試験開始
6月の曇り空は蒸し暑い。
晴れている時はそれなりにカラッとしているが、曇り空だと蒸し蒸ししている。
朝のはずのに灰色の世界が進んでいく。
2週間はあっという間に過ぎ、簿記検定試験当日となった。
僕は今、試験会場の教室の席に座っている。
簿記検定試験会場の一つとして、港口商業高校が毎回選ばれているというのは先輩たちから事前に聞いていた。
試験会場ではあるものの、なんとなくホーム感を感じることができるのは嬉しい限りである。
僕は人生の中で、試験は何回か受けてきた。
しかし、この会場の雰囲気は、簿記検定はいままでの試験とは何かが違う気がした。
ただ雰囲気が違う理由はすぐにわかった。
高校生以外にも大人がたくさん受験しているということ。
若い人からお年を召した人まで幅広い層の人たちが受験しているのだ。
僕の隣の人は試験直前まで勉強をする人なのだろう。
テキストを開いて、直前まで自分の苦手なところを復習している。
前の人はずっと電卓を叩いている。試験中によく指が動くように準備運動をしているのだろう。
しかし、6月の教室はとても湿度が高かった。
肌にきている服はよく張り付くし、何より肌がベトベトして気持ちが悪い。汗をかいているわけでもないのに、顔のまわりになにがついているような感覚をした。
港口商業高校のあまり良くない点としては、冷房設備が充実していない。
夏は窓を開けて扇風機を回すだけだし、雨が降った日は最悪である。ただひたすら、耐えるしかないのだ。
試験開始までそろそろというとこまできた。
僕は試験が始まる前にお手洗いを済ませておこうと思った。
お手洗いのために教室を出た時に、相沢先輩から言われていた言葉を思い出した。
「境くん、試験日のトイレは気をつけたほうがいい」
「なんでですか」
「それはね、トイレの大に並ぶ長蛇の列の大人たちがたくさんいるからだよ」
「へ?」
相沢先輩の話は冗談だと思っていた。
そんなトイレにたくさん並ぶやつがいるわけあるまい、と。
しかし、お手洗いの前に着くとそこには大量の列ができていた。
2列できており、1つ列はそれなりにスムーズに進んでいる。
もう一つは、まったく動く気配がない。テキストを片手に立っている人たちが長い列を作っていた。
相沢先輩の話には続きがあった。
長い列に並んでいるのは、都市伝説を信じている人たちらしい。
受験会場の便座を制するものが、合格を手にする。
誰が初めに言ったのかはわからない。そして、誰が初めにそれを実践したのかもわからない。
ただ一つわかるのは、試験日当日はトイレの大に多くの人が並ぶということである。
人は緊張するといつも生理機能は十分に機能しない。
一説によれば、試験前に受験会場のトイレで大きい方をすることによって自分は緊張していないかどうかを試すことができるそうだ。
緊張をするということは、裏を返せばミスをしないかどうか緊張しているということになる。
ミスをしなければ合格する自信があるということではないだろうか。
逆に、緊張をしていないのであれば、もはや合格する自信がそもそもない。
本当に自分に自信がある人はある程度の緊張感を持っているはずだし、それを試験日当日は力に変わる。いつも以上の集中力が発揮され、いつもミスしていたところを土壇場で改善していくのである。
こんなところで、臭いトイレの匂いに耐えながら便座を獲得するために集中力を使うのはもったいない。
いや、そもそも便座を確保したところで、数十秒前までどこのだれだかもわからない人が座っていたものに座りたいだろうか。樹脂でできた便座を通して、他人の生暖かい温もりをそんなに感じたいのだろうか。
相沢先輩の話を聞いた時、僕の頭の中には色々な感情が巡ったのは言うまでもない。
これもまた試験の風物詩なのだと笑うのが一番いい、と相沢先輩は言っていた。
僕がお手洗いを済ませて教室に戻ると、試験員らしき人物が黒板の前に立っていた。
教室の状況を確認しているのだろう。何かを見ながら指差し確認をしていた。
しばらくすると、何人かの人たちが入ってきて、教室のドアは閉められた。
そしてどこかで見たことのある雰囲気の人がいることに気がついた。
僕は思わず声が出そうになったが、それは必死に堪えた。
あのもじゃもじゃ頭は、相沢先輩である。
いつも眠そうではあるが今日は一段と眠そうである。
僕がいることに気がついていないらしく、教室の遠くの方をずっと見ていた。
「それでは、試験を始めます」
試験員の人の合図とともに試験が始まった。
ここから試験が始まるのではない。
問題用紙を配ったりや受験票の確認が行われる。
受験票の確認はスーツをきた大人の人たちがやっていたが、問題用紙は相沢先輩も配っていた。
相沢先輩は、どうやら僕の列に問題用紙を配る係だった。
眠そうな顔をして、相沢先輩は前から順に問題用紙を配っていった。
そして、僕の席に着いた瞬間であった。
目が覚めたのだろう。
目を大きく見開いて、瞳孔がめいいっぱい開いた。
幸い大きな声は出さなかったが、どことなく問題用紙は雑に配られたような気がした(先輩なりの優しさなのだろう)。
問題用紙と解答用紙が配り終えてから、数分の待ち時間があった。
誰も喋らず、ただただ試験の開始を待つ。
となりの人の鼻息がとても荒いのが気になった。
なぜか、肩で呼吸をしている。体調が悪いのだろうか。
それくらい静かな時間で、余計なことを考えたくなってしまう時間だった。
「それでは、始めてください」
試験員の大きな声とともに、試験は始まった。




