ミクリ様
「本当に運が良かったみたいです。警察の人もかすり傷一つないなんて奇跡だって言っていましたから」
「そうですか、それは本当に良かったです」
近隣市町村では一番規模の大きい県立司馬田病院の大部屋病室のベッドの一つに寝かしつけられた直柔は、備え付けのパイプ椅子に座った母が、お見舞いに来てくれたサッカーチームの監督と弾んだ声で会話するのを、他人事のように聞きながら少し安堵する。
なにせ、生まれて初めて救急車に乗るという体験を喜ぶ余裕もなく、病院に搬送され、CTR検査やらといった大仰な機械を使った検査をした結果。
白髪が目立つ温和そうなお医者さんから「脳にも内蔵の方にも特に問題はありません、ですが念のため3日ほど検査入院をして様子を見てみましょう」と言われたのが今から1時間ほど前のことだった。
検査結果を聞いて胸を撫でおろした母から「交通事故には本当に気を付けなさい」と言葉少なながら真っ直ぐ胸に突き刺さる小言を頂戴し。
「ごめんなさい、気を付けます」と心の底から謝ったのは直柔の体感時間では、ほんの少し前の出来事だった。
そんな訳で直柔的には、心配してくれているのだと分かっているからこそ、申し訳なく、気恥ずかしい、どう反応したらいいのか分からない。妙にくすぐったい時間が流れていただけに、満面の笑みを浮かべて笑い話のように明るく話す母の姿を見ていると安心してしまう。
「ええ、なんでも車は時速50キロくらいで走っていたらしいんです。普通ならそんな勢いで激突されたらまず助からないそうなんですけど、この子は偶々(たまたま)車の下に滑り込めたみたいで傷一つなくて。
それこそ、この子の乗っていた自転車なんか10メートル近く吹き飛ばされてバラバラになっていたんですよ。本当に神様が護ってくれたのか、悪運が強いのか」
安心して少しハイになっている母が、自分の頭を指でツンと押してくるのになすがままにされながら、その時の状況をボンヤリと思い出す。
激突する寸前、自分は反射的にワゴン車から少しでも離れようと反対側に倒れ込んでいた最中であり、どう記憶を掘り返しても「自転車よりも地面から高い位置にいた自分だけが、車の下に入り込めるなんてことがあるのだろうか」と個人的には腑に落ちない。
だが一方で、「じゃあ、どうして貴方だけ無事だったの」と聞かれたら、それ以外に状況を説明できる理由が思いつかないのも確かだ。
まさか、自分だけ〝幽霊〟のように車をすり抜けた〟なんてこともあるまいし…
そんな風に直柔的には、色々と合点がいかない点があるのだが、今はそんな自分の記憶が正しいのか、当人にも自信がなかった。
それと言うのも、お医者さんに「気持ち悪いとか、痛いとか、何か違和感はないか」と聞かれた際、どうしても気になることがあると、事故直後に自分を助け起こしてくれた女の子が忽然と消えてしまったことを話したところ。
おそらく、それは事故の衝撃で幻覚を見たか、記憶が混乱しているためだと懇切丁寧に説明されたばかりだったからだ。
今思えばどこか見覚えのある気がする自分と同じ格好をした女の子が、心配して助け起してくれたと思ったら、気づいたら姿を消していて、その場にいた誰に聞いてもそんな女の子は見ていないと言われた。
直柔としては狐につままれたような摩訶不思議な体験だったのだが…。
ボクシングやラグビーのような激しいコンタクト(接触)があるスポーツの最中に脳震盪などで倒れた人の中には、その時の記憶が飛んでいたり、まるっきり現実と違う出来事を現実だと誤認してしまうことが稀にあるのだという。
それならば、やはりあの子は自分が生み出した幻覚だったのだろうか。そう考えるのが一番現実的な答えなのだろうけど、どうしても直柔にはあの子が幻だとは思えなかった。
何が正しくて、何が現実で、何が真実なのだろうか。
そんなことを母親と監督の話をボンヤリと聞きながら考え続けていると、監督と母の目が、自分に向いていることに気付いた。
「どうしたナオ」
「うんん、なんでもない、です」
どうやらボンヤリしていたことで、少し心配させてしまったらしい。
「そうか、まあ、事故にあったばかりだからな、疲れが出ても仕方ないか。3日ほど検査入院すると聞いたが、来週の練習にはもう参加するのか」
「いえ、一週間は激しい運動は控えようにと言われたので、来週の練習もお休みさせてもらいます」
