あ、あの、シリウス様はどうしてそこまで……」
やっとの思いでシエラが言葉を発するも、被せたように昼休みの終了を告げる鐘がなった。
「……時間を取らせてすまない」
「……あ、い、いいえ……次の授業に遅れてしまうので失礼します……」
そう言い空き教室を出たシエラは、早足で教室へ向かった。
顔が熱い。
恐らく今の自分はのぼせたように真っ赤な顔をしているだろう。
手で頬を抑えなんとか気分を落ち着かせて教室へ入ると、先に教室に戻っていたレベッカが一目散に駆け寄ってきた。
「シエラ、さっきのどういうこと!?」
「え、えっと放課後話すね……」
授業が始まるというのもあるが、シエラ自身もあまりに急な展開ににいっぱいいっぱいだった。
(シリウス様はあんな冗談を言う方ではないわ……ということは、本気で私を……?)
午後の授業は、何一つ頭に入ってこなかった。
◇
「マクディネル様に告白された!?」
「こ、声が大きいわ」
「あら、ごめんなさい。それにしてもあまりにも信じられないわ」
「私も未だに信じられない……」
「それで? シエラはどうなの?」
「私……?」
「マクディネル様のこと、好きなの?」
「そんな! 私なんかが、恐れ多い……」
「そうじゃないでしょ! あなた自身の気持ちよ! 恐れ多いとか、そういう問題じゃないでしょう?」
(私自身の気持ち?)
「……分からない」
「分からない?」
「えぇ……誰かを好きになったことがないんだもの……」
「ドミニク様は違うの?」
「彼は、なんというか……」
ちなみにドミニクとは、同じクラスのドミニクではなく小説の方である。
2人は放課後、誰もいなくなった教室で話していたのだが、扉の方から物音が聞こえ、シエラが振り返った。そこに立っていたのは、顔から表情が抜け落ちたシリウスだった。
「シリウス様……!?」
「……君は、あの男が好きだったのか……?」
あの男? と誰のことか分からないシエラだったが、ドミニクの話をしていたことを思い出した。
「あ、いや、ええと……」
好きではないが、憧れであったことには間違いなく、咄嗟に否定出来ないでいると、シリウスは自嘲するように笑った。
「……そうか。……私は本当に愚か者だな」
「違……!」
「困らせてすまない、シエラ。これからはもう話しかけないようにするから」
「え……」
その言葉にシエラが硬直していると、シリウスは足早に去って行った。
「シエラ、追い掛けなくていいの!?」
レベッカのその言葉にハッとし、急いで教室を出たが、そこにはもうシリウスの影はなかった。
その後、レベッカと一緒に校内を探し回ったが、もう帰ってしまったのかシリウスを見つけることは出来なかった。
◇◆◇
それから数日経っても、シエラはシリウスと話すどころか見かけることさえなかった。
避けられている、と気付いて心がぽっかり空いた気分になり、何をするにも集中できなかった。
図書室で勉強をしていたが、集中出来ず、もう帰ろうと参考書を棚に戻そうと席を立つと、図書室の窓の向こう側にシリウスがいるのが見えた。
話しかけるなら今しかない、と思い急いで外に出たがシリウスの隣に1人の女子生徒がいることに気づく。
2人が話している様子だったため、少し遠くから様子を見ていると、女子生徒がシリウスの両頬に手を添え、背伸びに顔を近付けた。
(……っ!?)
