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アーティスティック:執念は集積する

作者: 久本

絵画、油彩においては特にそうなのだが、絵を描くとは削り出す行為に近いものがある。

白いキャンバスの前に立ち、絵の具を乗せる。乗せて、乗せて、大まかな形を一面の白の中から削りだす。

私はパレットにテールベルトとバーントシェンナを混ぜ合わせ、それをテレピンに溶き、キャンバスに乗せる。さらさらとした油が濁った色を伴って画面を滴り落ちる。

その軌跡すら、掘削だ。

顔のおおまかな形ができたら、鼻筋を。口を、目元を。削り出し、それをまた細かく削り出す。

彫刻と違って気楽なのは、何度でも取り返しがつくことだ。

削り出した形が違ったら、それをテレピンを染み込ませたティッシュペーパーで拭き取り、再び削り直す。なんども、なんども。

「油絵って、なんか難しそうに見えるけど、これほど気楽な絵画はないよ。間違えたら、いくらだって上から塗りつぶせるんだから。」

アンドゥ機能が普及した時代でそんなことを言われても、と思わなくはないが、それでもその言葉にはおおよそ賛成できる。

絵画とはすなわち、削る行為、線を描く行為の集積だ。何度も削り、描き、一番良いものを採用し、再び積み重ねていく。執念の積み重なりこそが絵画である、と私は定義する。



私は数年前、アトリエでとある人物に問われた。

「君は、アートをどう定義する?」

私は言葉に詰まった。彼はこう続けた。

「アートをやってる人でも、こう聞かれると言葉に詰まる人が多いんだよね。不思議じゃない?みんな、自分が何を作ってるかわからないままものを作ってるんだよ。」

キャンバスに絵を描いたものがアートなのか。石を削った彫刻だけがアートなのか。

ならばマルセル・デュシャンの『泉』はアートではないのか。

「僕は、その答えが人の数だけあっていいと思っているよ。それこそがアートの多様性で面白さだから。だけれど、その基準がないのはまずい。アートを前にした時、そのアートが良いアートなのか、悪いアートなのか、判断する基準が曖昧なのは良くない。これから、どんどんと、今までアートと呼ばれなかったものたちが、アートと呼ばれる時代になっていくからこそ、ね。」

神の姿の美を描いた作品だけしか、アートとして認められない時代があった。それが多様化し、これだけ自由な時代に生まれたからこそ、我々はその大海原に呑まれぬよう戦わなくてはならない。

そう、私は彼の言葉を受け取った。



私は去年、彼女に問うた。

「君は、アートをどう定義する?」

彼女は暫し考え、レモンサワーを一口、こくりと飲み込み・・・こう答えを出した。

「額縁に入れて飾ったら、それはアートになるんじゃないかな。ただ描いただけじゃ、机の落書きと変わらないもの。」

アートとは本質的に自分の為にやることだ。自分の為に作った自己満足のものを、人前に恐れ多くも展示させていただく行為。

「人前に出す、っていうことが大事なんだと思うよ。その配慮に欠けているもの・・・いや、配慮というか覚悟かな。それが欠けているものを、私は良いアートとは呼べないかな。」

なるほど、と思った。あの問いから数年、私は幾度となくアートに携わる人間たちに、その問いを投げかけつづけていた。そして、自分が聞いた数多の返答の中で、彼女の答えは最も合理的で納得ができるものだった。

自分の為にものを作る。そして、それを恐れ多くも人前に出させていただく。だが、それが不思議と、結果的に誰かの胸を打つことがある。

それは、奇跡と呼んで差し支えない。鑑賞者の存在しない作品は、アートではないのだ。

私はそう、彼女の言葉を受け取った。



私はつい先日、彼にこう問うた。

「君は、アートをどう定義する?」

電話口で、彼は言葉に詰まった。私は数年前のアトリエの言葉をそのまま彼に繰り返した。

「はー、なるほどな。面白いね、それ。俺はアートのことなんかわからないけど、それは面白いと思う。」

彼は目の前に広がった新しい知見に目を輝かせ、興奮気味に言葉を続ける。

「俺たちの仲間内でも、なんか物作りにはまって気軽にアーティストを名乗る奴はいるけどさ。結局ああいう人たちは字面が格好良いからアーティストを名乗ってるだけなんだろうな。」

