川上先輩の優しい簿記の復習時間③
川上先輩は、早速説明に戻ろうとした。
「先輩」
五島さんが声を出した。
僕らは五島さんが声を出すのが意外だったため、彼女の方に視線をやった。
「どうかした?」
「お花を摘みにいきたいです」
一瞬なんのことだかさっぱりわからなかった。
学校でお花を摘みに行ける場所なんてないだろう。
「いいわよ。いってらっしゃい」
「ありがとうございます」
五島さんは、ゆっくりと椅子から立ち上がりそのまま教室を出ていった。
「まぁ、確かにさっきから喋りっぱなし聞きっぱなしだったし。この辺りで少し休憩しましょうかね」
川上先輩は持っていた黒いホワイトボード用のマジックを、ホワイトボードに付属している受け皿に置いて、近くの椅子に座った。
「ねぇ、四分一さん。さっきの話ってなんだったの? 五島さんの話。本当にお花を摘みに行ったの?」
僕は、五島さんならお花を摘みに行きかねないと思っている。
「ああ、違うよ。あれは......」
「お手洗いに行ったのよ。トイレトイレ」
川上先輩は、カバンから水筒を取り出して、水筒のフタ兼コップに水筒の中身の暖かいお茶を注いだ。
「お手洗い?」
「そう、お手洗い。意外と境くんはウブなのね。女性が、お花を摘みたいだの、お化粧を直したいだの言い出したら、お手洗いに行きたい時ってことよ」
なんとなく、後者はわかる気がした。
しかし、前者の意味はわからなかった。その後、この話を広げるのもどうなのかと思い、僕はとりあえず納得した形にした。
「そういえば、四分一さんの自己紹介ってまだだったわね」
「ああ、確かに。四分一なつみです。なつみはひらがなです。この高校に入ったのは、将来自分のカフェを開きたいと思って入りました。経営とか学びたくて」
「あら、いいわね。カフェ。美味しいラテとケーキ食べたくなってきちゃった」
「そうですよね!」
四分一さんは、目を輝かせながら川上先輩をじっくりと見つめた。川上先輩は、それに気づいて「ははは」と苦笑いをした。
「でも、なんでこのプレゼン部に入ろうと思ったの? あんな部活動紹介をしたら、人なんて集まらないと思っていたわ。特に女の子なんて入ってくるなんて思っていなかったもの」
こっそり部活動紹介の時の出来事について愚痴をこぼしたが、当の本人は机に突っ伏して寝ていた。
部活動であるから、寝るのも起きるのも自由なのだろう。運動部と違って、上下関係はそこまで重要視されない気がした。
「入ろうと思った理由は......その......境くんが誘ってくれたんです」
なぜか、四分一さんは恥ずかしそうにその事実を伝えた。僕の誘い方がまずかったのだろうか。夜景が見える展望台で、二人っきりの時に誘ったからだろうか。夕暮れの河川敷で、泥だけになったライバル同士が友情を確かめあうのと同じくらい定番だと思っていたのだけれど。
「あら。境くん。あなたやるわね。そんな男だなんて思ってなかったわよ」
「どんな男だと思ってたんですか全く」
「こんな子を口説くなんてね」
「く、口説いてなんていないですよ!」
「そういう意味で言ってないわよ。冷静になりなさいって」
川上先輩の「口説く」の意味は、説得の意味で使ったようだった。
僕は、てっきり四分一さんを口説いて、自分の恋人にした、という意味で使われているのかと勘違いをした。その後、顔が真っ赤になって暫く喋れなかったのは言うまでもない。
「中学校の頃は、部活動とかやってなかったの? 運動部とかに入ってそうに見えたけど」
「陸上やってました。主に中長距離で。でも陸上は中学校で辞めて、高校では違うことをしようと思ってました。ランニングとかはこれからは趣味でやろうかなと思ってます」
「体力には自信があるということでいいかな?」
いつの間にか、寝ていたはずの相沢先輩が目を開けて四分一さんに向かって喋っていた。
「え、ええまぁ。それなりに体力はある方だと思いますが......」
四分一さんが返事をした頃には、相沢先輩のまぶたは閉じてこちらを見ていた。どうやら覚醒には至ってはいなかったようだ。しかし、四分一さんの返事を聞くと、相沢先輩は広角をあげて少しにやけた。そして、ふたたび机に突っ伏して寝てしまった。
「いつも、あんな感じなんですか」
四分一さんは、川上先輩に尋ねた。
「あんな感じよ、いつも。とにかく変人なのよコイツ。昔は普通だと思ってたんだけどね......。簿記1級の勉強し始めたあたりから、なんか人が変わり初めたのよ」
簿記1級とは人を変えるのか......僕は、少し恐ろしくなった。




