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陰陽なりて  作者: モモサト
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胎動

 真夜中の時間帯に直柔は、ふと目を覚ました。


 一瞬、薄暗闇の中でおぼろげに見える景色が、まるで見覚えのない場所のように見えて、胸騒ぎにも似た薄気味悪さを覚えたが、直ぐにここが司馬田病院の病室の一室であることを思い出す。


 今、何時なんだろう?


 寝慣れないベッドの上で身じろぎしながら、うる覚えの時計の場所を探すと、ナイトテーブルに置かれたデジタル時計が夜中の2時13分であることを示していた。


 ……嫌な時間に目が覚めてしまったな


 デジタル時計の緑の蛍光色に輝く時刻表示を眺めながら、ぼんやりと思う。


 どうせなら外が明るくなるまで寝ていたかった。


 いつもなら一度寝入ってしまえば、夜中に目が覚めることなど、ほぼほぼないのだが…。


 司馬田病院は夜9時に病室が消灯されるため、いつもより2時間くらい早い時間帯に寝入ってしまったことがいけなかったのか。


 寝慣れぬベッドに寝具が変わったせいか。


 もしくは、いつも隣の布団で寝ている妹がおらず、何かのお泊りの時のように知っている友達も周りにいない。同じ入院患者のお爺さんらはいるが、それもベッドカーテンの向こう側のことで、ある意味初めての一人寝に緊張でもしたのか。


 …昨日の出来事のショックが強過ぎたのか。


 ――理由を考えれば可能性のある答えは幾つも思い浮かんだ。




 「なんか寒いな」


 夏場だが、病室内の空調は寝苦しくない程度の温度が維持されており、肌寒さを覚えて蹴飛ばしていた布団を掛け直そうと体を起こすと、自然に病室内の全景が目に飛び込んできた。


 病室内は、窓を覆う薄いカーテン越しに差し込む光で、うっすらと辺りを見渡せる程度には周囲を確認できるのだが、それが逆に光の全く届かない闇に覆われた場所を浮き彫りにしているようで恐ろしかった。


 僅かに開いたベッドカーテンの隙間の先にある闇の中に〝何か〟が潜んでいるのではないか。


 ベッド脇の影の淵から、何かが此方を伺うように覗いているのではないか。


 そんな妄想にも似た考えが頭から離れない。


 何があるのかも見通せぬ暗闇が、まるで死の世界に繋がる道のように見えた。


 それくらい病院という特殊な場所が、そして実際に〝何か〟が潜んでいるかもしれないことを知っている恐怖が、未明の闇への恐怖を一層引き立てた。

 

 そして一度、恐怖を自覚すると、その恐れは朧気な形から、具体的な形へと膨れ上がっていく。


 昼間見た〝アレ“が、もしかしたら自分を探しにくるのではないか。


 もしかしたら、もっと人の形をしていない〝何か〟が出てくるのではないか。


 恐い、怖い、こわい。


 闇の中に一人放り出されたような今、誰かが傍にいてくれたら、どれだけ心強いだろう。


 直柔は、そんな目に見えない何かへの恐怖に囚われそうになって助けを請う、自分の弱さを振り払うように一度、頭を振って大きく息を吐き出す。


 話さないって、自分独りで抱え切るって決めたんだ。

 恐いけど、怖いけど、こわくて堪らないけれど、それでも譲れないことなのだ。


 あやめの話を聞いた時、なんとなく分かったのだ。

 ああ、これは絶対に話してはいけないことなのだと。

 この世には誰かに話しても解決しないことがあって、話しても状況が悪くなるだけのことがあるのだと。


 そう強がれば心優しい誰かは、誰かに話すだけでも楽になると言ってくれるだろう。けど、その誰かは、その分だけ重荷を背負うことになるのだ。


 辛さを、恨みを、悔しさを、寂しさを。


 だから思ってしまうのだ。そんなものを大切な家族に背負わせるのは、どれだけ残酷で罪深い行いなのだろうか、と。


 それが、その時、一度きりならば良いだろう。けれど、あやめの話のニュアンスを聞く限り、自分はこれから死ぬまで、その問題を背負い続けなければいけないのだ。


 ならばだ、毒にも似た、その暗い言葉を家族の中に垂れ流し続けることができるだろう。


 例えば、家族の誰かが「苦しい」「死にたい」などという悲嘆の声を漏らしたとする。その悲しみ、辛さを一日ならば受け止めることはできるだろう。けど、それが1月続いたら、1年続いたら、5年続いたら、10年続いたら、それを受け止めきることができるだろうか。


