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陰陽なりて  作者: モモサト
4/20

あやめ

 4階にある病室まで一目散に戻り、ベッドを囲むネットカーテンの内側に入って、ようやく人心地つく事ができた。


 「まったく…安静にしておくように言われていたでしょう」


 「…は、激しい運動はしてないし」


 暫くしっかりと顔を見ることができた。ナース服を着たとても綺麗な看護師さんが、ホッと安堵の吐息を漏らした後、お怒りの表情を浮かべるのに、罰が悪くなって咄嗟に言い訳の言葉を吐いてしまう。


 「ん?」


 「…ごめんなさい」


 だが、そんな些細な言い訳も、看護師さんが浮かべた僅かな笑みと共に強まった、無言の圧の前に即座に叩き折られる。


 掛け値なしの美人が発する圧というのは抗い難い、ステータスの違いを叩きつけられたような心地がするものらしい。


 「ん、よろしい。せめて今日一日くらいは大人しくしていなさい」


 それで、笑うと場の空気が華やいだように明るくなるのだから、美人というのは得なものだ。


 「さっ、色々と聞きたいことはあるでしょうけど。落ち着いて話すためにも、まずは体を大事にしましょう」


 そう優しく諭されて直柔はベッドに腰掛ける。


 色々と問い詰めたいことは幾らでもあった筈なのに不思議と逆らう気も起きず、むしろ此処でなら安心して話をしていても大丈夫なのだと心が落ち着いていくようだった。


 備え付けのパイプ椅子を広げる看護師さんの姿を、ボンヤリと眺めながら「不思議な人だな」という感想を抱く。


 直柔には、目の前の透明感のある顔立ちをした女性が、まだ10代後半の少女のようにも20代半ばの大人の女性のようにも見えた。


 幾ら何でも高校生くらいのお姉さんと、母親になっていてもおかくしない年齢の女性の違い位は分かるだろうとは思うのだが、分からない。


 女性がまとっている不思議な迫力が年齢を錯覚さっかくさせるのだろう。


 それくらい、彼女の内側から発せられる、風格とでもいうべき何かの存在感が圧倒的で、彼女の一喜一憂する感情がそのまま自分の心に直接伝わってくるような錯覚を覚えてしまう。


 偶にテレビなどで人を形容する言葉として〝オーラ〟があるなどと聞くと、何を言っているんだと半ば馬鹿にしたように思っていたが、そうとしか表現できないことがあることを理解させられた。


 人の心を動かすことをカリスマだというなら、この女性はそんなカリスマを確かに持っていた。こんなにも浮世離れした存在感を放っている人を見るのは初めてで…。まるで、人の形に押しとどめておくことができない何かが無理矢理人の形を取っているかのようだとすら思えた。



 「さて」



 向かい合うようにパイプ椅子に座った看護師さんに真っすぐ見つめられて、そんな飛躍ひやくしかけていた取り留めのない思考から引き戻される。


 「まずは自己紹介から初めましょうか。私の名前は水城あやめ、年齢は秘密。職業は、まぁ見ての通りよ」


 看護師さんは、自分の胸に手を当てると冗談めかして簡潔にそう名乗った。

 

 「それで君は、黒川直柔くろかわなおや君で良いのよね」


 「はい」

 

 自分の名前を既に知っていることに少し驚いたが、看護師ならば名前くらい知っていてもおかしくはないだろう。しかし、そんな些細な驚きから生じた動揺も続く問い掛けの言葉で吹き飛んでしまう。


 「それじゃあ直柔君、一つ聞きたいのだけど、貴方、さっきみたいなモノが見えたのは初めて?」


 直柔が、聞きたくとも、どう聞いたら良いか分からなかった内容を見透かすように直球で尋ねてきたからだ。


 ドキリと心臓の鼓動が跳ね上がり、意図せず一瞬呼吸が止まってしまう。


 あやめには、そんな直柔の驚いた反応だけで十分だったのだろう。


 

 「ああ、やっぱりね、そうだと思った」


 