監督の問いかけに母が代わりに応えてくれたが、一週間も運動しないなんて苦行に耐えられるのか、個人的にはそちらの方が疑問である。
「そうですか、そうですね、まずはしっかり治してからが良いと思います。…それじゃあ、そろそろ私は失礼します。ナオ、チームの皆も凄く心配していたから、しっかり治して早くチームに復帰しろよ」
「はい」
正直なところ監督は声を荒げて怒ることはない寡黙な性質の人なのだが、5分刈りの坊主頭にがっしりとした体格というなかなか強面で迫力のある方だ。
同級生の友達の父親で、半ばボランティアという形で監督をしてくれている、気の良い人なのだと頭では分かっていても、こうして1対1で向き合うと途端に何を話していいのか分からなくなってしまう。
とは言え、こうしてチームの皆が心配していたという声を届けてもらえたのは素直に嬉しかった。恥ずかしいが心が浮き立つような心地になる。
「今日はわざわざお見舞いに来ていただき、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ、ナオ君の無事な様子を見て安心しました。どうぞお大事に、それじゃあ」
「はい、バイバイです」
強面の顔に薄い笑みを浮かべて去っていく監督を見送って、直柔はふぅーと山場を一つ乗り越えた心地で一度大きく息を吐き出した。
「よかったね、監督がお見舞いに来てくれて」
「うん、でも、一週間も動くなって言われると逆に動きたくなるよなー」
「ダメよ、お医者さんの言うことを聞かなきゃ、本当に大怪我しててもおかしくなかったんだからね」
「わ、分かってるよ」
周囲を騒然とさせて、迷惑を掛けたという自覚があるだけに、今はどうしてもそのことを責められると頭が上がらない。
なにせパトカーが来て、救急車が来るという、平和な片田舎には十分過ぎる大事件だ。
それこそ交通事故の直後は、車の賠償金やら罰金は、どうなるのか不安でたまらくなってしまうくらいには、深刻な事態であることが小学生の直柔にも十分、理解できた。
お世辞にもあまり裕福とは言えない家であるだけに、家族に迷惑を掛けてしまうのではないかという、あの時の不安と恐怖は暫く忘れられないだろう。
自分を助けてくれたバスの運転手さんが、横断歩道上の事故で自分の過失は最小限になる筈だから、そんなに心配しなくていいと言ってくれなければ別の理由で倒れていたかもしれない。
「でも、本当に無事で良かった。これもミクリ様のお陰かもね」
「うーん、そうなのかな」
ミクリ様とは、新潟県司馬田市内に聳える仁王山の中腹辺りに鎮座する御社に祀られた神様のことだ。米どころな新潟県らしい農耕・豊作を支える、地域の自然を管理する神様として厚く信仰されてきたらしい。
しかし、それも今は昔。ただでさえ信心深い人が減る中、山中にある御社を参る物好きな人などそうおらず、実際に行ってみると廃墟一歩手前くらいの社があるくらいで、同世代の人に話しても何それと言われる程度の知名度だ。
直柔も家の氏神神社が管理している社の話として聞かされていなければ、名前すら知らなかっただろう。
「そうよ、もしかしたらナオ君が見たっていう女の子がミクリ様かもしれないわよ、ミクリ様は子供好きだから、子供は手厚く守ってくれるんだってお父さんが言っていたもの。きっとナオ君のことが心配で見に来てくれたのよ」
「えー?あっ、でも、うーん」
普段それほど信心深い様子のない母が、本心からそう言ったのかは分からない。
もしかしたら腑に落ちないようすの自分を慰めるために、そのようなことを言っただけなのかもしれない。
直柔自身、あの女の子がミクリ様だと言われると「本当かよ」と途端に胡散臭いもののように思えてしまう。けれど、お医者さんのように勘違いや、見間違いだと断じられるよりは納得できる答えではあった。
「きっと、そうよ、お父さんが言っていたんだけど、お婆ちゃんのお父さんは一度ミクリ様に助けてもらったことがあるんだって」
「へぇー」
そんな話は初耳だ。というか、お婆ちゃんのお父さんの話自体、初めて耳にしたような気がする。
「何でも、お役目の最中に助けて貰ったんだそうよ」
「お役目?」
