火因町編-1
ここは関東の某県にる火因町である。
小さな町でカラオケボックスやオシャレなコーヒーショップもないが、概ね生活には不便のない田舎町だった。電車を使えば一時間で東京に出られるし、野菜畑や梨畑が散見される田舎の割には不便ではないのかもしれない。
駅がある町の中心部は飲食店や内科医、ベーカリーもあり便利だ。昔ながらの商店街である。
町の老人達は、主にこの商店街で買い物するが、近くに大きなスーパーもできて、年々商店街は寂しくなる一方だったが、根強く地元に愛されている店は変わりなく残っていた。
そのな商店街から歩いて数分。
どっしりとしたレンガの建物の洋館があった。もともとは金持ち未亡人の家だったが、一人の生活も持て余し、シェアハウスとして生まれ変わっていた。「メゾン・ヤモメ」というシェハウスで、その名前の通り、夫をなくした未亡人が入居していた。やもめは夫を亡くし孤独になった妻の事を指す。
そこの住人の一人・亜傘栗子もそうである。数年前に夫を亡くした未亡人だ。
メゾン・ヤモメの201号室の住人で、部屋の中は人一倍少女趣味だった。
棚にはぬいぐるみや少女漫画や翻訳ミステリがいっぱい詰め込まれ、カーペットやカーテンも花柄だ。カーテンはゴージャスなレースつきだ。翻訳ミステリはコージーミステリと呼ばれるもので、お菓子探偵ハンナシリーズやお茶と探偵、アガサ・レーズンシリーズなどが揃っていた。
壁には花や鳥の絵が飾られている。ベッドカバーもピンク色で全体的にフワフワとしたお花畑な部屋だった。十代の娘だったらピッタリな部屋だが、この部屋に住人はどう見ても五十代の女性だった。
髪の毛はグレーのショートだが、前髪だけは紫に染められている。痩せてはいるが、背は低く少々腰はやや曲がり猫背だった。
目の下と口元が深いシワがあるが、黒い瞳は好奇心に満ち、野生味も感じさせた。全体的にオットリとした雰囲気で、人の良さそうな顔立ちだ。第一印象は羊を連想させた。
実際、栗子は死んだ夫から「シープル」とよばれていた。
シープルとは羊を表す「シープ」と人を表す「ピープル」を意味する造語のネットスラングでもある。主に陰謀論界隈の人間が大人しく従順な人間を揶揄して使う言葉だ。死んだ夫も陰謀論にかぶれていて、よく栗子を「これだからシープルは」と呆れていた。それが嫌味や揶揄という事には気づいていたので、言われるたびに腹に怒りを溜めていた。
「ハァ…」
その栗子は、机に向かってため息をついていた。
机の上に置かれたパソコンはワードが開かれている。
この部屋で唯一少女趣味を連想させないパソコンでワードが開かれている。
ワードは白紙で一行も文字は打たれていない。
再び栗子はため息をついた。人の良い顔だが、何か悩みがあるのがありありと伝わってくる。
栗子は少女小説作家だった。昼出版という出版社の伝統ある少女小説レーベル・ルンルン文庫で書いている。執筆歴は20年以上のベテランで、濃いファンもついていた。主に平安時代、古代中華、大正時代のお姫様やお嬢様の政略結婚モノを書いている。
現代日本のカトリックの女子校を舞台にした青春物語が思わぬところで男性ファンの心を掴み、アニメ化や映画化、舞台化まで果たしていた。それは幸運が重なった故の結果で、基本的には濃いファン向けの細々とした執筆活動だった。
もちろん専業ではなく、ピアノの教師や家庭教師をしながらの作家生活だった。しかし、もう60にも近く、体力的にも無理があったし貯金もそこそこあった為、去年から専業作家をしていた。夫ももう亡くなっていたし、文句を言うものも居なかった。
「私、本当はコージーミステリ作家になりたかったのよねぇ」
思わず栗子の口から愚痴がこぼれた。
