NIGHT RUNNERS~驚鬼~
かつて、現代のように歪が人々を脅かすよりもいにしえの時代。人々が恐怖したのは鬼だった。
刻の英雄たちにより討滅された鬼は時代から姿を消し、しかし彼らの存在こそが今のイビツの台頭を封じていたと知った英雄の縁者たちは求めたのである――鬼の力を。
――岩戸町の夜はイビツの夜。
血の如き赤い月が冴えたその夜、人は不幸と出遭う。
岩の肌を持ち、熊すら凌ぐ膂力を持つ痩躯の怪物。
体毛の一切を持たず、人と同じ形をしながら生物としての象徴を持たない肉体。在るのは殺戮のための武器だけだ。
今宵、不幸にもイビツに魅入られたのは一人の少女だった。
イビツは獣である。狙うのはより弱いもの。男よりも女。大人よりも子ども。子どもの女などは格好の獲物というわけだ。
甲高くイビツが吠える。
大きく開かれた口には唇が存在せず、剥き出しの歯茎には鋭い乱杭歯が突き出している。
白濁した双眸に見下ろされ、腰砕けになった少女は這うことも出来ずに目の前の巨大な異形に震えるばかり。
ひたりとイビツが少女へと歩み寄り、少女の口からひぃという悲鳴が上がる。生暖かな風が彼女の背後から吹いて、そしてイビツの動きが停止した。それの二つの眼球が少女とは異なる方角へと向く。
「今日は良い夜になると思ってたんだが……」
どうしてくれる――少女の背後から緩やかに吹く温風に乗って、そんな恨み節がイビツの許へと届けられた。
恐る恐ると、首を軋ませながら振り返った少女。
そこで彼女が目にしたのは赤い月光を背負い、金色の双眸を怪しく輝かせた男だった。
男はずりずりと履いたサンダルを引きずりながら少女の方へと歩み寄り、イビツへと近づいてゆく。
「こんな夜更けに出歩く奴も出歩く奴だが、そいつを食い物にする奴ぁもっと気に食わねぇ」
吐き捨てるように語る男。彼の足が少女のすぐ側に辿り着こうとしたとき、咆哮を上げたイビツが男へと飛び掛かった。
少女が甲高い悲鳴を上げて頭を抱える。果たしてどちらに対してであろうか、男は舌打ちを鳴らした。そして――
「黙ぁってろおっ!」
男が振りかざした右拳がイビツの顔面を強かに打ち据え、あろうことかその巨体を弾き飛ばした。
顔を上げた少女の目に、イビツを殴り飛ばした男の顔はまだ若い青年のように見えた。本来、端整であろう顔を巨大な三つの爪痕に台無しにされた、怒れる鬼の形相だ。
完璧に気の動転した少女はイビツへと大股で迫ってゆくその青年へと「あんた、誰に言ってんの!?」などとトンチンカンな問い掛けをしてしまう。
するとぼさぼさの総髪を揺らした青年は歩きながら半身を開いて少女へと振り返り、人差し指を向け応える。
「どっちにもでぃ」
そんな青年に少女は「前っ、前っ!!」と声を荒げる。青年は鬱陶しそうに前へと向き直ると同時に、再起してまた襲い掛かってくるイビツの顎を鉄槌打ちで地面へと叩き付けた。
そしてサンダル履きの足を振り上げ、固い地面に張り付いているイビツの頭目掛けて青年はその足を叩き付けんとする。
だが間一髪のところでイビツは青年へと飛び掛かり、押し倒すことで難を逃れた。しかし青年も倒れ込む勢いを利用してイビツの巨体を巴投げにする。
起き上がる青年の甚平はイビツの爪に引き裂かれ、自ずと彼の体から剥がれ落ちてゆく。日に焼けた屈強な鋼のようなその肉体には、顔面のそれにも勝るとも劣らない爪痕や噛み跡が無数に刻み込まれていた。
汗に濡れ、赤い月光により照る肉体を積み重ねた筋肉で隆起させながら青年はイビツへと臆することなく向かってゆく。
