火因町編-5
担当作家の亜傘栗子は、人畜無害そうなおばさんだった。
おばさんというより、おばあさんに片足を突っ込んでいるので、どちらと言えば「おばさま」と言いたくなる。
紫に染められた前髪や猫のような丸い背、垂れた目なども品の良いマダムと言った雰囲気だった。
これで上手い事今流行りのシンデレラストーリーを描いてもらわないと。
しかし栗子は、グズグズとコージーミステリが書きたいとのたまった。噂には聞いていた。栗子の担当になるにあたってコージーミステリをいくつか読んで研究していたが、これほどグズグズとしたおばさんだとは知らなかった。
どちらかといえばサバサバ系に亜弓は、半分ウンザリしながら栗子の愚痴を聞いた。
亜弓は美人なので、ウンザリした顔も神妙そうな表情だと誤解してくれたようだ。とりあえてず栗子を好きなように語らせたが、シンデレラストーリーを正気が失いながら書いているのは、少し笑いそうになり奥歯を必死で噛み締める。本人は深刻な問題そうだったが、客観的に見るとちょっと滑稽で笑える。そもそも人畜無害そうなおばさんがキラキラ夢いっぱいの少女小説を書いているだけでもギャプがあり、少し笑えてくる。
そして人畜無害の羊のようなルックスとは裏腹に、栗子は意外と主張が激しかった。ハッキリと言いたい事を言う姿は少し日本人離れしている。一般的な日本人はどちらと言えば、のらりくらりと遠回しの表現を好む。
自己主張がハッキリした様子は、あのメンヘラ地雷妻を思い出してちょっとゲンナリとしていたが、栗子は再び何やら誤解してくれたようでペラペラと話す。単なる愚痴でがあるが、ここで無視するわけにもいかない。
出された紅茶が案外美味しいのが救いだ。この愚痴っぽいややメンヘラよりのおばさん作家の扱いをどうしようかと思考を巡らせていたとき、栗子が爆弾を落とした。
田辺とに不倫について聞いてきた。しかもかなり好奇心をにじませている。栗子が夫にモラハラされていた理由が少しわかる気がした。見かけは従順そうな羊であるが、中身は少々浮世離れしていて空気が読めないタイプのようだ。
上司である編集長は栗子は金持ちのお嬢様だっと言っていたが納得する。頭の中身がちょっとお花畑。まあ、そのおかげでロマンチックな少女小説が生み出されているわけだから文句は言えないが。
「私って男運無いんですよ」
あえてサバサバと過去の不倫の事情を説明した。
「サブカル系っていうか文化的な匂いがする男に昔から弱くって。そういう男ってたいていクズなんですけどね。それに田辺先生の奥さんがとんでもない女で、本当に参りました。不倫した罰は受けてる感じはします」
婚約破棄され、住む場所を失った。のこるは仕事だけだが、この栗子の扱い早くも良い予感はしない。
「だったらうちに住めばいいじゃない。メゾン・ヤモメは基本的に独身女性だったらオッケーよ。今は未亡人しか入居していないけど、未亡人限定シェハウスってわけじゃないし」
「そうですねぇ」
亜弓はその提案には絶対受けたくないと思った。家でも取引先の作家と顔を合わせる生活なんて。栗子も嫌じゃないのか。しかし、そんなつもりは全くないようで、ただただ親切心で言っている良うだ。やっぱり見た目通り、心根はお人好しというのは伝わってくる。ありがた迷惑だが。
「それにうちはシェアハウスだから家賃も結構安いの。電気代は一律10,00円っていう決まりだけど。水道代はただよ。週に何回か大家が趣味で料理を振る舞って貰えるし、お金の節約にはなるわよ」
その話を聞いて亜弓の心が揺れ始めていた。婚約破棄されたが、結婚準備で意外とお金は出て行ったし、そろそろ堅実に貯金もしたかった。
「それに皆んなで住んでるから、地震や災害の時も安心よ。孤独死の心配はないわ! これが一番の利点ね」
亜弓は思わず笑ってしまった。ジェネレーションギャプが面白かったし、見た目に反して中身は個性的なおばさまの性格が面白かったのだ。
思わずここに住む事を同意しそうになった時、客間に一人の男がやってきた。
「おいおい、しみったれたおばさん!」
口の悪い若い男だった。スーツ姿だったが、亜弓の好きなサブカル系男子のような雰囲気だった。細身で長めの前がよく似合う。あっさりとした塩顔だ。今はメガネをかけていないが、メガネもとても似合いそうだ。
亜弓の肉食スイッチがオンになった。
「この方は?」
「前の夫の息子なの。全く甘やかされて育ったせいで、時々お小遣いをせびるりにくるのよねぇ」
栗子はこの男に手を焼いているようだったが、タイプな男だ。ぐいぐいいこうではないか。亜弓は顔が良ければ多少性格や金遣いが悪くても気にしない。
「こちら、担当さんの滝沢亜弓さんよ。美人でしょう」
今日初めて栗子は亜弓の役立つ事を言った。亜弓は心の中でガッツポーズをとった。
「ふーん。そうでもなくね?」
男はじろじろと有弓の顔を見ながらぼそっと呟いた。亜弓は美人なので、下から媚を売るように寄ってくる男は後を絶えない。そう言った下手に出る態度は亜弓を萎えさせた。一方この男は、自分に興味がなく、若干上から目線だ。逆にゾクゾクする。余計に肉食スイッチを刺激された。
「ごめんなさいね。この子本当に口が悪くって」
「お花畑おばさんに言われたくねーよ」
「で、お名前は何とおっしゃるのですか?」
亜弓はしおらしい態度で男に名前を尋ねた。
「佐々木雪也」
ぶっきらぼうにつぶやいた。
「まあ、素敵なお名前」
有弓は、自分の名刺を半ば無理矢理雪也に渡した。こんな態度だったが、栗子や雪也は亜弓が肉食スイッチを入れている事は何も気づいていない。どうも鈍感そうな二人だった。
「私もここに住もうかと思ってるんです」
もう決めた。栗子とシェアハウスをするのちょっとはしんどいが、雪也と会える機会があるのは、こちらに利しかない。
自分で提案したくせに栗子は驚いていた。
「滝沢さん、本当にメゾン・ヤモメに住むの?」
やっぱりこのおばさん作家はちょっと個性的なのかもしれないと亜弓が思った。