プロローグ
高木弘樹は腐っていた。
彼は高校二年生。学業の成績は中の上。陸上部に所属し、専門は長距離走。だが、先日練習中にアキレス腱を切った。
陸上を志した頃、弘樹は十種競技志望だったのだが、スプリント能力に全く恵まれていなかった。そこで監督の薦めで長距離を始めた。
長距離ならば、走り込めば成績はある程度ついてくる。そう、ある程度は。
中学の間は練習量でなんとか誤魔化して来たのだが、高校に進むと徐々に通用しなくなって来る。
焦って走り込みの量を増やしたら膝を傷めた。
その療養中に様々な勉強をしたのが、更にいけなかった。かつては才能の世界と言われていたスプリントも、だいぶ理屈が解明され、練習方法も確立されていることを知った。
アキレス腱を鍛えるそのトレーニングに確かな手応えを感じた彼は、ついやり過ぎてしまったのだ。
急に慣れない仕事、残業、休日出勤をする羽目に陥ったアキレス腱が悲鳴を上げたのは必然と言える。
ある日の放課後、松葉杖を付きながら下駄箱に向かう時、前方に知った後ろ姿を見た。
陸上部の友人と後輩の女子生徒だ。弘樹は一瞬、知らんぷりをしようとしたが、気付かないのはあまりに不自然な距離だ。そして、自分が気付かれるのも時間の問題だ。何故なら、まだ音を立てずに歩けるほど松葉杖に熟練していなかったから。
やむなく彼は声をかけた。
「栄太!」
栄太とは友人の名前。呼ばれて彼は振り向いた。
「おう。お疲れ。大変そうだな」
栄太は弘樹の松葉杖を見て言った。
「全くだよ。これから練習?」
「ああ。見学来る?」
「いや、帰るよ。これじゃなんの手伝いも出来ないし」
「そっか、焦らず治せよ。また走れるんだろ?」
「ああ」
弘樹は答えた。そして内心思った。
(走れる頃には引退だけどな)
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
栄太は弘樹の苦笑いを見て何かを察し、会話を切り上げようとした。
「お大事にしてくださいね」
後輩もそれに続いた。沈痛な表情を作ってはいるが、彼女も早く会話を切上げたそうに見える。単に弘樹が卑屈なだけかもしれないが、少なくとも彼にはそう見えた。
「ありがとう。じゃあ」
弘樹は片手を上げると、二人から視線を外し、下駄箱に集中する仕草を見せた。それを機に二人は足早に先に行く。楽しそうな談笑をしながら。。。
帰りのバスでは老人に席を譲られた。
バス停から家までは、いつもの倍の時間がかかった。
家に帰るとカレーの匂いがした。
ダイニングキッチンで母親と大声で笑い合っていた妹が、弘樹の帰宅を察すると駆け寄って来た。
「お帰り!荷物持とうか?」
「ありがとう。大丈夫だから」
そう言って彼は足早に・・・と行きたい所だが、随分時間をかけて部屋に入った。
そして、声を潜めて泣いた。
家族に聞かれないよう、布団を被り、カモフラージュの音楽をかけて泣いた。
まずいことに、適当にかけた音楽が、はみ出し者の気持ちを歌ったパンクロックだったので、更に追い討ちをかけられた。
上手くいかない時は何をやっても裏目に出る。
「長距離は競技寿命長いからさ。気長にやれよ」
友人の言葉が頭に響く。
(高校生という時間は長くはない)
頭の中で反論する。
「この機会に上半身の筋トレとか普段できない補強をやるのもいいよな」
(補強は補強だ。本練習にはかなわない)
「早めに受験に集中出来ていいよ。気持ち切り替えたら?」
(切り替えられたら苦労しない)
「やってしまったものはしょうがないんだし、割り切るしかないよ」
(分かってる!!)