 答えは、きっと、できるだろうし、できないだろう。大切な家族だから見捨てることができないから必死に受け止め続けて。受け止めることに疲れてぼろぼろになっている、受け止めきれなかった家族の姿が漠然とだが確かに思い浮かぶ。


 良くも、悪くも、家族というのは、そういうものではないかと思う。


 その有り様のなんと美しく残酷なことだろう。


 大切だから、見捨てることなどできないから、抱えきれなくなって爆発するのだ。


 だからこそ第三者の立場で、その一時だけ集中して誰かに寄り添うことができるカウンセラーという職業があり、必要とされるのだろう。


 それに加えて、自分の抱えている問題は、一般常識の範疇の外側の問題だ。

 両親が、どういう反応をするのか分からないし。何よりも、そんなことで自分より幼い妹の夏夜に余計なものを背負わせることだけは死んでも御免だった。


 こんな答えを出してしまう辺り、もしかしたら自分は心のどこかで家族のことを信じ切れていないのかもしれない。


 だから、人様から見たらお世辞にも立派な家族だとは言えない、たいした家族ではないのかもしれないけれど、それでも自分には決して曇らせたくない大切だと思うものがそこにあるのだ。


 ただ、傍にいてくれるだけで自分は救われるから、だからその大切なものを守るためならば、テメェの問題くらいテメェで背負わねばならないと思うのだ。


 直柔にとって家族は自分を甘えさせてくれる場所であると同時に、守るべきものだから。そのためならば自分の命の一つや二つ賭けねばならない、賭ける価値があると思えるのだ。


 そう、自分の無事を心底喜んでくれた夏夜の笑顔を曇らせることだけは絶対にしないと自然に思えた。あの時、守りたいって思った気持ちだけは本物だと思うから、死んでもその思いだけは偽物にしたくなかった。


 だからこそ、この闇を目の前にした自分が何処かに捨てられてしまったような心細さも、闇を前にした本能的な恐怖も自分は独りで噛み締めなければならないのだ。


 恐くない、怖くない、こわくない。


 肌がチリチリと泡立つような感覚を覚えながら、自分にそう言い聞かせて、恐怖の根源である闇を睨み据える。


 そうしながら恐怖に呑まれそうになっていた気を落ち着け、あやめの言葉を思い出す。


 あやめは、見ざる、聞かざる、言わざるを徹底しろと言っていた。


 大概の相手は波長さえ合わさなければ不用意に関わり合いになることもない、とも。


 それならば、こうして意味もなく身構えてしまうことも、見ざる、聞かざる、に引っかかる反応だろう。


 そうだ、自分がどうしたいかという気持ちが既に定まっているのなら、変に気負う必要も、覚悟を決め直す必要もない。ただ普通を装っていればいいのだ。


 むしろ、相手を睨み据えて威嚇するなんて、何かが見えていますよ、と言っているようなものだ。


 直柔は一時の恐慌状態を抜けて、冷静になった頭で考えを整理すると、自分は幽霊など信じていないから怖くとも何ともないのだという風を装い、布団を掛け直して横になる。


 それで直ぐに眠気が来てくれれば良かったのだが、残念ながら変に目が覚めてしまっていて寝入ることができなかった。


 直柔は仕方なく眠気が来るのを待つ間、明かりの差し込む薄いカーテン越しに見える、窓の外をジッと眺めていた。


 先ほど感じた本能的な恐怖が抜けきらないのか、心の中がざわめくように落ち着かず。少しでも明るく、病院の外にある生きた世界を見ていると少しだけ救われたような心地になったからだ。