シリウスはシエラの方に背を向けており、お互いの顔までは確認できなかったが、2人はキスをしているように見えた。
シエラは、悲しいような苦しいような、心に針が突き刺さったような感覚になった。
――あぁ、そうか。
(私はシリウス様のことが好きなんだ)
そう自覚すると、シリウスへの思いは溢れ心がいっぱいになるが、それと同時に喪失感も大きかった。
これ以上2人のことを見ていたくなくて、走ってその場を離れた。
「あれ、シエラ嬢?」
「……ドミニク様」
図書室に戻ってから荷物をまとめ、帰ろうとするとシエラは廊下でドミニクに声を掛けられた。
「元気がない顔してるね。何かあった?」
「……」
「僕で良ければ、話聞くよ? 抱え込むより話した方がスッキリするんじゃないかな」
そう言われどうしたものかと考えあぐねていると、ドミニクはシエラを見据えて言った。
「シリウス様と何かあった?」
「……っ」
「はは、その顔はもしかして正解?」
「あの、」
「僕なら君にそんな顔はさせないのにな」
「え……?」
「シリウス様じゃなくて、僕にしなよ」
蠱惑的な笑みを浮かべるドミニクに、シエラは目を見開いた。
◇
(結局何も言えなかったわ)
あの後、何も言えなかったシエラにドミニクは「考えておいてね」と言い残し、帰っていった。その場に取り残されたシエラはあまりの出来事に呆然としていた。
シリウスへの気持ちを気付いたと同時に失恋し、ドミニクから口説かれる。
そんな経験を一度にすることがあるだろうか。
『シエラ、君のことが好きだ。ずっと昔から好きだった。君が他の男と話しているのを見るだけで嫉妬で脳が焼き切れそうだ』
頭の中に、先日シリウスから言われた言葉がよぎる。
ああ言ってくれた彼の言葉は嘘だったのか。
『あの男には気を付けろ』
「――シリウス様……」
何が何だか分からなくて、シエラの心の中はもうぐちゃぐちゃだった。
無意識に呟かれたその言葉は、しかし誰の耳に届くことなく夕暮れに溶けていった。
◇◆◇
「シエラ、私今日はラウル様のお家にお邪魔することになったから悪いけど先に帰るわね」
「うん、分かった。じゃあね」
あれから数日が経ったが、シエラは自分がどうすればいいかが未だに分からなかった。
(図書室に本を返しに行ってから帰ろう。今日もあの道を通っていこうかな)
最近のシエラはついつい気分が沈みがちになってしまうため、別のことをして気を紛らわせることが多くなった。
その1つが、普段は通らない裏庭を通って図書室に行くことだった。
(普段通らない道は新鮮だし、新しい発見が沢山あるのよね)
裏庭とはいえきちんと整備された道は、歩いていてとても楽しい。
道の脇にある小さな花壇に植えられた薄紫色のビオラを眺めながら歩いていると、後ろから声をかけられた。
「シエラ様ですか?」
振り返ると、フードを被り顔が見えない男がいた。
男は制服ではなく黒い外套を着ており、シエラより一回り大きかった。
本能的に危険を感じ、咄嗟にその場を離れようとするシエラの腕を男は痛いくらいの力で掴み、ハンカチで口元をおおった。
「んー!!」
「悪いな、少し大人しくしててくれよ」
ハンカチに何か塗ってあったのだろうか、シエラの頭の回転が急速に鈍くなっていく。
「やめろ!」
「……ぐあっ!」
その声と同時に、シエラを拘束していた手が緩くなった。
「大丈夫?」
そう言いシエラの前に現れたのは――
「――ドミニク様……?」
「そうだよ。シエラ嬢、無事だった? 一旦保健室に行こう」
「は、い……」
“ピンチの時に駆けつけてくれる王子様”
今のドミニクは、まさしく王子様のようだった。それこそ、シエラの理想通りの。
――運命の相手。
そうだ。自分は運命の相手を探していたのだ。
ドミニクはシエラの理想の。
――理想の……?
