妻に触れる R15版
黒の婚礼衣装を身につけウィーラーは湖の前に立っていた。
装飾はシンプルだがウィーラーの素晴らしい肉体が引き立つラインは、マリー·ディーフの手腕によるものだ。
上品だが動きを妨げない着心地がウィーラーは気に入った。
ウィーラーは朝から自分の魔力が鋭く研ぎ澄まされているのを感じていた。
人の気配と魔力の動きが手にとるようにわかる。どこに誰がいるのか、何をしようとしているのか。
戦場でも似たようなことがたびたびあった。緊張と興奮がバランスよく高まるとこうなる。こんな時は必ず戦果を挙げたものだった。
そのピリピリとした空気が、イレーネ湖の前に立ったとき、湖からの空気と馴染むような感覚をうけた。
伝説の湖とはいえ特別な点はないと思っていたがどうやら違ったようだ。
ウィーラーの魔力を包むような、馴染ませるような、不思議な温かさがある。
湖の気配はウィーラーを心地よくリラックスさせ、同時に五感を鋭敏にさせた。
だからウィーラーには、離れた参列席でレオノーラが馬車から降りたこともわかった。
似たような魔力が柔らかく混じりこちらに歩いてくる。
ほどなくして湖からのびる道にエスコートされたレオノーラが姿を現した。
ベール越しにも鮮やかな赤が見えると、ウィーラーはもうレオノーラから目が離せなかった。
(なんて美しいんだ······)
清楚で、繊細で、気品溢れるレオノーラの姿に、ウィーラーは圧倒された。
出会いからまだ一月とたっていないが、もっと長く待たされた気がする。
(ようやく、妻にすることができる)
姉弟で微笑みを交わす姿は慈愛に満ちていて、そのように穏やかなレオノーラをウィーラーは初めて見た。
弟に向けるレオノーラの眼差しは、気高く美しく、第一王女としての気品に溢れていた。
身内に見せる柔らかな表情を、いつか自分にも向けてくれるだろうかと、ウィーラーは眩しい思いでレオノーラを見つめていた。
義弟になるジョルディとは、昨日挨拶を交わしていた。
赤茶の髪と少し垂れ気味の目はレオノーラとは似ていなかったが、その瞳の輝きの強さがそっくりだった。
優しい口調でウィーラーを「義兄上」と親しげに呼び、それが全く不快ではないことに驚く。
よほど人の懐に入るのがうまいのだろう。
現在国の外交は主にジョルディが請け負っているときく。
柔らかな印象だが、非常に頭の切れる男だとウィーラーは思った。
レオノーラはジョルディの手を離すと、ウィーラーに向き直り背筋をのばした。
自分を見つめるレオノーラの視線に、ウィーラーの心臓はぎゅうっと引き絞られた。
距離があるとはいえ、今まで自分を真っ直ぐに見つめてくる女性がいただろうか。
強い力を持つウィーラーは、大きな体躯も相まって相手に恐怖を与えやすい。戦場では大いに役立つが、さすがにウィーラーも常に戦に身を置いているわけではない。帰還した英雄の皇太子に尊敬の念を抱くことはあれど、常に身も凍るほどの冷気を纏うウィーラーは、女性にとって畏怖の対象だ。
幼少時から、女性の柔らかさや庇護される心地よさが極端に欠如しているウィーラーは、自分をひたと見つめるレオノーラに、胸が熱くなっていくのを感じた。
初めて会った時もそうだった。
レオノーラは強い瞳でウィーラーを見つめていた。
それはすぐに微笑みで隠されたが、ウィーラーはレオノーラの瞳の輝きが好ましかった。
しかも今、レオノーラは自分の妻になるために自ら進んでくるのだ。
(この美しい姫が、俺の妻なのだ)
レオノーラが一歩足を踏み出す。
(俺のものになるために、姫は歩いてくるのだ)
ウィーラーは焼けるような熱を感じ、抑えきれない思いが魔力となって一気に放出した。
ウィーラーの魔力に湖が呼応し、音をたてて凍りはじめる。
それでもレオノーラの瞳に恐怖は見えない。
ウィーラーの氷を溶かしながら優雅に進むレオノーラの、なんと気高いことか。
美しく微笑むレオノーラがそっと隣に立つ。
ウィーラーはもうレオノーラしか見えなかったが、ふとレオノーラが無邪気に笑ったので、そこにいる皇帝と氷魔術師の存在を思い出して腕を差し出した。
レオノーラの手がそっとウィーラーに触れる。
その初めての熱に、ウィーラーは感嘆の息を吐いた。
その瞬間、湖の氷が砕け、大きな虹を映し出す。
その美しい虹に見惚れるレオノーラこそ、何よりも美しいとウィーラーは思った。
「互いに尊敬し、尊重し、末長い幸せと、子孫繁栄を。」
氷魔術師による婚姻の宣誓が終わると、ウィーラーはレオノーラと向き合い、レースで覆われた細い肩に手をかけた。
神聖な誓いのキスなのだが。
(初めてのキスが父の前とは······)
複雑な思いになりながら、ウィーラーはレオノーラを見つめた。
目の前のワインレッドの瞳が、そっと閉じられる。
レース越しに触れた肩は滑らかで、きめ細かな頬はほんのり色付き、艶やかな唇が自分を待っている。
(ここに自ら口付けるなんて、どんな試練だ)
力加減も何もわからないが、いつまでも待たせるわけにもいかない。
ウィーラーはできる限り優しく、そっと唇に触れた。
レオノーラの唇はふっくらと柔らかく、ウィーラーの唇を包み込むようだった。
今までこんなに熱いものに触れたことはない。
ウィーラーの纏う冷気はすべての熱を奪うからだ。
それなのに、レオノーラの唇はいつまでも熱いままだった。
(なんて気持ちいいんだ······)
触れるだけだった唇を、ほんの少しだけ押しつけてみる。
その弾力にまた感動した。
(この熱をずっと味わっていたい)
じっくりとレオノーラの唇を堪能していると氷魔術師の咳払いが聞こえた。
ウィーラーははっと我に返りすぐに体を離す。
(失敗した······)
湖に向き直ると、ニヤニヤと笑いを隠さない皇帝が目の端に映っていた。