 あやめは、何かを確信したように憐憫の表情を浮かべて頷いた。


 「貴方みたいな子供が、あんな場所に何度も紛れ込んで無事で居続けられる筈がないもの、…本当に一体どういう因縁を持っていたらそんなことになるんだか…」


 「……何だよ、それ…」

 

 あやめの言わんとすることは朧気おぼろげながら理解できたが、その正気を疑いたくなるような話を受け止めきれず、真っ白になった頭で何とか絞り出せたのは、そんな言葉だった。


 

 「偶にいるのよ、何らかの事件や事故に巻き込まれて、極度の緊張状態を伴うストレスに晒されたり、臨死体験なんかを通して、アチラ側に近づき過ぎてしまった子供が、これまで見えなかったものが見えるようになってしまう事がね」


 「…アチラ側?…見えなかったものって?」


 「さぁ?…逆に聞くけど、貴方はさっき見た〝アレ〟を何だと思う?」


 「……」



 「どうして」と狂ったように呟き続けていた〝アレ〟の正体は、何だったのだろうかと考えて、咄嗟とっさに思い浮かぶ答えは一つだけだった。



 背筋に悪寒が走り、ビリビリと泡立つ肌を通して感じた。



 生きている人間が本来、関わってはいけないものだと本能的に察せられる。




 〝この世のものではないもの〟。




 「…幽霊?」


 「半分正解、もともとはそうだったけど今はもっと性質たちの悪いものに成りかけているわ」


 言葉にするのもはばからられると恐る恐る問いかけた直柔の憶測を、あやめは淡々と採点した。


 「ぅわぁ…」


 言葉にされることで、明確に先ほどのモノの正体を知った瞬間。


 さっきまで困惑が先に立って感じることができなかった、未知に触れた恐怖をようやく心が正しく受け止めることができたようで、ゾワゾワとした恐怖感が一気に体の中を駆け巡った。



 「どうして、そんな性質の悪いものを、さっさとはらわないんだよ!」



 思わず自分を抱きしめるように胸の前で組んだ腕をさすりながら、語気も荒くあやめに問いかける。



 「だって悲しいじゃない、死んで、思いの一つも残せないなんて」


 「……」



 どこまでも真っすぐな静かな瞳に見据えられて、何か言い返そうとした言葉が出なくて、急に自分が恥ずかしくなる。


 上手く言葉にできないが、きっと恐怖にささくれ立って荒れた心で、直ぐによく分からないものを排除しようとした自分の矮小わいしょうさや、弱さが恥ずかしかったのだと思う。



 「…直柔君、あなたの言っていることは正しいわ。生きている人間に害を与えるようになったなら、生きている人間が人を害したら罰せられるように、その霊も排除されなければならない。

 あの霊も残念ながら己が自縛から抜け出せず、この病院と言う場所の因習に囚われてよくないものに変異しかけている。残念ながら彼女は遠からず、過ちを犯す前に祓われてしまうでしょう。

 けど、大半の霊は生前答えを出すことのできなかった思いと向き合って、自分なりの決着を付けてこの世を去っていくの。最後の最後に残った自分と言う存在の自我の核ともいうべき願いを。家族や友人、同じ夢を、苦しみを抱く誰かに託して自分を世界に返していく。

 きっと、それは死んだ霊にとってはもちろん、生きている人間にとっても救いなんじゃないかって思うの。そうやって良くも悪くも人間は、良い思い(祝福)も、悪い思い(呪い)も後世に託して、託されて歴史を紡いできたんだから。

 だから、どんな思いであれ、それを受け入れて、反発し、正していくのが人の世の歴史であり、正しい因果応報の形だと私は思うの」



 何も言わずに小さくなっている直柔に、あやめはどこか悲しそうな、うらやむような表情を浮かべて、そう話してくれた。

 

 難しい話で、その意味する所を正確に理解できたとは思えないけれど、とても大事な話をしてくれたのだということだけは本能的に理解できた。



 「…と言うのが基本的な私のスタンス。何かを恨むのも、何かに執着するのも、本人が満足するまでやればいい。ただ、生まれて消えていくなんて悲しいから、誰かが残した祝福と呪いの因果・因縁が巡る世の流れのあるがままに、自然の成り行きのままにってね。