弘樹は布団をはね除けて大の字になった。
勢いで足のギブスが壁に当たり、ゴンと鈍い音がする。一瞬冷やりとしたが、幸い痛みはない。ギブスというものは、とても優秀なようだ。
「もういいや。。」
アキレス腱を切ってから何度も呟いた言葉をまた口にした。モヤモヤはいつもこの言葉でケリを付けるのが彼の日常になっている。
弘樹は心を無にして夕食他、寝るまでのルーティンをこなした。
何をやっても上手くいかないなら、もう寝るしかない。
弘樹はいつもより随分早く布団に入った。
そして、おかしな夢を見た。
それが夢だと彼はすぐに分かった。
理由は3つ。まず松葉杖をついていないこと、次に周りに何もない真っ白な空間にいること。最後に目の前に変な老人がいること。
老人は中東の石油王のようなターバンに顎髭、白い衣服に黒いマントを羽織っている。
「力を貸してください」
老人は言った。
「なんだこの幼稚な夢は??とうとう夢にまでバカにされるようになったか。。」
弘樹は失望を通り越して呆れはてた。
「バカにはしてませんよ。いたって真面目です」
老人は憤慨したように見えた。ただ、目深に被ったターバンと顔の半分を隠すほどの髭のせいで表情が分かりづらい。
弘樹は不機嫌な表情を隠そうともせず、腕を組んで黙って老人を見た。何か言おうと思ったが、何と言うべきか。
そんな弘樹の様子を見て老人は続けた。
「まぁ、礼儀としてお願いはしましたが、もう術はかけてしまいました。好むと好まざると、目が醒めたら貴方は異世界にいます」
「は?」
「私も説明出来る時間は限られています。依頼は聞いておいた方がいいかと」
「はぁ?」
「逆に聞かないと何も知らない異世界で1人、路頭に迷うかと」
「分かったよ!聞きますよ!!」
老人の話を信じたわけではないが、念のため聞いた方がいいような気がした。
何より、思わせ振りで、勿体ぶった言い方に腹が立った。
「では、あらためて」
老人は軽く咳払いをした。
「貴方にはある事情で魂を失った体に入ってもらいます。それで彼の代わりに生きて欲しい」
異世界で誰かの替わりになれということか・・・
「それで?」
「それだけです」
「生きるだけ?」
弘樹は念を押した。
「はい。私がなんとか魂を呼び戻す術式を完成させます。それまで生きて欲しい。魂が抜けてしまった肉体は滅びに向かうので」
「なるほど。とりあえず場を繋げってことですか」
何で魂が抜けたのか?老人とその男(『彼』と言ってたので多分男だろう)の関係は?等色々と気になることはあったが、時間も限られているそうなので、それは後にした。
「そんな感じです。だから生きていてくれればいいです」
「その術式完成ってどれぐらいかかるんですか?」
これは重要なので質問をする。
「目標で半年、長ければ3年ぐらいかと。しかし、この先の世界とは時間のずれがありますので、むこうの10年がこちらの一晩です。無事に生きてくれれば貴方に迷惑はかけません」
老人は弘樹の質問の意図まで察して説明をした。
「なるほどね。。。しかし、生きる術はどうするんですか?何か仕事してるとか、誰かの子供とか・・・」
これも重要だ。
「それは彼の記憶を探ってください。魂は抜けていますが脳はそのままなので、思い出そうとすれば彼の記憶が掘り起こせます」
なるほど。それはある意味、ここで全て聞くより楽かもしれない。ゲームで言うと、とりあえず始めて見て何かあったらヘルプを見る感覚だろう。膨大なマニュアルを先に覚えるよりも現実的だ。
「ということはボクの記憶はどうなるんですか?」
「おおよそ彼にコピーします。ただ、容量が多いので貴方も意識していないような、幼少の記憶は割愛します。ご容赦ください」
「こっちに戻って来た時に、向こうの記憶は?」
記憶のコピーが出来るならひょっとしたら・・・という期待を込めて聞いてみた。
「ご希望とあらばコピーします。つまり一晩で向こうの半年から数年の経験が貴方の物になります。これが依頼の報酬ともお考え下さい」
「悪くないですね」
弘樹は思った。記憶がコピーできるのなら、向こうで身体操作のトレーニングをしたらある程度はこちらでも活かせるかもしれない。スプリント、ハードル、槍投げ、砲丸投げ、円盤投げ等の技術練習をしておけば十種競技が出来るかも。さすがに棒高跳びは・・・設備が無いだろうが。
そんなことを考えて発した言葉なのだが、老人の解釈は少し違ったようで満足げな表情を浮かべた。
「ご理解有難うございます。それでは、後は彼の記憶をお調べください」
「えっ?それだけ?ちょっと待ってくだ・・・」
老人は消えた。
そしてあたり一面白いだけの景色だけが残った。
次第に意識が遠のいて言った。