 恐くない、怖くない、こわくない


 そう念仏でも唱えるように心の中で繰り返し、ざわつく心を落ち着けようとするのだが、一向に心は落ち着いてくれなかった。




 どれだけの間、そうしていただろうか。




 落ち着かない心に直柔自身が、気疲れのようなものを感じて、今何時なのかとベッドの中で身動ぎしてナイトテーブルの上のデジタル時計を確認する。


 緑の蛍光色で輝く数字は2時13分を示していた。


「えっ?」


 起きて直ぐ時計を見た時も、時計の時刻は2時13分ではなかっただろうか。


 何かの勘違いか、見間違いか、という疑問がまず浮かんだ。

 だが、それと同時に直柔の中に「何かがおかしい」という直感にも似た確信が生まれた。


 …もしかして、また入り込んでしまったのか?


 あやめが迷道と呼んだ、あの世とこの世の境界線にも似た場所に。


 胸の奥の騒めきが一層強くなり、背筋に嫌にじっとりとした汗が流れる。

 直柔は努めて、寝た振りを続けながら、耳を澄まし、自分の心の内側に意識を向ける。


 自分は本当にあの時のように迷道に入ってしまったのだろうか?


 心が騒めいて、落ち着かない感覚は、確かにあの時と似ている。


 けれど、誰かの感情が、自分の内側に入ってくるような気持ち悪い感覚はない。


 だが、窓の外ではなく、妙に薄暗い病室内を見ていると、どうしてか寂寥感にも似た薄ら寒い気持ちが浮かんでくる。


 それは、悲しい映画を見たら悲しくなるような、もしくは事情も何も知らない誰かが泣いている姿を見て、きっと悲しいのだろうと察することができるような感覚にも似ていて、壁一枚を隔てたような他人事でありながら自分の心を揺さぶってくる。


 だが、やはり落ち着いて分析してみると分かる。


 この心の騒めき方は、迷道に入り込んだ時に感じた感覚と似てはいるが違うものだ。


 前に入り込んだ時は、もっと自分の心まで沈んでいくような重苦しく、空気が凍ったように感じられる生々しさがあった。それは壁一枚隔てたような感覚などではなく、自分が当事者になってしまったような悍ましさだ。


 だから自分が、再び迷道に入り込んでしまったのか、どうか。


 以前の感覚と照らし合わせて考えると、思い過ごしとするには違和感が激しく、入り込んだと断言するには決め手に欠けていた。


 あの時は、意識して気のせいだと感じていた怖気を無視していたこともあって〝何か気持ち悪かった〟くらいの不正確な記憶しか、大きな印象が残っていないことが悔やまれる。


 そのせいで自分が怯えているだけなのか。それとも本当に、あの異常な事態に再び巻き込まれているのか。自分でも判断がつけられなかった。


 ただ、これだけは分かる。異常事態に対処するに当たって、これまでの常識が全く当てにならないという事だ。


 だから直柔は、直感を、もっと言えば本能を信じることにした。


 言葉にできない第六感で感じる、「違和感」「異物感」「ここが普通ではない」と、自分の身に危険が迫っているかもしれないと感じる直感を信じた。


 警戒のし過ぎならば問題ない。だが、心構えもなく〝アレ〟と対面して平静を装うことなど絶対にできない、嫌な自信がある。



 だから、心を備えておくのだ。



 どんなことがあっても自分は、何も見えてもいなければ、何も聞こえていないのだと装うために。

 