 それに、いちいち悪霊だ、何だと人の浮世うきよしがらみに関わっていたらきりがないしね」


 

 あやめは、自分の心の内を語ってしまったことが恥ずかしかったのか、最後は少し照れ隠しをするように、言い訳をするようにそう言った。


 つまりは、同じ街に暮らしているだけの隣人の人生に口出しをしないように、幽霊が、どこで、何をしようと人様に迷惑を掛けない限りは、自然の営みの範疇だとして受け入れようと言っているのだろう。


 

 「まぁ、力を持っている人の中には奇特な人もいるけどね」


 「…悪い霊は祓おう、とか?」



 「惜しい、正解はもう少し極端よ。この世にいる霊は現世への未練に囚われている状態だから、その未練がどんな思いであれ、それに囚われ続けている限り、その霊は救われない。

 だから、一刻も早く祓って世界の下に返してあげる事こそが救いだって考えるの」


 「へぇー」



 直柔には、どちらが正しいのかなど分からず、そんな考え方もあるんだと空返事一歩手前の感想しか返せなかった。


 あやめも、それは先刻承知なようで一つ苦笑を浮かべる。



 「まぁ、実際にその目で見てみないと分からないわよね。けど直ぐにそう考える理由も分かるようになるわ。霊として何かの思いに囚われ続けていても、解決する方法なんてほぼないのよ。だって、もう死んでしまっているんだから。

 そんな出口のない袋小路で、肉体と言う枷がないために朝も夜もなく悩み、答えを探し続けて、何らかの答えを見つけても自分にはもう何もできない、遅かったのだと気付く。そこで結果をいさぎよく受け入れられず、誰かに思いを託すという答えを出せなかったものの末路は……悲しいものよ。そして、どういう答えに辿り着いても今を生きている人間にとって良い結末にはならない。

 それが当人の関わり合いのある範囲だけで済めばともかく、悪い因果は、悪因となって積み重なっていく内に無秩序に周囲にも悪い影響を振り撒き始める。ならば世の秩序のためにも、その因果を悪因と断じて『どこかで断ち切っておかなければならない』と考えてしまうのも、今を生きる人間からしたら当然の帰結なのでしょうね」



 あやめは、淡々と事実だけを告げるように語る。


 その声からは、その答えに、あやめ自身が納得しているのかは読み取れなかった。



 「ごめんなさい、少し難しかったわね。でも覚えておいてほしいの。言葉を飾らずに言わせて貰うけど貴方は普通じゃない。だから、きっといつか、その事で悩む時が来ると思うから」


 「…うん…えっ、酷くない?」



 あまりにもサラッと言われたので普通に頷きそうになったが、地味に傷つくことを言われたのではないだろうか。


 

 「だって本当のことだもの。前世の宿縁か、先祖の因縁か知らないけど、どうしたらそんなことになるのか……いや、本当、どうしたらいいのかしら」



 どこか超然としていた、あやめの戸惑いを隠さない様子に急に不安が募っていく。


 あやめは、直柔の瞳の奥底を覗き込むようにジッと見詰めて数秒ほど何事か考え込むと、言葉を選ぶように重い口を開いた。



 「……貴方さっき自分がどういう状態だったのか分かっている?」


 「どういう状態って言われても…」



 あやめの真剣に問い掛けに、直柔は先ほど体験したばかりの怖気走る記憶を思い返してみるが、自分の何が普通ではなかったのか思い当たる部分など何もない。


 そもそも霊の姿が見えたということ自体、普通とはほど遠い状況な訳で、それ以上の異常などと言われても分かる訳がない。


 強いて言えば、見間違いなどと言われても納得できないくらい、ハッキリと〝アノ霊〟の姿が見えた事だろうか。



 「えっと、人より霊感が強いから、霊がハッキリ見えるとか?」



 しどろもどろに答えながら、これが問い掛けの答えに相応しくないことが分かった。霊能力の大小の話ならば、「どういう状態だったか」なんて問い掛けにはならないだろう。



 「どういう状態だったか」って何だ。



 直柔からしたら十分に常識の範疇の外側にある知識を当然のように語る、あやめにして普通じゃないと言わしめる。



 ――あの時の自分は、どういう〝状態〟だったんだ?