理想の王子様、と聞いて思い浮かぶのはシリウスの顔だ。
ピンチの場面はなかったが、いつも優しく、シエラを助けてくれる。
誰も通らないような裏庭になぜドミニクがいたのだろうか。
ドミニクはなぜこんなにも落ち着いているのだろうか。
薬がまわり始めた体は思うように動かず、ドミニクに手を引かれるまま着いて行った先は保健室ではなく、奥まった場所にある空き教室だった。
「……っ?」
気づいたら目の前にドミニクがいて、その後ろには天井があった。
やばい、と思ったのはふと合った彼の目に微かに劣情な滲んでいたからだろうか。
しかし、振り払おうとシエラが力を入れても、ピクリとも動かなかった。
そのままドミニクの顔がシエラのそれに近づき、唇が触れそうになる瞬間。
「シエラ!」
聞き慣れたテノールが、しかし聞き慣れない焦った声で叫ぶ。
空き教室に入ってきた勢いのままドミニクを蹴り飛ばし、そのままシエラをきつく抱き締めた。
「シエラ……! 助けるのが遅くなってすまない……! 無事か?」
「シリウス、様」
「シエラ!? ――ラ……!」
ずっと気を張っていたからか、あるいは薬の影響か、緊張の糸が切れたシエラはそのまま意識を失ってしまった。
◆◇◆
シリウス・マクディネルは公爵家に嫡男として生まれ、幼い頃から高い水準の教育を受けてきた。
シリウス自身はそれを苦痛とは感じなかったが、つまらない日々だな、とは常日頃思っていた。
そんなある日、公爵家主催のホームパーティが開かれることになり、シリウスもそれに参加した。
今思えば、婚約者の選定という意図もあったのだろう。
しかし、挨拶にくる貴族たちもそれを分かっているのだろう、自分の娘をと目論む者は数多くいた。
貴族たちの媚び諂う態度に飽き飽きし、会場を抜け出し公爵邸の裏庭に行くと、そこには先客がいた。
「シリウス様はいいよな、何もしなくてもあんなにたくさんの人に囲まれて」
「なんかつまんねぇよな、父様はシリウス様のお友達になれなんていうけど、あの人ずっとニコニコしてて何考えてるか分からないもん」
「まぁ、実際あんな人取るに足りないよな」
自分と同世代か少し下くらいの、どこかの貴族の令息たちは愚痴をこぼしていた。
それを聞いたシリウスは、悲しいとは思わなかったし、怒りもなかった。
つまらないことを聞いてしまったな、と思いその場を離れようとすると、新しい声が聞こえてきた。
「かくれて悪口いうなんて、はずかしくないの!?」
まだ少し舌っ足らずな女の子の声だった。
「な、なんだよお前……」
「つまらないっていう子は自分がつまらない子だってお母様がいってたわ!」
先程まで悪口を言っていた彼らが、そして自分も目を丸くした。
「わ、悪かったな」
そう言って令息たちは足早に去っていった。
「あ、ちょっと! 本人にあやまってよね!」
ポカンと見てると、その子と目が合ってしまった。
「大丈夫、気にすることないわ! 私はあなたのえがお、好きよ!」
なんで庇ったのか、なんで自分がここにいるのを知っているのか、そんなことはどうでも良かった。
その子の満面の笑みに、シリウスは一瞬で心を奪われた。
その後、出席者名簿を確認し、両親に聞くと、彼女はレインズワース伯爵家のシエラと言うらしい。
シエラに惹かれ、今すぐにでも婚約を申し込みたかったが、彼女に庇われているような男では、彼女に相応しくないと思ったシリウスは、自分の手でシエラを守れるようになってから婚約を申し込もうと決意する。
そして、学園で再会した彼女は一層美しく成長していた。
しかし――彼女はシリウスのことを覚えている気配がなかった。
夏季休業の課題で、シエラとペアになれたことはまさしく神の采配だと思った。
だが、シエラはシリウスに「初めまして」と言った。
その時のショックと言ったら筆舌に尽くし難い。
覚えていないなら、一から関係を作り直せばいい。
学校生活の中で、シエラは「運命の相手」を探しているということ知った。
そしてそれは、ピンチに駆けつけてくれる王子様のような人らしい。
間違ってもシエラがピンチに陥るような状況を作らせないためにいつも細心の注意を払っていた。