はあ、なるほど、と彼はしきりに感嘆を繰り返し、そして彼は私の作るものを見たがった。

「ねえ、今はなんか作ってないの。見たいな。」

仕方なく写真を送ったのは、随分昔に描いた木炭デッサン。

自信作には違いないけれど、なんだか後ろめたい。

・・・最近は人前に出せるもの、どころか、制作すらろくにしていないのだ。

ここまで偉そうに語っておきながら。酷く恥ずかしく思った。



「ねえ。やっぱり、君は絵を描きなよ。」

仕事中。世間話をした時。店長がふとそんなことを言った。

「なんですか、急に。」

「絵じゃなくてもいいけど。イラストでも、小説でも、音楽でもいい。作るのやめたら、もったいないよ。」

心臓に氷を刺された気分だった。この上司は、普段は酷く適当で軽薄な態度で振る舞うくせに、妙に勘が鋭い。

「・・・急に真面目に話されるとびっくりするんですけど。」

彼にアートの話など振ったことは一度もなかった。ただ、最近、一生懸命にアートに取り組んでいた時のことを思い出して、切なくなったことがあっただけ。

それほど分かりやすい人間だとは自負していないが、もし私の話ぶりや勤務態度を見て、それを見抜いてしまったのだとしたら、全く、恐ろしい。

「オッサンはいつだって真面目だよ。見てれば分かるでしょ?」

「いえ、全く。」

人前に出せると納得がいく作品など、もう何年も作れていなかった。

人前にアートを出すのは、苦しい。

自分の為に作ったものが他者の評価に晒されるのは、恐ろしい。

作ったぶんだけ挫折を味わった。自分の内から現れたものを否定される恐怖を味わった。

「・・・別に、もういいんですよ、アートは。作りたくなったら作るし、作りたくない時は作りません。今は仕事が楽しいから十分幸せなんですう。」

そう言った顔はきっとうまく笑えていなかった。




だから、何を馬鹿なことを、と内心自分でも思った。

次の休み、ふと電車にのって出かけた新宿で、世界堂の看板を見て、吸い込まれるように入店して、F10号のキャンバスと絵の具を数本、そしてテレピンの瓶を手にとってレジに向かってしまった時。

何をかっとなっているのだと思った。

描きたいものも特に思いつかないくせに。どうせ白紙のまま壁に立てかけて終わりだろう。

部屋に戻り、賃貸の六畳間にダンボールを敷く。

イーゼルもないので、キャンバスを壁に立てかけた。

埃をかぶってしまった油絵の道具を開ける。そこで紙パレットを切らしていたことに気づき、仕方なくその辺に落ちていた紙袋に絵の具を広げ、使わなくなったタッパーに油を流した。

即席のアトリエの完成である。

何を描こうか。とりあえず、人体を描こうか・・・。

「描きたいものもないし」と、ここ2年ほど続けていた言い訳は、そこで一瞬の間に瓦解した。

適当にテレビをつけ、目に止まったバラエティ司会者をそのままキャンバスに写し取る。

「ああ、もう。イライラするな。全然似てこない。もう・・・。」

1時間ほどかけて丹念に削り出した形を、テレピンで拭き取り、無に帰す。

ものを作るのは、辛い。作ったものを人前に晒すのは、怖い。

だけれど、作ることをやめてしまうのは、惨め、かもしれない。

「鼻は、もうちょっと、大きい。目はつり目。涙袋をおおきく描いて・・・。」

気づいたら、明日も仕事だというのに時計は深夜2時を回っていた。



「店長、私、最近また絵を描いてるんですよ。」

「おお、よかったね。」

上司は私に絵を見せろとも言わなかった。本当にアートに興味がないのだろう。

それだけ言うと、彼はカウンターに座って再びスマホを弄り始めた。

勤務中にツイッターを見るのはどうなのだ、と思わなくもないが、そういう気楽な職場で働けているのは私にとっても幸運だと思っているので、何も言い返さない。

今日も帰ったら絵を描くのだろう。いや、今日は小説をまた書いてみようか。

こんな調子でのんびり、気の向くままにやっていたら、再び人に見せられるような完成度の作品を作れるのは、一体何十年後になるやら。

それでも、仕方ない。

私は興味の向くまま、作りたいときに作るし、作りたくない時は作らない。そういう人間だ。

アートに人生を捧げていたら就職なんざするわけない。

それでも、今、たまたま、様々な偶然が重なって、作りたくなったから作っているだけ。

それだけのことだ。

別に、大した話でもなんでもない。こんな話は。


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