迷道
直柔が現在、入院している県立司馬田病院は、県下でも有数の設備と規模を持つ病院だ。
初代司馬田藩主・溝口勝秀公が築城した司馬田城が目と鼻の先にあり、同時に市役所や文化会館、図書館も同じくらいの距離にあるという市を代表する施設・建築物が集まる一角に佇んでいる。
直柔が通う小学校からも歩いて10分くらいの距離にあり、家からでも15分くらいの距離にある病院なのだが、記憶にある限り院内に入るのは初めてのことだった。
生まれは静岡で、そこから3歳の時に父の故郷である新潟に出戻った形であるため、ここら辺の子供のように司馬田病院が出生病院という訳ではなく。滅多に引かない風邪の治療なども、もっと小さな個人経営の小児科病院などに通っているため、とんと縁がなく遠目から眺めているだけの場所だった。
強いて言えば3つ年下の妹が、この病院で生まれた筈なので、その時に入ったかもしれないが、残念ながらそんな時分の頃の記憶など欠片も残っていない。
そんな訳で、身近ながら絶妙に縁遠い距離感を保ち続けていた場所だったことも手伝って、ついつい好奇心や冒険心が擽ぐられてしまい。母が病室に戻ってくるまでの時間を持て余していた直柔は、病室を抜け出して院内見物に繰り出していた。
そして見て回った病院は、直柔の目には、面白味のない色褪せた場所のように見えた。
外観から想像が付いていたが司馬田病院は、相当に古い建物であり、正直、夜などは前を通ることが怖く感じる時があるような廃墟一歩手前の外観をしている。
先ほど玄関先で見た案内板の文章を見れば築70年を超えており、既に駅前の方に移転先となる新しい病院の建設を開始しているというのだから、さもあらんと言ったところだろう。
そして、院内を歩き回りながら、この色褪せた雰囲気の正体は何なのだろうかと考えた時、気付いたことが幾つかあった。
例えば、かかりつけ医の小児科病院に来る患者は、専ら同年代位の子供と付き添いの母親ばかりだ。そんな患者層に合わせてか壁紙の色一つからして明るい雰囲気があり、ちょっとした小物のヌイグルミなどが見渡せば幾つも置いてあって、どこか人の温かみのようなものが滲み出ていた。
それに比べると司馬田病院内で、見掛ける患者の大半は高齢者であり。戦後暫くして建てられた建物だからか、もしくは既に次の移転先の病院が建設中であるためか。要所に花や絵画が飾られているが、全体的に装飾に乏しく、どこか無機質で、沈んでいきそうな暗い雰囲気が漂っているように感じられた。
その上、耐久的、衛生的な面で限界が近いのだろう。病院という施設柄、清掃を行き届かせて衛生状態を維持しようと努めていても、どうしようもない風化の跡が、壁の染みに、椅子の足の金属の腐食などに見て取れ、寂れた雰囲気を助長していた。
そのせいだろうか、昼間の明るい時間にも関わらず、お化け的な何かが出そうな雰囲気があり、人気の少ない場所では何かヒヤリとしたものを感じたり、ブツブツと何かを言っている妙な雰囲気の人影のようなものが視界の隅に入ったりと、自分の知っている病院の雰囲気とは大分違っていた。
…なるほど、これが大人の病院って奴か。
…自分の知っている小児科病院と比べて感じる。この重苦しい雰囲気は、きっと、ここに通う患者さんの病気の重さ、そして〝死〟の近さ故なのだろう。
病院全体に共通する深緑色の床の廊下を通って、飾り気のない病院内を見て回り、そんな面白味などない、切実な空気をボンヤリと感じ取る。
実際、手術室やら凄い診察機械がある部屋などを無断で見て回れる筈もなく。歩き回って良いフロアを散策して得た収穫と言えば、売店や本の貸し出しをしてくれる図書館のような場所があることを見つけたくらいだった。
その他の収穫と言えば、知らない所を見て回る冒険心が満たされたことと。司馬田城を下から見上げるのではなく、同じ高さの目線から見学できたことだろう。
近隣地域で一番大きい5階建ての司馬田病院から見るお城の姿は、城を囲む水堀でザリガニ釣りに興じる際などに見上げる出で立ちとは違う、別の趣があった。
