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火因町編-4

 栗子は亜弓をはメゾン・ヤモメの一階にある客室に案内された。リビングと図書室の隣にひっそりと和室の客室があった。


 テーブルの上に紅茶とマドレーヌを置いていく。桃果は今回のマドレーヌの出来に自信があり、どんどんお客様に出してと言っていた。


 ふわりと紅茶の良い匂いがする。


「はじめまして。昼出版ルンルン文庫編集者の滝沢亜弓たきざあゆみと言います」


 亜弓は名刺を渡した。


「ごめんなさいね。こっちの名刺は切らしてるのよ」

「いえいえ、いいです。これ、ベーカリー・マツダさんのシナモンロールなんですけど」


 おずおずと差し出された小さな箱を受け取った。栗子の羊のようなタレ目が、さらに下がる。


「あら、嬉しいわぁ。ありがとう、シナモンロール好き」


 箱からもほんのり甘い香りが漂っている。今すぐ食べたい衝動をなんとか抑える。ベーカリーマツダのシナモンロールは特に絶品だ。シナモンが程よくきき、甘さがくどくない。しっとりとした生地は柔らかく、あごの力が衰え始めた栗子にも優しい食べ物だ。ベーカリー・マツダのガーリックトーストも絶品だが、カリカリとした食感のトーストは咀嚼そしゃくに時間がかかり疲れる。


「それとポイントシール集めてますか? ベーカリーマツダで貰ったんですよね」


 亜弓はシールと台紙をカバンから出して栗子に見せた。


「まあ、嬉しい。ここの大家と一緒にシール溜めてるのよ。毎年やってる火因町商店街かいんちょうしょうてんがいのパン祭りね」


 栗子は笑ってシールと台紙を受け取った。この調子だとあと二枚ぐらいはお皿を貰えるかもしれないし、祭りの抽選に賭けるのも良いだろう。抽選で貰える景品のケーキ屋スズキの豪華焼き菓子詰め合わせセットも気になる。


 そんな事を考えながら、栗子は紅茶を啜った。桃果が火因町商店街の激安輸入食品店で買ってきたものだが、値段の割に香りも味も濃い。客に出すのはどうかと思ったが、この紅茶が一番味が良いので仕方ない。意外とブランド力のある高い紅茶は味が薄く匂いもすぐ消えてしまう。栗子は別に紅茶好きではなかったが、少女小説の取材の為に紅茶を研究していた事もあるので、ちょっと詳しかった。


「ところで今日は新作に打ち合わせなんですが」


 紅茶やシナモンロールのおかげでいい気分になっていた栗子の気分は、亜弓のこの言葉で冷や水をさされた気分になる。


「今は明治大正あたりのシンデレラストーリーが流行っていまして。先生にもここで一つ書いて頂きたく」

「ああ、もうシンデレラストーリーなんて書きたくない!」


 思わず本音が溢れてしまった。少女小説では結局女性がハイスペックなヒーローに愛される話が一番ウケる。栗子もいくつかシンデレラストーリーを書いていたが、もう書きたくない理由はいくつかあった。一つは、コージーミステリを書きたいからだ。これは譲れない。二つ目は、栗子の結婚はたいして幸せなものではなかったせいだった。


 夫は学校の英語教師だったが、嫌味っぽく、頻繁ひんぱんに栗子を見下す発言をしていた。今風でいえばモラハラ夫といえた。前妻の息子を溺愛できあいしていてしょっちゅう息子に会いに行っていた。息子の雪也はいい大人だったが、すっかりファザコンと化し、栗子にも時々敵対心を見せてくる。


 そんな結婚生活を続けながら夢溢れるロマンチックなシンデレラストーリーを書くのは正気を失う行為だった。とくにシンデレラストーリーを書いている時は現実と書く物の天と地ほどのギャップに苦しみ、精神的にもしんどかった。シンデレラストーリーを書く時は抗うつ薬を飲みながら本当におかしなテンションで書かなくてはならない。


 しかし世間ではネット発の小説や少女漫画では再びシンデレラストーリーが流行っている事は耳に入ってくる。同じレーベルの作家も和風シンデレラストーリーを出してヒットしていた。編集者に再びシンデレラストーリーを依頼される事は、実は栗子はビクビクと怯えていたのだ。


 栗子は、この新しい美人担当編集者に事情をポツポツと説明いた。


 美女だからではないが、何となくこの女は話しやすかった。あまり否定的な事は口に挟まないし、とりあえず人の話は聞こうという姿勢は感じられた。


「そうですか。まあ、シンデレラストーリーは現実離れしていますよね」

「そうなのよ。嫌だわぁ。もうあんなもの書きたくない!」


 よく話を聞いてくれたので、栗子はどんどん本音が漏れる。 


 おっとりと人のよい見た目の栗子だが、中身もそういうわけではない。むしろ心の奥底では、ドロドロとした嫌なものが溜まっているし、意外とハッキリとものを言うので、よく人から驚かれていた。この亜弓も栗子の見た目と発言のギャプにちょっと驚いているようだった。


「私はコージーミステリが書きたい。殺人があって素人探偵が謎を解くの」

「いや、殺人事件があるライトミステリって日本ではちょっとニッチで厳しいんですけどね。それが好きな人は海外の本を読めばいいわけですから」


 栗子は、この美女も意外とハッキリ物をいうので、逆に好感を持った。編集者はのらりくらりと本当の事を言わな連中も多い。見た目が美女ではあるが、意外とサバサバしている女かもしれない。


「でもコージーミステリ書きたい」

「うーん、案外しつこいですねぇ。だったらこういうのはどうですか? 時代は大正時代でいいんですけど、ヒーローの友達は探偵にしてみるとか。まあ、恋愛は絶対入れて貰いますけど」

「恋愛が書きたくない…」

「そうは言っても少女小説で恋愛がないのはダメですよ。コージーでもハンナシリーズだって三角関係で揉めてるじゃないですか」

「それもそうね。アメリカのコージーミステリだって恋愛要素はあるものね。ってあなた、ハンナシリーズ読んだの?」

「ええ、先生の担当になるのなら勉強しないといけないので」


 ハンナシリーズは米国のコージーミステリシリーズだ。お菓子作りの上手なヒロインが町の殺人事件を解決する。本国では実写化もされ、長寿シリーズでもある。日本でも翻訳されシリーズが20作以出版されている。コージーミステリは翻訳が2、3作で打ち切られる事も多い為、日本で一番人気シリーズと言って良いだろう。主人公の恋愛事情も面白く書かれていて、美味しいお菓子の描写と共に楽しめる。


 栗子はわざわざハンナシリーズを読んでくれていたことが嬉しかった。今までの担当編集者はろくにコージーミステリについて理解をしよいうとしなかったのに。


 亜弓について栗子は興味を持つ。こんな美女なのにすけべったらしい恋愛小説家と不倫したのが信じられない。


「ところで、なんで滝沢さんは不倫なんてしてたの?」


 亜弓の顔が引きった。

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