 直柔が質問の意図を理解し、尚且つその答えを返すことができないことを見て取った所で、あやめは重々しい口調で答えを口にする。



 「簡単に言うなら、あの時、貴方は半分あの世に行っているような状態だったのよ」


 「はっ?」


 「つまり、貴方はあの時、死者の側の世界に入り込んでいたの。私じゃなければ…と言うよりそれなり以上に霊感がある人間じゃなければ貴方の姿が見えなくなっていたくらい、どっぷりとあちら側に溶け込んでいたのよ」



 あやめの言っていることの意味を理解できたとは言えないけれど、反射的に〝変に薄暗く見えた廊下〟のことを思い出して、そこに入って行く時に感じた。


 ゾワゾワとした妙な異物感がフラッシュバックのように鮮明に蘇って、全身がささくれ立ったような悪寒を覚えた。



 「ようやく自分がどれだけ危うい位置にいたか理解できたみたいね。いい直柔君、分かったなら良く聞きなさい。

 ここで問題なのは、貴方はアレに〝引きずりこまれた〟んじゃなくて、貴方の方からアチラ側に〝入り込んでしまった〟ことよ」


 「入り込んでしまった?」


 「そう、貴方が入り込んだ場所のことを私たちは〝迷道〟(めいどう)と呼ぶの。ある意味最も冥界に近い世界でありながら冥界でない、さ迷えるものが生み出したこの世に存在しない迷い道。

 ある一定以上の力を持つに至った霊的存在が生み出す、自分のテリトリー(領域)とでも言うべきもので。霊的存在が現実に対して影響力を及ぼすことが可能になる、この世とあの世の境界が最も曖昧になった場所よ。

 普通なら、その場所に近づいただけなら少し寒気がするとか、少し敏感な人で頭が痛くなるとか、世に言う一般的な霊障を受ける程度。問題なのは、その霊に迷道へと引きずり込まれた場合。そうなった時、生者と死者の境界は曖昧となり、お互いに直接的に干渉し合うことが可能になってしまう。

 そして貴方もあの世界に入り込んだなら分かるでしょう。何かの一念に囚われた霊は、基本的に周りの世界など見えていない。本来なら、その霊の根幹に関わる何か、悪い言い方をすれば地雷に触れる何かを近づく側が抱えていなければ、お互いに認識することさえ難しいの」


 「…ああ」



 そう言われて直柔は、背後から足音はすれども、振り向いて見ても人影の一つも全く見えなかったことを思い出した。


 その後のことを思えば、あの足音は〝アレ〟に無防備に近づこうとしていた直柔を引き留めようと追いかけてくれていた、あやめの足音であることは間違いない。


 それなのにあやめの姿が見えなかったのは、アレの生み出した世界と、あやめの世界とが重なっていなかったという証なのではないだろうか。



 「そんな世界に俺は入り込んでいたのか?」



 そこまで考えて、ようやく自分が本当にこの世から一歩外れた場所に迷い込んでいたという実感が湧いてきて、その事実に慄いてしまう。



 「そうよ、そして、その世界に招かれることなく入り込むなんてことは本当に異常な事なの。言っては何だけどまだ妖に成りきっていない、あのレベルの霊では人一人を己の迷道に引きずり込むなんてことができるわけがない。

 せいぜい迷道になる一歩手前の領域を現実世界に不完全に繋げるくらいで、よくて人に体調不良を起こせるくらい干渉できるか、どうかって所でしょう。

 それに例え妖に変じたとしても、よっぽど特定の条件を満たさなければ、人一人を完全に己の迷道に引きずり込むことは難しいの。言い換えれば妖でも難しい怪異を人間の貴方が散歩感覚で引き起こしたのよ。