そんなこんなで一通りの散策を終え、そろそろ病室に帰ろうかと考えていると、不意に奇妙に薄暗く、人気の少ない廊下に出た。
司馬田城を眺めていた病院の南西側の展望室から中央の廊下を通り抜けた先にある北東側の病室エリア。直柔が入院している大部屋病室ではなく、個室病室が並ぶエリアを通る廊下だ。
まだ夏場の17時前で外は明るいのだが、ちょうど建物の構造上、この時間帯は日の光が入りにくいらしく。また時間が早いため廊下の電気も点けられておらず、先ほどまで散策していた院内の中でも不自然なほどに薄暗く感じられる。
偶然なのだろうが、廊下を直柔以外、誰一人歩いていないことも相まって、急に寂れた場所に放り出されたような、もしくは自分が変な所に入り込んでしまったかのような心細さを覚えた。
まるで場の空気が、急に冷たく、重苦しく張りつめていくような息苦しさすら感じて…
直柔は、不意に自分が全てから見捨てられたかのような寂寥感に襲われた。
……何か気持ち悪い
先ほどから、全身の毛が逆立つようなゾワゾワとしたが収まらない。
まるで心が凍り付いたような物寂しく、暗い気持ちに支配されていた。
自分が人間であるということすら否定され続けたような諦観が、重苦しく、倦怠感を伴い、やるせなさとなって胸一杯に広がっていく。
病院内を見て回ったくらいで、こんな重苦しいセンチメンタルな気分を抱くような繊細さを持ち合わせていたとは直柔自身思っていなかった。何より、そんな暗い感情に囚われて支配されたような感覚を抱いているという違和感、差異感が、自分が自分でなくなってしまったようで悍ましかった。
実際に、先ほどまでは司馬田城を違う角度から見られたことを楽しめていた筈なのに、そんな楽しさを感じていたことが信じられないほどに気持ちが暗く沈んでいる。
何より、そんな胸の中を支配する寂寥感の奥に、ジリジリと焦げ付くように燻っている。
何かの感情が恐ろしくて。
それ以上、その感情に目を向けることをやめた。
「もう帰ろ」
院内の見て回ってもいいだろう部分の大半は見終えていたし、心なしか気分まで悪くなってきたことも手伝い、病室に帰ることにする。
とは言え、来た道を引き返してはつまらない。
病院の構造上、病院の中央部にある階段のほかにも、この薄暗い廊下を通り抜けた先にも階段がある筈なのだ。4階にある病室に戻るに当たっては少し遠回りになってしまうが、せっかくの探検の途中なのだから通っていない道を通って帰るべきだろう。
沈んでいきそうな気持ちを奮い立たせるように、そう決めて〝変に薄暗い廊下〟を通って帰ることにした。
……自分の本能的に察していた警告を素直に信じるには、直柔は少し大人になり過ぎていて、直感に身を委ねるには経験が足りなかったのだ。
パタリ、パタリ、パタリ。
廊下に直柔の履いたスリッパが立てる音が響く。
先ほどまで、必ずどこからか聞こえてきていた喧噪の音が何故かここでは聞こえず、やけに自分の歩いた時に出るスリッパの音が大きく聞こえる。
「…なんかコワ」
それが変に薄気味悪くて、誤魔化すように思わず、そんな言葉を漏らしてしまう。
その薄気味悪さは、家族と出かけていた帰り、深夜の真っ暗な車の中で不意に一人取り残された時のような、言いようのない心細さと、周囲の暗闇に何かが潜んでいるような得体の知れない恐怖に似ていて。
先ほどから背筋が泡立つような感覚が止まらなかった。
そんなゾワゾワとした背筋が泡立つ感覚に耐えられなくなって、特に何か理由や根拠があった訳ではないが後ろを振り返る。
だが、やはり廊下には直柔以外に誰もおらず。
妙に薄暗い廊下の奥で、学校などにもある火災報知器のランプの赤い光が、不気味に輝いて見えるだけだった。
「そうだよ、こんな昼間からお化けなんか出る訳ない」
自分に言い聞かせるようにそう呟きながらも、自然と足が早歩きになってしまう。
パタ、パタ、パタ、パタ
先ほどより早いリズムで鳴る自分のスリッパの音が無音の廊下に響く。
パタ、タ、パタ、タ、パタ
…ん?
