猿叫
弘樹は訓練用の甲冑を着て、木剣を持ち、木人の前に立った。
『木人』と言っても、単に丸太を地面に埋めて立てただけ。剣の撃ち込み稽古に使用するものだ。
ここは、王立軍の訓練場。弘樹が目覚めた病院に併設されている。正確には病院が訓練場に併設されている。
軍事訓練は怪我も多いので救護所が出来、それが発展して病院になったようだ。今では病院のリハビリ施設としても訓練場が利用されている。
弘樹は既に退院していたのだが、傭兵の雇用制度として、1ヶ月の休養と通院が義務付けられる労災と認定された。その間、訓練場の利用が可能とのことで、通うことにしたのだ。
まだ今後のプランは定まっていないが、とりあえず傭兵ならば強くなっておくに超したことはない。
この世界の傭兵の主な武器は刀剣、斧、槍、棒、鉄甲(をつけて殴る)といったもの。
残念ながら弘樹は武道、武術、格闘技の経験は無い。それらは漫画、小説、動画で得た程度の知識しかなかった。
しかし、そんな知識の中でも、1つだけ出来そうな剣術の流派を思い出した。その流派は技術的に難しいことは言わない。技術ではなく、思想と鍛練方法が極意のような印象を受け、興味を持ったたので、一時小説や動画を漁ったことがある。
『徹底して鍛練すれば』という条件付きで、これなら自分でも出来るかもしれない。
弘樹は木剣を両手に持って振りかぶった。
構えは子供が木の棒を持って「叩くぞ!」という時の右手。それに左手を添える。
振り下ろす際、左肘は動かさない。それが撃ち込みのスピードを出すコツだと言う。
技術はこれだけ。
いざ実戦になると複雑な技は出せず、上段の面打ちと袈裟斬りぐらいしか出せないものだ。ならば徹底して上段の撃ち込みを強化すればよい。そういう、恐ろしく現実的な教えだ。
(こんなものかな)
何度かやってみて少し感覚が分かった気がした。しかし、甲冑がガシャガシャ煩い。この流派はそもそも甲冑剣法じゃないのでしょうがないかもしれない。
ただ、鎧を着て出来ないようでは傭兵として使えないので、弘樹はそのまま続けることにした。
素振りもほどほどに、次は木人を撃ち込む。
とにかく全力で。
カーンッ
乾いた音がして木剣が弾き返された。
弾かれるようではいけない。当たる瞬間にしっかり握り混み、衝突の反作用を握り潰す。そうすれば跳ね返る力が全て相手に浸透し、重い撃ち込みになる。
しかしやってみると、なかなか難しい。技術の問題なのか、握力の問題なのか、どうしても木剣は跳ね返されてしまう。
(最初から全力は無理だな)
弘樹は押さえ込める最大の力に制御して、撃ち込みを繰り返すことにした。
やってるうちに握力と技術が伴って、徐々に最大値が上がるだろう。
実際、何度か繰り返すと、僅かながら強い撃ち込みにも握りが耐えられるようになって来た。
(なんか、これ、陸上に似てるな)
弘樹は思った。走る跳ぶ投げるという一見単純な動作にも、様々な技術があるのが陸上。一見子供が棒で叩くようなシンプルな撃ち込みにも様々な技術がある。
このトレーニングは自分に合っていると彼は思った。
(しかし、最後がやっかいだ)
弘樹は躊躇した。まだ1つ要素が欠けている。しかし、それは初心者が異国の地でやるにはハードルが高い。それをやらなくても、トレーニング効果は十分ありそうな実感はある。
(いや、ダメだな)
ハードルが高いのに残っているということは、鍛練として意味があるのだろう。素人が理由をつけてやりたくない練習を端折るのはだいたい悪手だ。
弘樹は陸上の経験から思い直して覚悟を決めた。
そして、呼吸を整えながら、木人から距離を取る。
右手で木剣を振り上げ、左手を添える。これを蜻蛉の構という。
構を決めて、すぅと息を吸った。
「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
弘樹は叫びながら、木人に走り寄った。
「や゛や゛や゛や゛や゛やあぁぁぁぁぁ」
叫びながら上段の撃ち込みを続ける。
突然のことに、周囲の人々がぎょっとして注目するのが分かる。
(半端はかえって恥ずかしい。やりきるんだ)
ある程度撃ち込みを続けた後、弘樹は再度木人から距離を取った。
そして蜻蛉の構えを取る。
「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
再び叫びながら走り込んで撃ち込みをする。
最初何事かと思って集まった注目が、失笑に変わっていくのが背中越しにも分かった。
(この失笑を覆す。覆すまで、もう後戻りは出来ない)
やってるうちに覚悟のようなものが固まってきた。
「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
もうどれぐらい続けただろう。
この撃ち込みは朝に三千回、夜に八千回やるのが基本だという。今、弘樹は一回の走り込みで20回ほど撃っている。それを20セットはやっただろうか?
ということは400回。全然足りないな。というか、この回数は本当なのだろうか?
遠巻きに見物する人が少し増えてきた。
「なんだ。あれ?」
「ガキの喧嘩みたいだな」
「ガキというか、猿だな」
「確かに!猿の剣術だ。はっはっはっ」
悪口というのは、遠くてもよく聞こえるものだ。
(合ってるよ)
弘樹はふっと笑った。
周りの視線にも慣れ、少し余裕が出来てきた。
(この掛け声は猿叫って言うんだ)
まだ意図は完全には分からないが、やってみると、ただ黙って撃ち込むより鍛練になる気がする。
(やはり、やってみるもんだな)
実績のある流派の教えは伊達じゃない。
蜻蛉の構えからの強烈な上段攻撃、徹底した立ち木打ち鍛練、猿叫。
これぞ、幕末最も恐れられた剣術。示現流だ。