立ち上がり、迫る青年へと振り向いたイビツの顎を彼の左拳が打ち、再び戻ってきた顔面を弧を描くように飛来した右拳が射抜いた。イビツの上体が大きく仰け反る。
「だからオレぁ、テメェを――っ!!」
その仰け反った上体目掛け、跳躍した青年は鋭く尖った肘を落下しながらイビツの胸へと叩き付け、ともに地面へと倒れた。
胸へと押し当てられた青年の肘には彼の全体重が加わり、地面と挟み込むようにしてイビツの胸部を圧潰させる――はずだった。
イビツが大きく吠える。するとそれの胸に食い込んでいた青年の肘が弾き出されてしまう。舌打ちをしながら青年は自ら地面を転がり回ってイビツから距離を取った。
いくら殴ろうとも、叩き潰そうとも、青年が息を上げるまで全力を尽くしてなおもイビツは起き上がる。
その体に一切の傷みは見受けられず、畜生のように四つん這いになっていた青年が顎に伝ってきた汗を拭おうとすると、それを隙と見たイビツは鋭利な爪を彼へと放つ。
「ぅうぅ――わぁぁあああっ」
青年がそれを躱そうとしてその直前、彼の体を何者かが抱え転がした。体当たりでもされたように乱暴に、青年は何者かと地面を転がってゆく。
何事かと困惑する青年がその何者かへと目をやると、あの腰砕けになっていたはずの少女が彼の体に張り付いていた。
「女、テメェ――」
なんのつもりかと青年は怒鳴ろうとしたが、身動ぎしない少女の様子にはっとして彼女の体を探る。そしてすぐに見付けるのだった。少女の背中に見る間に広がってゆく深紅を。
「……クソ」
イビツはすでに追撃に走り出している。しかし青年は悠長にも少女を抱え直し、背中の傷に触れぬよう地面へと寝かせている。
もうあと数歩。
イビツにとっては瞬く間の距離に青年は居た。
だが、その間にも青年は尻目にイビツを睨みつけるだけ。
イビツが頬まで裂けた顎を開く。狙っているのは青年の頭部。首を引き千切り、頭蓋を噛み砕かんとする。
「出ろ――“驚鬼”」
青年の呟くような声とともに、彼とイビツの合間に何かが落下して、躱せず追突したイビツが弾き飛ばされた。
その一部始終を見届けた青年は少女をうつ伏せに寝かせ終えたのち、自らは立ち上がり歩み出す。彼の背中をわずかに開いたまぶたの向こうから少女の瞳が見詰めていた。
「いつだってテメェらの存在はオレをムカつかせやがる。そのことにさらにムカつくんだ、オレぁよ……」
立ち止まった青年の隣に在るモノ。驚鬼と彼が呼ぶソレは、人の形をした甲冑であった。全身を黒鉄色の装甲で覆い尽くした、まるで城塞のような。
自らの勢いで跳ね返されただけのイビツはすぐさま起き上がり、しかしすぐに襲い掛かることはしなかった。
青年と共にある甲冑の威容が、殺人衝動ばかりのはずの異形を警戒させているのだ。
「そのクソ汚え目ん玉ぁヒン剥いてよぉく見とけ、イビツ野郎。これが吃驚仰天、鬼装填鎧――」
唱え、四肢をなげうつ青年を装甲を展開した甲冑が抱え込み、面頬に象られた牙を備えた口が開いて彼の頭を丸飲みにした。
そのとき、甲冑内部の生体素材に備わった無数の刺針が、青年が体内に埋め込みし殺生石から溢れ、表皮から滲み出た瘴気を感知し、刺糸を繋いだ剣状棘を射出。青年の全身へと突き刺した。
青年の体内へと侵入した刺糸は彼の全身のあらゆる神経と結合。その際に生じる痛みに彼が堪える中、彼の心臓に宿る殺生石にまで刺糸が到り結合することで青年と甲冑は一つになった。
殺生石から生じる瘴気は刺糸を通じて甲冑に供給され、繋ぎ合った神経からは甲冑の情報が青年へと伝えられる。