 直柔は一度小さく深呼吸をして、無意識か、意識的か、自分でも分からないが、自然とあやめに貰ったお守りだというネックレスを握りしめる。


 自分は、何も気づいていない、感づいていないのだという体を装って、身動ぎするのを止める。その前にチラリと見た時計の時刻は、やはり2時13分のままだった。


 目を瞑るのは恐ろしかったが、もし起きている姿を〝何か〟に見咎められたと思うと、そちらの方が恐ろしくて寝たふりをするために目を瞑った。




 そうすると視覚以外の感覚が自然と鋭敏になるようで、先ほどまでは気にならなかった僅かな物音などが気に掛かりはじめた。


 何故か、周囲からは不自然なほど物音一つ聞こえず。


 空調の音も、ほかの人の寝息も、ナースセンターで待機している筈の看護師さんたちが立てる物音も何も聞こえない。


 まるで世界に自分独りしかいないかのように、自分の少し荒くなった呼吸音と、僅かに身動ぎした時に軋むベッドと布団が擦れる音以外は何も聞こえなかった。


 だからだろう。周囲を警戒するために耳を澄まして、自分が立てる物音以外の音を拾おうとしてしまったのは。


 何の音も聞こえない。


 嫌に激しい動悸の音が耳の奥で大きく響く無音の先に意識を傾けて…



 「な…ど……て」



 消えいりそうな誰かの小さな声を拾ってしまった。


 さっきから不整脈かのように落ち着かなかった心臓の動悸が痛いほど跳ね上がり、思わずビクリと震える。



 気のせいか?


 本当に聞こえたのか?



 意識をさらに研ぎ澄まして、先ほどの声が聞き間違いなのか、どうかを確かめるように意識を傾ける。


 「な…ど……て?…な…きゃ……な……」


 すると今度は、確かにハッキリと誰かの話し声が聞こえた。


 その声はどうやら幾分か遠くから聞こえてきているようで、少なくともこの病室内にいる誰かの声ではなかった。そして聞こえる限り、おそらく喋っているのは誰か一人だけのようだ。誰かが廊下に出て、携帯電話で通話でもしているのだろうか。


 そこまで考えて、あれ、と不自然なことを思い出す。


 直柔は、携帯電話を持っていないため話半分に聞き流していたから、もしかしたら間違っているかもしれないが、この病室に案内してくれた看護師さんは夜9時以降の携帯電話での通話は禁止だと言ってなかっただろうか。


 さらに通話する際は病室がある棟とは反対側の公衆電話があるエリアの付近でして欲しいと言っていなかっただろうか。


 ゾワリと嫌な予感を感じながら、その声の主の正体を確かめるように耳を澄ます。


 考えられるとしたらナースセンターにいる看護師さんが何らかの理由で電話をしているか。


 誰かがルールを破って通話をしているか。


 ……この世のものではない〝ナニ〟かが話している声だろう。


 「………て、わ……は………し……も…かたなか…た…」


 再度意識を集中して聞いた声は、不自然なほど不明瞭で掠れていた。


 だが、おそらく声の高さ的に、大人の男性の声ではないだろう。


 声変わり前の男の子か、年齢までは分からないが女性のものだろう。


 そして、その声は直柔の病室を出て右手側にあるナースセンターとは、反対側の方向から聞こえてきたような気がした。


 正確な距離までは定かではないが、幾ら周囲が無音だからと言って廊下越しに反響して声が届いてくるくらいだ。離れていると言っても、せいぜい直柔のいる病室から2つ3つ先の病室くらいだろう。


 …そして残念ながら声の聞こえてきた方向から考えるに一番無難な回答候補であった。ナースセンターで看護師さんが電話応対しているという可能性が排除されてしまった。


 それの意味するところを無意識の内に察して、胸やけにも似た気持ち悪さと、息苦しさを覚える。


 残る無難な回答としては、誰かが規則を無視して携帯電話で通話をしているから辺りだが、こんな夜の病院の廊下に反響するように話していて、看護師さんや警備員さんが全く注意しない何て事があるのだろうか?


