火因町編-3
メゾン・ヤモメの一階はシェアハウスの住人のコミュニティスペースとなっていた。
広いリビングにはちょっとしたコーヒーステーションもあり、住人は自由に飲める。
リビングの横には書斎もあり、こちらも住人が自由に使える。キッチン、バス、トイレももちろん自由だ。ただ、他の住人が使っている時は遠慮しなければならないし、掃除当番も決まっているが。
リビングでコーヒーを飲みながら、栗子と桃果はグダグダと世間話をしていた。
桃果はここの住人でもあり、大家でもあった。大きな家を持て余しシェアハウスを始めた張本人である。栗子ち桃果はもともと友達同士だった。桃果がシェアハウスを始めるといったとき、自分も住みたいと即答した。もう一人の住人も栗子達の友人だったが、彼女は仕事に出ているので今はメゾンヤモメにいなかった。
「そういえばシーちゃん」
「何?」
桃果は栗子の事をシーちゃんと呼んだ。夫が呼んでいた「シープル」が由来だったが、実際栗子は羊に似ている事は確かだった。桃果はシープルではなくシープ(羊)という意味で、シーちゃんと読んでいるので、栗子は特になんとも思わなかった。自分でもやっぱり羊に似た人の良い顔だと思う。
一方、桃果は少しキツい顔つきだ。栗子と同じ歳だが、パーマを当てたショートヘアや濃いめのアイシャドウ、黄色やピンクの派手なシャツは、人の良い雰囲気の栗子とは正反対だったが、なぜか気があった。桃果は見た目ほど性格はキツくなく、むしろ少しコミュ障で引きこもりがちだった。栗子もそう社交的なタイプでもなく、こうしてリビング安楽椅子に座って編み物や雑誌をめくりながら、桃果と会話するのが一日中のうちの楽しみでもあった。
桃果はお菓子作りが趣味で、昨日作ったマドレーヌがすぐそばのテーブルに載っている。栗子はマドレーヌを食べながら、桃果に話を聞くことにした。
「このマドレーヌ美味しいわ。で、桃果、一体何?」
「私、見ちゃったのよ。香坂さんが、実は…」
「香坂さんって誰だっけ?」
「いやだ、シーちゃん忘れてたの? ここの裏に住んでる奥様」
「思い出したわ。もう歳ねぇ。物忘れがひどくって」
栗子の脳内に香坂の顔が浮かんだ。裏に住む三十代ぐらいの主婦だ。子供はいないようだが、身なりを綺麗にし、どちらと言えば美人だった記憶がある。そういえば最近、ネットに小説を書いていて書籍化デビューしたと聞いた。最近はこんな方法で小説家になる方法もあるのかと、おばさんである栗子はついて行けない。
仕事で流行っている小説を読む事あるが、ちんぷんかんだ。その点、少女小説は舞台は古代中華か西洋風異世界、日本だったら平安か大正時代が人気で、姫とか嫁が主役になる話ばかり長年人気だった。少女小説とは名前だけで、読者も高齢化している。栗子と同じぐらいの年齢の読者も珍しくなく、流行り廃りのサイクルも比較的ゆっくりめであるのは、初老に差し掛かったおばさんの栗子にも優しいジャンルではあった。本人はニッチジャンルのコージーミステリに固執しているわけだが。
「ちょっと、桃果。ごめん。もうすぐ担当編集者が来るんだった。香坂さんの話は後で聞かせて」
時計を見ると担当の亜弓が来る時間が近かった。15時ぴったりに約束していた。
「わかったよ。特ダネよ」
「後で聞くの楽しみにしてるわ」
そう言って桃果はコーヒーカップを持って自室へ戻ってしまった。
人畜無害そうに見えるおばさん二人だが、栗子も桃果もご近所の噂話を聞いたり仕入れたりするのも好きだった。
大抵はくだらない話題だ。あそこの家の息子がヤンキーになっただの、あそこの奥さんが宝くじで百万円当てただの、迷い猫が見つかっただの。
でもご近所の噂話は、芸能人のゴシップより身近で、政治家にスキャンダルよりもストレスがたまらない。ほのぼのと平和だし、利害関係もない。税金を使ってる政治家の不倫はストレスだが、近所の息子ちょっとヤンキーになったぐらいでは影響はない。
引きこもり体質の桃果と仕事で家に篭っている栗子にとってご近所の噂話は辛うじてで世間と繋がりがある事も自覚させられ安心もした。二人でぺちゃくちゃと話す話題にもなる。二人にとってご近所の噂話はちょとした娯楽のような面もある。また、噂話を膨らませて作品のネタにする事もあり、一石三鳥ぐらいの利がある。
そんな事を考えながら、亜弓のためにお湯を沸かし、お茶の準備を完了された。ちょうど茶葉をティーポットの茶漉しに入れたところ、チャイムがなった。
玄関に小走りに行って扉を開けると、とんでもない美女がいた。
唇はセクシーで、大きな潤んだ目も憂いがあって少女小説にも出てくるお姫様のように綺麗だ。
「こんにちは。亜傘先生。担当の滝沢亜弓です」
亜弓は深々とお辞儀をした。