 本当に逆に聞きたいのだけれど貴方はあの世界に入る前に何か異常とか感じなかったの」



 あやめは、直柔がどれだけ異質で異常な存在なのかを語って、感心半分呆れ半分に問いかけてくる。



 「…そんなこと言われても、何か妙に薄暗くて、気持ち悪いなって思ったことくらいしか覚えてないし、そもそも何時あそこに入り込んだのかも分からなかったし」


 「そう…。それなら、あの場所は一体どういう思いで作られた場所だと感じた?」


 「思いで作られた?」



 あやめの言わんとしていることが分からず思わず聞き返す。



 「ええ、迷道はその霊の生み出したテリトリーだといったでしょう。それは、つまり、その霊をこの世に縛り付ける思念が形になった場所だと言い換えられるわ。

 だから霊能者の中には迷道に触れるだけで、その霊の本質を見抜くことができる人がいるの。だから、貴方もそういう方向から異常を察知することができたりしないのかと思っただけだから。

 分からないなら、分からないでいいの、あなたはあの場所をどんな場所だと感じた?」



 そう問われて直柔は改めて、あの時のことを思い出してみる。


 自分は、あそこをどんな場所だと思っただろうか…


 そう確か、人を療養するための場所だというには、人の心を慰撫するような温かみは感じられない、無味乾燥な冷たい場所だって思って…。


 自分が何処かに捨て去られてしまったような、もっと言ってしまえば自分が人間扱いされていないような、そんな悲しくて、やるせない思いでいっぱいになって…。


 ……腹の奥底からふつふつと何かが湧き立つような……


 自分の中から身に覚えのない〝何か〟が湧き上がってきたように感じた、あの時の気持ち悪さを思い出して思わず眉をしかめてしまう。


 その様子が余りにも普通ではなかったのだろう。



 「どうしたの」



 あやめに心配そうに問い掛けられて、直柔は何と言ったらいいのか分からない形容し難い気持ち悪さを、自分の中で整理することもできないまま拙い言葉で感じたままに伝える。


 そこら辺は流石、患者から容態を聞き取ることを常としている看護師だ。


 あやめは、直柔の感覚的な、抽象的な話を全て受け入れるように聞いて、話の筋を整理するように要所で端的な質問を投げかけてくれる。


 そうして貰って暫く、直柔は「自分じゃない誰かの寂しさや怒りが自分の中に入り込んできたみたいで気持ち悪かったんだ」という事実に辿り着けた。



 「なるほど、事前に迷道の存在を察知できる能力があるというのは朗報だけど、アチラ側に近すぎるというのは問題ね」



 話を聞き終えたあやめは難しい顔で、そう分析する。


 そして、ちらりと腕時計を確認すると一つ小さく溜息を吐き出す。



 「もっとゆっくり話したかったのだけれど、もう直ぐ親御さんが戻られてしまうわね。仕方ない、今直ぐに伝えないといけないところだけ端的に話していくから、よく聞きなさい」


 「えっ、うん」



 直柔は両親が一緒では不味いのだろうかと思いながら頷く。



 「いい直柔君、自分の身を守りたければ、見ざる、聞かざる、言わざる、この三つを徹底しない」


 「見ざる、聞かざる、言わざる?」


 「そう、例えどこかで幽霊を見かけても見えない振りをしないさい、そして幽霊が何か話しかけても聞こえない振りをしなさい。大概の相手なら波長を合わせないように意識さえしていれば不用意に互いが交わることはないわ。

 ただ貴方の場合は、特殊体質があるから必ずそうと言い切れないとこが問題だけど、幸いなことに本当に不味い相手が近くにいる時は相手より早く感づける程度の勘の良さが備わっているみたいだから、それで可能な限り見えていないように、聞こえていないように振る舞いなさい」


 「…分かった」



 そんな事だけで自分の身を守れるのか不安が過ぎったが、ではそれ以上の事を何かできるだろうかと自問した時、何もできる事が思いつかず、重々しく頷しかなかった。


 小5にしては身長が高く運動もそれなりに出来る方だという自負心はあったが、流石に高校生や大人でもどうにかできるか分からない相手を何とかできると思うほど、思い上がっていない。

 