青年こそ甲冑の骨格であり心臓。
甲冑こそ青年の眼であり耳。
二つを一つに合一するその業こそ“鬼装填鎧”。
そうして生まれるものこそがかつての世より駆逐された“鬼”。
黒鉄色をしていた装甲は瞬く間に朱に色付き、沈んでいた楕円の双眸に金色が灯る。そして最後、額に突出したのは二本角。
「――遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ! 奇想天外、奇々怪々。驚き桃の木山椒の木。我こそ驚天動地の無頼漢! あっ、驚ぉぉ鬼ぃぃなりぃいぃいぃっ!!」
ずんと片足で地面を踏み抜き、元禄見得をする驚鬼。
装甲の合間から吹き出した蒼い鬼火が散って吹き荒び、さながら花吹雪が如き様相を呈する。
「いざ、いざいざいざぁ! 尋常に勝負勝負っ!!」
背中に装備した金棒の柄へと右手を回し、イビツへと駆け出す驚鬼。その一歩はアスファルトの地面を容易く砕き、しかし重厚にして迅速であった。
その所以はやはり背中に備えた噴射口から噴射されている鬼火であり、さながらジェット戦闘機のエンジンのように驚鬼の巨体を押し出しているのだ。
高速で押し迫る驚鬼の威容たるやそれこそ尋常ではなく、イビツの身はその意思に関わらずすくみ上がり動きが鈍化していた。
そこへと固定を解除した金棒を振り下ろす驚鬼。溜め込まれていた力が解放され、その一振りは神速と化す。
無数のスパイクが打たれた金棒は驚鬼の巨体にも迫るほどの長大さで、その大きさと動作の鈍化からイビツがこれを躱すことはもはや不可能であった。
イビツは頭から潰れ、驚鬼の金棒が地面を粉砕したときにはイビツの体も木っ端微塵に砕け散っていた。
しかしただ叩き潰すだけに留まらず、直後にスパイクたちがさく裂。金棒が大爆発を起こし、イビツの破片たちはさらに粉砕され火炎により蒸発してゆく。
もうもうと上がる爆炎と蒼い燐火を受けて朱色の装甲は煌めき。佇む驚鬼はただ一言、告げるのだった。
「……成敗」
下
自然とまぶたが開き、輪郭のはっきりとしない滲んだ光景が目に入ってくる。境界線のある不思議な光景。それが枕と襖であることに少女が気付いたのは少ししてからのことだった。
「ぅん……? ふぁ――ンぎゃひぃぃっ!?」
自らが体を横たえていることに気付き、仰向けになろうとして背中を襲った激痛に少女の口から尻尾を踏まれた猫のような悲鳴が上がり、彼女は布団から転がり出た。
「……? ……っ!?」
畳の上に這いつくばり、じんじんと傷みの滲む背中に言葉を失う。少女の脳裏によみがえるのはあの夜、青年の危機を救わねばと飛び出したところまで。
「……とこ、ろで……ここ、どこお……?」
何もかもが分からずに、忌々しくて少女がぎちぎちと畳を引っ掻いていると、突然彼女の側にある襖が開いた。
襖の方に少女が目を向けると、そこには瑠璃紺初めの男着物を着て髷を結った、十になるかどうかというような子どもが佇んでいて、子どもはカエルのように這いつくばった少女を黒く大きな瞳で見下ろしていた。
「起きたか」
「へ……あ、はい……?」
「ついて参れ、日々野進歩」
見ず知らずの子どもに名前を呼ばれ、困惑する少女こと進歩であったが、そんな彼女など構いもせずに子どもは踵を返して行ってしまう。
どうしたものかと思いつつも、背中を庇いながらもたもたと立ち上がった進歩は急いで子どものあとを追った。
一部屋に畳が何枚も敷かれた、広大で立派な屋敷。進歩は何か自分が時代劇にでも出ているような気分になった。すたすたと突き進む子どもの背中を見ながら彼女は訊ねる。