最初は気のせいかと思ったが、自分の足音に重なるように自分以外の誰かの足音がした気がしてチラリと背後を振り返る。
…しかし、やはりと言うか、背後には誰もいなかった。
既に廊下の半ばを優に過ぎていて、廊下には特に身を隠せるような場所はない。
となれば自分の聞き間違いか、既にどこかの個室に入ったのだろう。
そう理性的に思う一方で不気味なものを感じて、改めて少し緩めてしまっていた早足を再開する。
パタ、パタタ、パタ、パタ、タ、パタタ
そして、今度こそ自分以外の誰かの足音が確かにするのを認識して足を止めて背後を振り返った。
だが、やはり廊下には直柔以外の人影の姿は見えない。
そして何故か直柔が足を止めたにも関わらず。
「タッタッタッ」という直柔以外の足音が背後から迫ってきている音が聞こえてきた。
その足音は心なしか先ほどよりペースを速めて、直柔に近づいてきているようだった。
「嘘だろ」
その足音が正確にどれくらいの距離で響いているのかは分からない。
自分の直ぐ目の前から聞こえているようであり、少し遠くから響いて来ているようであった。
ただ、確かなのは少なくとも絶対に視認できるくらいの程近い距離から、その足音は聞こえてきているということだ。
〝ココは、何かがおかしい〟
現実的にはありえない明確な異常を目の前にして、暫く直柔は、異常を異常と認識した。
ここから離れなければと、廊下の先へと視線を戻して…。
直柔はギクリと立ち竦んだ。
いつから、そこにいたのか、〝ソレ〟は階段へと続く廊下の端に佇んでいた。
ソノ白と黒が入り混じった人型の〝何か〟は、直柔が着ているものと同じだろう病衣を身に纏い、廊下の端にある窓から下をジッと見下ろしてブツブツと何か独り言を呟き続けている。
まだ数十メートル近い距離があるが、この距離になるまで見えなかったなんてことはありえない。
一目で明らかに尋常ではないと分かる〝何か〟は、存在感がどこか朧で、その顔は霞がかったように揺らめいていて見えなかった。
そしてオカシナことに、何故か一度その存在を認めた瞬間、距離という概念が曖昧になったかのように、先ほどまで辛うじて何か喋っていると分かるくらいだった呟き声が、急にハッキリと耳元で囁かれるように聞こえてきた。
〝ソノ何か〟は鬼気迫る様子で延々と――
「どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして」
――と、まるで何かを呪うように、もしくは何かに呪われたかのように、繰り返し、繰り返し、同じ言葉で問い掛け続けていた。
それを見た瞬間、背筋を駆け抜ける悪寒が強くなり、肌が泡立つのを感じて、鈍い直柔でも直ぐに理解できた。
〝アレ〟は生きている人間が本来、関わってはいけないものなのだ、と。
そして、直柔が〝ソノ何か〟に唐突に気付いたように、何かに囚われたかのように一点を見つめ「どうして」と呟き続けていた〝ソノ何か〟も直柔の気配に気付いたのだろう。
アッと思った時には、耳元で聞こえていた「どうして」との囁くような声が途絶え。
まるで世界がスローモーションにでもなったかのように、ゆっくりと〝ソノ何か〟が顔を上げて。
直柔の方へと顔を向けようとする直前。
ガッ、と襟首を掴まれて直柔は引きずり倒されるような勢いで後ろに引っ張られた。
「大丈夫だから着いてきなさい」
いきなり後ろに引っ張られ体制を崩して倒れそうになった直柔だったが、耳元で安心させるように囁いてくれた誰かに支えられたこともあって仰向けに転倒することを免れると、そのまま背後から小脇に抱えられるように誘導されて来た道を引き返す。
その段になって、ようやく体勢を立て直した直柔は、自分を背後から介護するように抱き支えてくれているのが女性であることが分かった。
次いで、直柔の背中を押す女性の服の袖がチラリと見えて、その女性が司馬田病院のナース服を着た看護師であると気づいた。
「まったく、いきなり身に覚えのない声が聞こえてきたと思ったら、これなんだから」
困ったような面倒くさそうな言葉ではあるのだが、どこか温かみのある声でそう呟く女性の声に聞き覚えがなく。
その女の看護師さんの顔を確認しようとした時、「振り返らないで、〝アレ〟がまだこっちを見てる」と耳元で小さい声ながら鋭く静止するように言われて、振り返りかけていた顔を慌てて前へと固定する。
「良い子ね、大丈夫、後を着いてきてないから、まだ貴方と言う個人は認識できていない。このまま病室まで戻るわよ」
「うん」
まるで直柔という存在を隠すかのように後ろから抱きすくめるように背を押す女性に促されるまま、個室病室前の廊下を戻る。
アレが何なのかは未だに全く分からないけれど…
女の看護師さんという自分以外の体温を直ぐ傍で感じているからだろうか。
先ほどまで、あんなに薄暗く、どこか薄ら寒く見えた奇妙な廊下が普通の廊下のように見えた気がした。