火因町編-2
滝沢亜弓は、火因町の駅に降り立った。昼出版のある飯田橋から約一時間で着いた。駅の周りには商店街があるが、コンビニやスーパーなどは無く、遠くの方では野菜畑や梨畑が見える。
都会とそう遠くないはずだが、しみじみと田舎だと思った。
今日は新しく担当になった亜傘栗子に挨拶と打ち合わせに行く予定だった。婚約破棄され、今は適当な住む場所も見つからずネットカフェを点々としていたが、仕事があるだけありがたい。売り上げ不振の社内のお荷物部署ではあるが、仕事があるだけありがたい。
亜弓は仕事に精を出すことに決めた。担当作品も重版し、レーベル内で売れている。文芸の編集時代は目立った実績もなかったが、少女小説レーベルではもっと頑張れるかもしれない。亜弓は仕事にはやる気が出ていた。
駅を降りたら、商店街にあるベーカリーに向かった。栗子はここのシナモンロールが好きだという情報を編集長から得たので手土産に持って行く事にした。
ベーカリー・マツダに入店すると、男性客の視線を浴びた。可愛らしいこじんまりとした田舎のパン屋の中で、亜弓の姿は目立った。
この町ではキャリアウーマン風の女は目立つのだろう。それに亜弓は美人だ。ぽってりとした唇は色っぽく、目も大きいので人目を引く。こんな事決して他人に自慢できないが、モテる女だった。亜弓は男の趣味が悪いし、見た目に反して重い女だったし、そんな自分に嫌気がさし肉体だけの関係をダラダラと続ける事もあったので、幸せな恋愛は一度もできていなかったが。
シナモンロールは、クルクルと渦をまきツヤツヤとした砂糖の衣をまとい「食べて」と甘く誘惑してくる。10個近くトレイにとって行く。つばをゴクリと飲み込み、こんな砂糖のカタマリは決して食べないと亜弓は自制心をどうにか保った。栗子に持って行くものだし関係ないと我慢する。それより作家に機嫌をとっていっぱい書かせる方が重要だ。
「お会計お願いします」
「は、はい」
若い男性店員は、亜弓の顔を見て少し照れながら、シナモンロールを詰めて言った。この男も自分の容姿に関心があるようだったが、よくある事なのでスルーする。
「パン祭りのシール要りますか?」
金を払った後、話しかけられた。
「パン祭り?」
「キャンペーンで30点貯めるとお皿が一枚貰えます。うちの店だけでなく、お向かいのケーキ屋と、和菓子屋でもシール貰える商店街の共同キャンペーンなのですが。10点でも抽選でお菓子の詰め合わせが当たります。この抽選は来週のお祭りで行うので、早めに貯めておくと良いかもしれません」
こう言ったキャンペーンのシールやポイントカードの類はめんどくさいのでやらないタイプだが、もしかしたら栗子が集めているかもしれない。一応貰っておく。ついでにシール台紙になっているチラシもうけとった。
シナモンロールの入った箱を受け取り、店から出ようとしたところ一人の老人が店に入ってきた。老人は顔を真っ赤にさせて怒っていた。右手にはシール台紙も持っている。たった今亜弓が店員から受け取ったものと同じだった。
老人は少し腰は曲がっているが、相当元気そうだった。大きな声でクレームをつけている。
「あんた! 隣の香坂にもえこ贔屓してキャンペーンのシールを渡しただろう!」
男性店員はただただ当惑していた。おそらくこれはタチの悪いクレーマーというやつなのだろう。都心部の店ではあまりみないが、田舎ではよくある事だとネットニュースで見たのを亜弓は思い出した。
「そんな事してませんよ」
「嘘いえ! うちの妻が余分にシールを渡すの見たって言ってる! ずるいじゃないか」
「それは、こちらの不手際でお釣りを100円渡すのを忘れたからです。香坂さんは、そのかわりシールで良いって言うから…」
どこにでもクレーマーがいるのだ。そういえば田辺の夫の文花もクレーマー体質でよく昼出版に文句をつけに来ている。あの地味だが薄ら笑いを浮かべているメンヘラ地雷女を思い出し、亜弓の気分はとてつもなく悪くなった。
足早に店を出て、栗子がみるメゾン・ヤモメに向かった。
そういえば香坂ってどこかっで聞いた事のある名前だった。
誰だっけ?