「あの……ここ、どこなの?」
「左様な瑣末事が気になるのか?」
「え……? さま……? いや、気になるでしょ」
「ふむ、もっとマシなことを訊くと思っておったのだがの」
「は?」
「例えば……どうしてわたしの名前を知ってるの、とか」
「そっ、それもそうっ! なんで!?」
子どもは振り返らず、そのまま何かを進歩の方へと投げた。
驚く進歩だったがそれは彼女が慌てて差し伸べた手中へ自ずと飛び込んだように収まる。そして彼女は「あっ」と声を上げた。
「わたしのサイフ!」
「学生証もあった」
「見たの!?」
「そりゃあ、見る。素性を知らねば対処できまい」
「……で? ここはどこ?」
「おれの屋敷」
「あの……そゆことじゃなくって」
「己頃の山ん中よ。田舎も田舎よ」
「はあ!? 己頃って……己頃!?」
「他に己頃なんて場所あったかの?」
進歩は目を回した。
己頃と言えば他県。岩戸町のある県とは反対のところにある。
なぜそんなところに自分が居るのか進歩にはまるで理解出来ない。あの晩、“ちょっとした小遣い稼ぎ”していただけなのにと頭を抱えてしまう。
幾つかの座敷を通り過ぎながら、見事な庭園を見ることの出来る回廊を進むことしばらく、廊下の突き当たりにある座敷の前で子どもが立ち止まる。追っていた進歩も然り。
そして進歩が何か訊こうと口を開きかけて、子どもは閉ざされていた障子戸を勢い良く開け放つ。ぴしゃりと威勢の良い音が響いて、そして子どもは声を上げた。
「ぼんくらども、仕方がないから連れてきてやったぞ!」
ちらと座敷の中を進歩は覗き込んで、そしてまた「あっ」と声を上げて両目を見開いた。
広い座敷には数人の男女がごろ寝していたり本を読んでいたりしていて、その中の一人に顔面に傷痕を残した、あの夜の青年がいたのだ。
皆の視線は子どもではなく進歩に向けられていて、気圧された彼女が思わず障子の影に引っ込もうとしたところ、件の青年――驚鬼が読んでいた漫画本を放り捨て声をかけた。
「おお、女。黄泉帰ったか」
驚鬼の不可解な言葉に進歩が眉をひそめる。
するとごろ寝していた巨漢が起き上がり、ぱんと柏手を一つ打って、彼は子どもへと告げた。
「いやっ、お美事! 流石は桃姫殿!!」
巨漢の不可解な言葉に進歩の眉はますます歪む。
そして桃姫と呼ばれた子どもの方へと視線を移すが、そこにはもう子どもの姿はなかった。そして巨漢が上げたものと思しき悲鳴に進歩の視線が釣られる。
そこでは巨漢の股間を右足で踏み潰している子どもと悶える巨漢の姿があり、周りは呆れ返って助けにもいかない。
とはいえこれではラチがあかないと、灰色のジャージ一式に身を包んでいる色白の女性が桃姫へと言うのだった。
「それで、桃姫。そのコ、使えんの?」
女性の不可解な言葉に進歩はついに表情を無くす。
巨漢を足蹴にしながら桃姫は女性に一つ頷く。
「ああ、仙桃も無駄にならず良かったわ」
「じゃああとは……」
「おう、こっからが本番てぇことよ」
立ち上がった驚鬼が進歩の許へと詰め寄り、見下ろす。進歩もまた、警戒した様子ながら彼のことを見上げ返し「……その節はどーも」と言う。すると驚鬼は鼻を鳴らし、口角の片方を釣り上げて笑った。
「気骨のある女だぜ、こいつぁ。良い鬼にならぁ」
彼のその言葉に、桃姫を除いた二人の眼がギラリと色を変える。わけも分からぬ進歩はただ、意味不明なことを言う驚鬼に「はぁ……?」と怪訝に振る舞うばかりなのであった。
END。