 直柔には、その可能性が高いものだとは、どうしても思えなかった。


 ならば、残る可能性は嫌でも限られてくる。


 最後に残って一番可能性が高いのは、一番想像したくなかった答えだった。


 もう聞きたくない。


 それが、現実逃避以外の何物でもないことは、薄々は自分でも分かっていた。


 それでも、これ以上遠くから微かに聞こえる何者かの声を聞きたくなくて、直柔は耳を澄ますのを止め、廊下に背を向けるように寝返りをうち枕と腕で耳を塞ぐ。


 そして、早く眠くなってくれと願った。


 だが、得てして、そういう時に限って眠気はやってこない。


 そうでなくとも心が騒めいて、落ち着かったのだ。その上、緊張で気持ちが張りつめている一種の臨戦態勢のような興奮状態にあって眠気など訪れる筈がなかった。


 むしろ外界の音を遮断したがために、危険を訴える心の中で暴れる恐怖の声が、自分の中で大きくなっていく。


 声の主である何者かは今、どの辺りにいるのだろう?

 自分から離れて行ってくれているのだろうか?

 …それとも此方に迫ってきているのだろうか。


 その何者かが本当に最悪の想定通りの存在だったら、もし見つかったらどうなってしまうのだろう。

 ――考えすぎだ。

 …けど、その逆だったら?

 むしろ考えが足りないくらい、想像よりもっと恐ろしいナニかだったら?

 声の主の正体は何なんだ?


 一度は振り切った筈の恐怖心が、際限なく自分の中で膨れ上がっていくのを感じる。


 それくらい〝何者か〟の正体が分からない、という恐怖は耐えがたかった。


 そして直柔には、いつ来るとも知れない危機を、どうせ来るときは来るんだと開き直って、無視し続けられるほど豪胆な精神は備わっていなかった。


 直柔は、自身の体感で3分もしない内に耳を塞いでいた腕をどかすと、先ほど遮断してしまった微かな声を拾おうと耳を澄ます。

 

 だが、今度はそれほど意識を集中しなくても、その声は聞こえてきた。


 「どうして…」

 

 その静かだが有無を言わさぬ詰問するような迫力の籠った聞き覚えのあるフレーズに、その声の主が昼間、遭遇した〝アレ〟であることが何故か直柔には直感的に分かった。


 「な…、ど…して死ななきゃ…けなか…た?」


 そして、それ以上に聞こえてくる〝アレ〟の声の近さにギクリと、全身がささくれ立つような怖気が走り抜ける。


 答えを返してくれる誰かを探して〝アレ〟が此方に近づいてきている。


 声の発信源は左隣の病室か、よくて2つ先の病室くらいだろう。


 そして恐らくだが〝アレ〟が、答えを求めている「誰か」とは自分なのではないだろうか。


 そう考えてしまうと、もう駄目だった。


 反射的にヒュッと呼吸を吸って、溢れ出しそうになった悲鳴をかみ殺す。


 だが、どうしても動揺のせいで呼吸が荒くなってしまう。

 これでは、とてもではないが、寝ていることを装うことなど無理だろう。

 何としても寝息の範疇に収まる程度には呼吸を落ち着けなければなかった。


 落ち着け、怖くない、俺は何も見えてない、聞こえてないんだ。

 