学園に行くと、いつも注目を浴びることをシリウスは分かっていたが、その中に別の視線があることにも気付いていた。
それは、敵意、というような類のもの。
立場上、恨みを買うこともなくはないが、ここまであからさまなのも珍しい。誰かと思い調べると、ドミニク・リンデルという伯爵令息だった。
さらに調べを進めていき、彼の生い立ちについてを知った。
彼は、小さい頃からその容姿によりたくさんの人が集まり、両親も彼に甘かったため、なんでも1番じゃないと気が済まない性格のようだった。それは、成長してからも変わらず、彼に憧れている女子生徒から『花の乙女と運命の王子』の話について聞き、まさしく自分がその王子だと思い込んでいたが、シリウスも同じく“理想の王子様”と呼ばれていることに腹を立て、なんとかその座を引きずり下ろしたいと考えていたそうだ。
くだらない、と思っていたが、シリウスは彼がシエラを狙っていること知る。
シリウスがシエラのことを特別視していたことはドミニクは知っていたようで、シエラに近づき彼女を自分のものにし、シリウスを絶望させる魂胆だったらしい。
公爵家の影を使い、ドミニクを見張っていたシリウスは、彼がシエラに接触したことも分かっていたが、なんとか2人を引き離す方法はないか思案していた。
会話を聞くつもりはなかったが、シエラがレベッカに、ドミニクについて聞かれ頬をあからめて言葉を濁していた時は、思わずシエラを問い質してしまった。
今思えば、あれは物語の方の“ドミニク”を指していたのだろう。
そんな矢先、シエラが運命の相手を探している、という話をドミニクが利用し、自らが雇った破落戸を自ら追い払うというマッチポンプ作戦を企てていたことを知ったシリウスは、その作戦が決行される前に止めようとするが、ドミニクはそれを見越してか女子生徒を毎日のようにシリウスの元へ送った。
中には、まつ毛が、などと言い顔を必要以上に近付けてくる令嬢もいて、非常に不愉快だった。
そんな日々が何日も続き、精神的に疲労が溜まってきた頃、影の1人から報告があった。
「校内にフードを被った怪しい男が侵入しました」
それを聞き、すぐにシエラのもとに向かおうとすると、見計らったように女子生徒たちがわらわらと集まってくる。
「シリウス様、よろしければ一緒に帰りませんか?」
「シリウス様、先程の授業で分からないところがって教えて欲しいんです……」
「シリウス様……」
それどころではないのに、彼女たちはシリウスの腕に絡みついてきて振り払おうにもそんな隙間もないくらいくっついている。
彼女たちを振り切って教室を出た頃には大分時間が経っており、シリウスは焦りながら廊下を進む。
いる場所の大体の検討はついていたため、真っ直ぐそこへ向かいドアを開けると、シエラに顔を近づけてキスをしようとするドミニクが目に入った。
「シエラ!」
その瞬間、シリウスは我を忘れてドミニクを蹴り飛ばした。
そのままシエラを抱き締め、シエラの無事を確認した。そうでもしないと、気が狂いそうだったから。
「シエラ……! 助けるのが遅くなってすまない……! 無事か?」
「シリウス、様」
「シエラ!? シエラ!!」
薬を嗅がされたのか、意識を失ったシエラの顔は真っ青だった。シリウスは身体中が沸騰しそうなほど強い怒りを覚えた。
シエラを抱き抱え、急いで保健室に行き校医に診てもらうと、外傷はないが、思考力を低下させる薬を嗅がされた可能性があると言われた。
今すぐあの男を殴りに行きたかったが、校医が呼んできた先生に止められた。そのまま事情を聞かれたが、シエラが起きるまでここを離れたくなかったため、とりあえず空き教室で倒れているであろうドミニクを回収してくれと頼んだ。
「シエラ……」
守ろうと決めたのに、守れなかった。
シリウスは自分の未熟さを痛感し、忸怩たる思いだった。
◆◇◆
右手が何かに包まれていて、あたたかい。思わず握り返すと、更に強く握り返された。
その温もりの正体を知りたくて、目を開ける。視界に入ったのは、泣きそうな顔をしたシリウスだった。
「目が覚めたのか」
「しりうすさま……」
喉が掠れて上手く声が出せなかった。