 自分はこんなにも弱くて、危険なものから目を逸らしながら生きていくらしかないのだと思い知らされる。それは、これまで地面だったと思っていたものが、薄氷に過ぎなかったことを気付かされたような、世界が揺らいで音を立てて崩壊していくような心地だった。



 「…そして、最後に言わざる、この世の常識外のモノが見えることを誰にも話してはいけないわ、病院の先生や学校の先生、友達はもちろん、親にも、妹にも、よ」


 「……」



 そして、あやめが続けて話す内容に今度こそ絶句する。こんな恐怖をずっと一人で抱え続けないといけないのかと思うと、気が遠くなる思いがした。



 「…親にも、なの?」


 「ええ、少なくとも病院にいる間はやめておきなさい。ご両親の立場に立って考えてみれば分かるでしょう。

 自分の息子が交通事故をきっかけに幽霊が見えるようになったなんて言い始めたりしたら、どれだけ信心深いご家族でも、まず脳の異常を疑うわ。

 そうなると、どうなると思う?落ち着いた状況でなら受け入れてくれたかもしれない告白でも、今の状況じゃあ息子を直してくださいと医者に訴えるしかないでしょう?

 そうなれば貴方の入院期間は増えて、貴方はアレの脅威から離れられないし、親御さんに貴方の言っていることは本当だと信じて受け入れてもらうまでの期間が不用意に伸びることになるわ」


 「…なるほど」



 自分の両親ならば無条件に信じて受け入れてくれると心のどこかで思っていたが、あやめの説明を聞くとその通りだと納得させられる。


 自分自身でさえ、どこかでこれは夢で、現実ではないのではないかと思っているのだ。そんな話を無条件で信じて、理解しろ、などと言うのは土台無理な話だ。


 悲しいけれど、仕方のないことなのだろう。



 「…そして、こんな仕事をしているとね。貴方みたいに何かの事故をきっかけに急に不思議なモノが見えてしまうようになった子供を偶に見掛けるのよ。

 そんな子供達を見続けてきた経験から余計なお世話かもしれないけど、一つ忠告させて頂戴」



 少し言いにくそうに言葉を濁していたあやめが、覚悟を決めたように見詰めてくるのに、直柔は少し身構えながら頷く。



 「貴方がそれだけ信頼しているご家族ならきっと貴方のことを信じて受け入れてくれるでしょう。貴方は、自分の話を聞いてもらうだけで心が軽くなって救われるかもしれない。けど、見えないご両親は貴方が何気なく話した10の重りを1として受け止めるかもしれないし、逆に100として受け止めるかもしれない。

 その差異は、貴方がご両親に話せば話すほど実態からかけ離れていく。その差異を埋めるにはどれだけの言葉を、時間を掛ければいいかは分からない。もしかしたら一生埋まらないかもしれない。

 そして、もしかしたら、ご両親は貴方から託された重荷を受けとめ続けながら、貴方を救うことができない苦悩に苛まれことになるかもしれない。貴方は聞いてもらうだけで良かったのに、ご両親はそう思えず、どこかの宗教に加護を求めたり、実践派を謳う妙なカウンセラーに貴方を託して貴方の体質を変えさせようとするかもしれない。

 〝全ては貴方を救うために〟。そして、その結論に行きつくまでの過程で、両親が意見を対立させるのは最早、規定事項という奴ね。貴方が今の家族の状態を良としているのなら、必ず要らぬ波紋をたたせることになる。

 それを一緒に乗り越えるのが家族だろうと言えば、そうだけれど、普通のご家庭が乗り越えるには中々に難しい異常という壁であることは確かだわ」



 直柔は、あやめの話す内容を正確に理解できた訳ではないが、ただ家族が自分のためにバラバラになってしまうかもしれないという危険性だけは理解できた。



 「見えない人に、見えているという恐怖と苦悩、その重荷を、本当の意味で理解して貰うことはできない。だから、それが、自然なことなのだとは決して理解してもらえない」



 あやめは、そう語りながら自然と何かを覚悟したように、直柔が膝の上に置いていた手の上に手を重ねそう言った。



 「だから直柔君、いつか貴方が冗談交じりに自分は霊が見えるのだと打ち明けられるようになるまでは、見えない人に自分から話すことは止めておきなさい。そして話しても良いと思った人には、いつか必ず話してあげなさい。