栗子はもともと少女小説作家ではなかった。昼出版という出版社の文芸新人賞を取った。処女作で『パティシエ探偵花子!』という小さな田舎町で起きる殺人事件の謎を解く話をミステリの新人賞をとった。殺人事件はもちろん美味しいお菓子や可愛い動物の描写も多いコージーミステリだが、全く売れなかった。
コージーミステリとは海外のミステリの一ジャンルで、代表的なものアガサクリスティのミス・マープルシリーズだろうか。小さな町で起きる殺人事件を素人探偵が解決するライトミステリで、女性飲食店経営者やパティシエが主人公である事も多く、料理描写も豊富。残酷な描写が少なく女性がターゲットの軽いミステリだ。
しかし日本では殺人事件を扱う軽いミステリはあまり需要はなかった。もともと職人気質が強い日本でプロの警察を差し置いて素人調査することも好まれないのかもかもしれない。どちらと言えばナイーブで繊細な国民性である日本では殺人事件を扱う事自体避けられる要素でもあるのかもしれない。
日本で翻訳されるコージーミステリで打ち切られず続くものは稀だった。現在続いているものは、お菓子探偵ハンナシリーズ、アガサ・レーズンシリーズ、貧乏お嬢様シリーズ、お茶と探偵シリーズ、コクと深みの名探偵シリーズの5つぐらい。日本のライトミステリ市場と比較すると圧倒的な少なさだ。日本の経済が悪化して本を買う余裕の無い人が外国よりも多いのかもしれないが。
日本のライトミステリ市場では人の死なない日常の謎解きが主流だ。ニッチジャンルの『パティシエ探偵花子!』はデビュー作として華々しく出版されたものの、売り上げ不振でシリーズの予定は消え去った。そもそも殺人事件が起きるライトミステリを読みたければ翻訳されたコージーミステリを読めば良いわけで、『パティシエ探偵花子!』の様な和製コージーミステリは相当ニッチなジャンルと言ってよかった。栗子の歴代担当編集者達は、そう分析していて反論出来なかった。
その代わり少女小説作家としては比較的セールス的に恵まれた。濃いファン向けとはいえ、必ず発売即重版する栗子は出版不況の中では貴重な存在で、少女小説をやめる機会を逸していた。
運がいいのか、悪いのか、カトリックの女子校舞台の青春小説がヒットしてしまい、ますますそのチャンスは打ち砕かれてしまった。
『パティシエ探偵花子!』の続編の企画書は、懲りずに十年以上出し続けているが、企画が通る気配はどこにもなかった。人の死なない日常ミステリに変えてくれれば企画が通ると言われた事もあるが、コージーミステリに殺人事件はつきものだ。そこは絶対に変えるつもりはない。コージーミステリに殺人事件を抜いたらウィンナーが入っていないアメリカンドッグの様なものの様になる。殺人事件を書くからこそヒロインの正義感や日常生活の平和さ、ほのぼの感が際立つのだ。
今は、少女小説を書くのも飽きてしまった。余計に「パティシエ探偵花子!」の続きが書きたかった。
新作の少女小説のプロットも何本か書き上げているが、ちっとも書く気がしない。デビュー当時から付き合いのある編集者も退職してしまい新しい担当編集者になった事も不安を作っていた。
滝沢亜弓という可愛らしい声の若い女だった。電話では若いがしっかりした娘という印象だったが、インターネットで彼女の名前を検索するととんでもない事が騒がれていた。
恋愛小説家の田辺哀夜と不倫をして殺人事件の容疑者から脅されていたらしい。そのおかげで田辺の評判もゲス不倫作家だと落ち込んでいる。栗子は一度出版社のパーティーで田辺を見たことがあり、確かに女にデレデレとしていて軽薄そうな男だったが…。そんな事もあり、新しい担当編集者についても不安が拭えなかった。
「あぁ、コージーミステリが書きたい!」
栗子は、再びグズグズとつぶやいた。