どうやらシエラは丸一日眠っていたらしく、先生たちは一度寮に運ぼうとしていたそうだが、シリウスの強い希望でずっと保健室で寝ていたそうだ。
(もしかして、ずっとそばにいてくださったのかしら……)
シエラの胸の中にジワジワと喜びが広がっていった。
その後、シリウスから事の顛末を聞いた。
ドミニクは自分が1番でないと気が済まない性分らしく、自分と同じくらい、いや、それ以上に人気なシリウスにずっとコンプレックスを抱いていたらしい。そしてシエラに近付き、シリウスの鼻を明かそうと考えていたのだとか。
(つまり自作自演だったってことね……)
ショックではあったが、なんの取り柄もないシエラに必要以上に構う理由が分かってスッキリした気持ちもあった。
ドミニクは退学になったらしい。
「まぁ、破落戸を学校に侵入させて生徒を襲わせた上に、そのまま凌辱しようとしたから当然だがな。むしろ、私はそれでも生ぬるいと思っている」
シリウスは改めてシエラに向き直り、頭を下げた。
「私がシエラに関わったせいで、怖い思いをさせてしまい本当に申し訳ない」
シエラは慌てて首を振った。
「か、顔を上げてください。シリウス様のおかげで無事だったんですから! むしろ助けてくださって本当にありがとうございました!」
シリウス様は私のヒーローです、と言った瞬間、シリウスに抱き締められ、ホワイトサボンの香りに包まれる。
「君が無事で……本当に良かった……」
その声は、微かに震えていた。
「……好き、です」
シエラを抱き締める体の動きがピタリと止まった。
気付いたら、無意識に口に出ていたセリフに、シエラ自身も驚いていた。
「シリウス様のことが、好きです。優しくて、カッコよくて、ちょっぴり強引なところが大好きで――んっ」
唇に柔らかいものが当たっている。それがシリウスの唇だと気付いた時には、角度を変えられて少しずつ深いものになっていった。
長い長い口付けは、ともすればシエラが酸欠になりかけた時に名残惜しそうに離れた。
恐らく、今のシエラの顔は熟れたリンゴより真っ赤だろう。
「そんなことを言われたら、離してあげられなくなる」
「いいですよ」
「私は嫉妬深いんだ」
「それは私もですよ。この間もシリウス様が女の子とキスしてるところを見てすごく悲しくなりました」
「ちょっと待ってくれ、何の話だ?」
「この間の放課後、図書室の前の場所で女の子と話してませんでしたか?」
「……あぁ、あれはドミニクの手先だ」
「……そうなんですか?」
「当たり前だ。君という存在がありながら他の者と口付けなどするわけがない」
シリウスのことを信用していなかったわけではなかったが、改めて本人の口からそう言われ、シエラの心はすっと軽くなった。
「……シリウス様はいつから私のことが好きだったんですか?」
「私が7歳の頃、公爵邸で開いたホームパーティで君に出会った時だよ」
「ホームパーティ……?」
「あぁ、どこかの令息達が私の陰口を言ったのをシエラが庇ってくれたんだ」
え――……?
「あの時の男の子……シリウス様だったんですか……?」
「気付いていなかったのか?」
「は、はい……」
あの時、シエラの両親から、挨拶回りに行くからその間に友達を作っておいで、と言われたシエラは公爵邸の庭を歩き回って裏庭へと辿り着いた。
すると、1人の天使のような男の子を見つけた。声をかけようと近付くと、その子がつまらなそうな顔をしていることに気付いた。
どうしたんだろう? と思うと、奥の方から話し声が聞こえ、どうやら悪口を言っているようだった。シエラは直感的に、この子の悪口を言っているんだと気付き、その子たちを追い払った。
たったそれだけのことだったが、両親から常に「心優しい、人の役に立てるような人間になりなさい」と言われていたシエラはそのことがとても誇らしかった。
「……私たち、お互いがお互いのことを守っていたなんて、ヒーローみたいですね」
「そうだな」
「シリウス様のおかげで運命の相手って、近くにいたんだなって気付きました」
「あぁ」
シリウスは蕩けるような笑みでシエラに顔を近づけ、シエラはそっと目を閉じる。
「シエラ、愛している」
「私もです」
夜空に輝く月は、2人を祝福するように明媚に光っていた。