「そう、お役目。ここら辺では昔、秋口になると奉納祈願に仁王様(仁王山)の山頂近くにある『奥の院』にお米を奉納して、春先の山の雪が解け始めた頃にもう一回山に登って、お供えしたお米の様子を確かめるっていう習わしがあったんですって。
何でも、奉納したお米に、どれくらいカビが生えているかを確認すれば、その年にどれくらい田んぼを耕してお米を植えればいいか分かったらしいの」
「ふーん、そんなことしてたんだ」
「そうなの、よくやったわよね、雪山に登るなんて危ないこと。でも、ほら昔は今みたいにダムが無かったでしょう。だからどんなに頑張って田んぼを広げてもそこに流せるお水の量には限りがあったんですって。
だから、春先に山に登ってお米の状態を確認して山にどれだけ雪が降ったのか、その年に流れる川のお水の量を調べて、どれくらい田んぼを耕すか決めていたそうよ」
「ふーん、でもそれ、お米を確認しているんじゃなくて、雪の量を確認しているんじゃない?」
話を聞く限りお米は関係無いように思える。
「それが、そうでもないんだって。温かくなって雪が解け始めた頃に登っても冬の間にどれだけ雪が降ったかは、下界の人間には分からないらしいの。
けど、カビは温かくなると生えるでしょう。その性質を利用すれば積雪量を調べられるんですって。山頂の方に多く雪が積もっていて気温が低かったらカビの量は少なくなるし、逆に雪の量が少なければ気温も湿度も高くなるからお米に一杯カビが生えるから。カビの量を見れば雪の降った量が分かって、その年に流れる川の水の量もだいたい検討がつけられるんだって。
まぁ、昔の人は神意、ミクリ様からのお告げを聞きにいくってつもりで行って、それを宮司さんが聞き届けるっていう意味でやっていたらしいけど、今、振り返ってみればちゃんと科学的な根拠もあってやっていた事なんだろうって」
「へぇー」
昔の古臭い宗教行事と思って聞いていたけど、そう聞くとしっかりとした根拠や経験則があってやっていたことのように聞こえるから不思議だ。
「それでね、お婆ちゃんのお父さん、つまりナオ君の曽祖父が14歳の時に、宮司さんと後何人かで一緒にお役目のために山に登っていたら雪崩に遭ってしまったそうなの。それで、もう駄目だって思った時『大丈夫だからしっかりしなさい』って女の人の声が聞こえて、曽祖父は誰かに雪の上に引っ張り上げられて助かったんだって。
宮司さんや他のお役目の人たちも、同じように助けられたらしいんだけど、誰が助けてくれたのかは分からなくて、きっとそれがミクリ様だったんだろうって曽祖父が言っていたらしいわ。きっとお役目の最中で、自分がまだ成人してない子供だったからミクリ様がお慈悲を掛けてくれたんだろうって」
「ほー」
確かに、その話の幾つかは自分が体験と共通していることがある。
死んでもおかしくない状況から生還した事、その瞬間に安否を確認する女性の声を聞いた事などは同じだった。
「そっか、助けてもらったんだ」
神様っていうのは白い髭を生やしたお爺ちゃんみたいな人で、少なくともずっと年上で成熟した大人の姿をしているのだろうと思っていたのだが、あんな同い年くらいの少女の姿をしている時もあるものなのか。
実際に自分と同じ体験をした人がいて、しかも血の繋がりがある曽祖父も同じ体験をしたのだと聞いてしまうと、直柔には自分の不可思議の体験の理由も同様であるとしか思えなかった。
「きっとね、だからナオ君も、しっかりと『ありがとうございます』って、ミクリ様にお礼しとくのよ」
「ん、分かった」
暫く心に引っ掛かっていた疑問が拭われると、ようやくこの一連の事故に一区切りがついたような心地になる。そして、ようやくどこか落ち着きのなかった直柔の様子が落ち着いたことを見て取ったのだろう。
「それじゃあ、お母さんは一度家に帰って、夏夜ちゃんとお父さんに夕ご飯を作ってから、ナオ君の着替えとかを持ってくるから、何か持ってきてほしいものとかある?」
事故後、片時も自分の傍から離れなかった母がそんなことを尋ねてくる。
「ゲーム持ってきて、スイッチとデケモン」
「ゲームね、分かった、それじゃあ6時までにはもう一度来るから」
「ん」
頷いて答えるナオを確認して病室を後にする母を見送り、することもなくなった直柔はとりあえず「ミクリ様、ありがとうございます」と。病室から望める御社のある仁王山に向かって感謝を捧げておくのだった。