 「なぁ、本当に死んでも仕方ながったのか?」


 そうしている内に、その声はさらに近づいてくる。


 「なぁ、ワダシは本当にもう十分に生きたのけ?」


 語調こそ静かだが、責め立てるように迫ってくる問い掛けの言葉が恐ろしかった。


 そんなこと俺が知るかと叫び返すことができたら、どれだけ楽だろう。


 けど、それが〝アレ〟が求めている回答ではないことは幾ら何でも分かる。


 そして、求めている回答を答えられなかった時、どうなのるのかは分からかったし、想像もしたくなかった。


 「なぁ、わだしは本当に、もう死んでもがったのか」


 そして、只の勘だが〝アレ〟が求めているだろう。


 「死んで仕方なかったなんて事がある筈ない」とか、「死んで良い筈がない」と言った答えを返した時、何か取り返しのつかないことが起きるような気がして仕方なかった。


 それは、その静かな問い掛けの言葉の奥に潜む、煮えたぎっているドロドロとした黒い感情の存在を無意識の内にでも感じていたからだろう。


 だから直柔にできることは、あやめが教えてくれたように、見ざる、聞かざる、言わざるを徹底することだけだった。


 そのために、直柔は必死に自分の気持ちを落ち着け、寝たふりを装うとするのだが、なかなか荒くなった呼吸が落ち着いてくれない。


 ――落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け、怖くない、怖くないんだ。


 必死に息を止めるようにしながら呼吸を寝息程度のものに抑えようとするのだが、耳の中で大きく反響して聞こえる自分の呼吸音が、更に焦りを増長する。


 「なぁ、聞こえてるんろ?」


 そして、その問い掛けが自分個人に向けて投げかけられた言葉ではないと分かっていても、その言葉に直柔の中で辛うじて均衡を保っていた何かが壊れた事を自覚した。





 「大丈夫だから」




 そんな一瞬の自失状態に陥った直柔を引き戻したのは、自分を抱きしめる誰かの温かさと、自分を勇気付ける誰かの声だった。


 「え?」

 「大丈夫、直柔は絶対に私が護るから」


 いつから、そこにいたのか、そう言って自分を真正面から抱きしめて、真っすぐ見つめてくるのは、昼間、交通事故の時に一番に自分を助けに来てくれた、あの時の何処か見覚えのある気がしたカッコイイ女の子だった。


 何故か、唐突に現れた自分と同じ病衣に身を包んでいる少女は、自分だけずりずりとベッドの上の方に動くと肩口まで布団を引き上げることで、直柔を布団の中にスッポリと覆い隠す。


 「絶対に護るから…」


 彼女はそう言って、布団の中に隠した直柔のことを覗き込むと再び何かから守るように直柔のことを抱きしめる。


 温かい…


 人の温もりがあるだけで、こんなにホッとするものなのかと、自分でも驚いてしまうほどに心が落ち着いてしまう。


 けれど、先ほどとは位置関係がずれてしまったせいで、自分が彼女の胸の中に顔を埋めるような形になっていることが少し気恥ずかしい。


 温かくて、柔らかくて、彼女の胸の鼓動の音が自分にも伝わってくるようだった。


 「布団の膨らみ方で怪しまれるから仕方ないだろ」


 そして、自分が気恥ずかしいと思うように、彼女も気恥ずかしかったのだろう。

 ボソッと言い訳をするように言う。


 「そうだな」

 「だろう」

 「うん」


 そんな事を囁くような言葉で会話を交わす。

 その段になって直柔もようやく少し冷静さを取り戻す。


 いきなり現れた彼女は何者なんだろう。

 いきなり自分の布団の中に表れるなんて、明らかに普通の人間ではない。

 やはりお母さんが言っていた通り…


 「ミクリ様なんですか?」

 「違う」


 ……違うのかい


 じゃあ誰なんだよ、という疑問に答えるように、彼女は真っすぐに直柔を見詰めて宣言した。


 「私が誰で、どんな存在なのかなんて知らない。けど、これだけは分かる。私はお前を守るために生まれたんだって、だから私は此処にいる」


 ―――言葉が出なかった。


 嬉しいような、恥ずかしいような、言う立場が普通逆なのではないかとか、色々と思うことはあったが、こんなに真っ直ぐに心をぶつけてくるような言葉を向けられたことは初めてで、こんな時なのに頭が真っ白になってしまった。


 ただ、この子の気高さが眩しくかった。


 直柔が半ば呆然と彼女を見つめていると、彼女の方も言ってから気恥ずかしくなってきたのか照れ臭そうに目を逸らす。そうした仕草は、女の子らしくて、とても可愛らしかった。