 ご両親も本当なら話して欲しいでしょうし、お友達もきっとそうだから。その代わり、それまでは、そんな能力を持ってしまった先達として、私で良かったらカウンセラーじゃないけど貴方の辛さを受け止めてあげるから、どう?」


 「……うん、分かった」



 今までのどこか凛とした雰囲気を崩して柔らかく笑うあやめの顔と重ねられた手の温かさに、思わず直柔は顔を赤くなるのを感じながら約束を交わす。



 「いい子ね、それじゃあ一つご褒美をあげましょう」



 あやめはそう言って、直柔の手に重ねていた手をくるりと返して掌を上にする。


 すると、いつから、そこに隠し持っていたのか、そこには青色の紐に繋がれた三日月を模した銀色のアクセサリーがあった。



 「これには守り刀の概念を込めてある…って言っても分かんないか。まぁ、凄いお守りみたいなものよ。これを肌身離さず着けているだけで下手な連中から貴方を守ってくれる。

 迷道に入り込んでしまうなんて事例は初めてだから、どこまで効果はあるかは分からないけど、少なくとも貴方と霊との近すぎる距離を少しは遠ざけてくれる筈だから、ご両親に見つからないように服の下に隠しておきなさい」


 「ん」



 あやめが首に掛けてくれたネックレスを病衣の下にしまいこむ。



 「よろしい、それじゃあ、ご両親がもう来られるでしょうし、私は一旦退散するわ。明日はちゃんと病室にいなさいよ」


 「…うす」


 「それじゃあね」



 あやめはからかい交じりに告げると現れた時のようにあっさりと病室を後にしていった。




 …あっ、お礼言うのを忘れた。




 あやめの姿が、ネットカーテンの向こう側へ見えなくなったところで、そのことを思い出した。今からでも一言お礼を言いにいこうかと考えたところで、まるで入れ違いになるように両親と妹が入ってくる。


 「兄ちゃん!!」


 妹の夏夜かよがベッド脇まで心配そうに駆けてくるのを受け止める。


 「大丈夫、痛い所はない?」


 夏夜の真っすぐな問い掛けに、両親の顔を見て、どこか張りつめていたものがホッと緩んで、思わず漏らしたくなってしまった弱音を胸の内に噛み締める。


 「おう、ぴんぴんしてるぞー」


 「良かった」


 おさげを揺らしてホッとしたように笑う夏夜に、笑い返しながら直柔は自然と決意する。


 これから、どれだけの恐怖に対面しようと冗談交じりに告白できるようになるまでは、決して幽霊が見えるようになったことは誰にも打ち明けない。絶対に、この子の笑顔が曇るようなことだけは決してしない、と。


 何故、どうして、なんて考えるまでもなく、心の内は決まっていた。


 ほかの何に変えても守らなきゃいけないものがある。


 …だって、お兄ちゃんだからな。


 「本当に無事で良かったわよ」


 「ナオは昔から受け身が抜群に上手かったからな」


 「まぁ、ニャンコの異名は伊達じゃなかったってことで」


 直柔は、両親が入院用の荷物を整理しながら、自分の無事を喜ぶように話すのにシレッと答える。ただ、いつも通りの自分を振る舞えているかは分からなかった。胸の中に色々な思いが去来していて、それを表に出さないようにすることに必死だったからだ。


 「あの時もビックリしたな、少し目を離したら公園の木の上に登っててさ。枝が折れて頭から落ちると思ったら空中でクルッと回って足で着地するんだから、血の気が引くわ、感心するはで、大わらわだったな」


 「昔から目を離したら何するか分からない子供だったからね、本当に、もう少し落ち着きを持たないとダメよ」


 「はーい」


 そんな気のない返事を返しながら、胸の内で燻る思いを言葉にできない自分の代わりに、何かを叫ぶように夏蝉の泣き声が、夕暮れ時の紅い空の下で響き続けていた。


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