 そんな時、彼女の表情が、急に険しいものに変わった。


 直柔が「どうしたんだ」と尋ねる前に、〝アレ〟の「なぁ、どうして死ななきゃいけながった?」という声が布団の中にいる直柔の耳にもハッキリと聞こえてきた。


 〝アレ〟が遂に直柔のいる病室にまでやってきたのだ。


 その声は病室の入口からではなく、直柔の耳元の方、つまりは左隣の病室との間を仕切る壁を通り抜けるように突如声が聞こえてきた。


 布団の中にいても間近に感じる、ビリビリとした悪寒が走るような張りつめた重たく冷たい空気が、アレが隣から壁をすり抜けて現れたことを教えてくれる。

 

 「なぁ、ワダシは本当に死んでも仕方ながったのか?」


 静かな病室の中に〝アレ〟の声が木霊する。


 「…直柔、大丈夫だから。あやめが昼間アレから逃げる時に使っていた『姿を隠す術』を私が真似して使っている、私たちがアレに話し掛けたりさえしなければバレたりしない、はず…」


 突然近くに表れた〝アレ〟に緊張で体を強張らせる直柔を励ますように名前も知らない彼女が小声で教えてくれる。


 けれど、そういう彼女の声には僅かに隠し切れない不安があり、直柔の頭を抱きしめる腕も緊張のせいか震えていた。


 ……ああ、彼女は本当に自分を守るために必死になってくれているんだ。


 彼女だって、どうにかできる確証がある訳ではないのだろう。


 それでも自分を守るために、自分をあらん限りの覚悟で奮い立たせて、出来る限りの事を必死にやってくれているのだ。


 自分が夏夜や家族のために自分を必死に奮い立たせたように、いや、もしかしたら、それ以上の思いで自分を守ろうとしてくれているのだ。


 それが何故か自分のことのように分かって、直柔の中から震えが、迷いが消える。


 直柔は、彼女がそうしてくれたように、彼女を勇気づけるように抱きしめ返して意識を研ぎ澄ます。自分だけじゃない彼女にまで害を成すのなら、あらん限りの力で〝アレ〟をぶっ飛ばす


 獣が獲物を狙うために息を潜めるように、身を隠しながら体の中で静かに高まっていく力を蓄えていく。



 ……そうしている内に、いつの間にか彼女の震えも止まっていた。



 「なぁ、ワダシは本当にもう十分に生きたのけ?」


 そうして何処か頭の中が冷たくなっている状態でアレの様子を伺っていると、ある事に気が付く。

 

 「なぁ、わだしは本当に、もう死んでも良がったのか」


 アレは基本的に同じ趣旨の問い掛けを、何度も何度も繰り返していること。そして一人にだいたい3つか、4つほど質問をして反応がないと次の人のベッド脇へと移り質問を始めるということだ。


 そして何とか、その法則性を見つけ出した時、アレが直柔たちのベッド脇へとやってきた。


 「どうして、わだしは死ななきゃいけながった。なぁ、ワダシは本当に死んでも仕方ながったのか?」


 間近にまで迫ってきた〝アレ〟を前に、自分の頭を抱きしめる彼女の腕の力が強くなる。


 それに合わせるように直柔も細いのに不思議なほど柔らかい彼女の体を抱きしめる力を強くする。


 「なぁ、聞こえてるんろ?答えてけれ、ワダシは本当に十分に生きたのけ?なぁ、わだしは本当に、もう死んでも良がったのか?」


 布団に隠れた状態でもアレがじっと此方を見詰め続けている視線の圧を感じながら、直柔と彼女は身動ぎ一つせずに寝たふりを続ける。


 それから1秒、2秒、3秒とジッと答えを待っていたアレは全く反応がないことを確認して次の人の所に移っていく。


 ほーっと安堵の息を吐き出したかったが、それを我慢してアレがこの病室から出ていくまでの間、直柔と彼女は無言のままお互いをただ抱き締めあっていた。


 そして、〝アレ〟が右隣の病室へと移っていった時、直柔は急に襲い掛かってきた睡魔に抗えず、そのまま意識は闇の中へと吸い込まれていってしまった。


 そして朝、起きると当然のように名前も知らない少女は隣にはいなかった。


あけましておめでとうございます。

本年もよろしければ、よろしくお願いします。

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