商業科目、授業開始③
簿記の授業が終わると、その後は通常の授業が続いた。
6時間目の音楽の授業の時、五島さんが華麗にギターを弾いていたことに驚いたくらいで特別な出来事は起こらなかった。
放課後になり、練習に行こうとする隆二を僕は呼び止めた。
「隆二」
「どうした」
練習に行きたそうにしている隆二であったが、僕はどうしても聞いておきたいことがあった。
「部活って、いつまでに決めるんだっけ」
「四月末じゃなかったけ。たしか」
「野球部とかって、別に出さなくてもよかったの?」
「出さないといけないけど、推薦で入ってきたヤツとか、もともと野球部志望のやつは初日から練習に参加できるんだよ。まぁ練習っても走り込みとかだけどな。1年目は雑用が大半だよ」
隆二は、やはり急いでいたらしく「わりぃ、練習行かないと」と言って教室を出ていってしまった。
部活動を決めないといけない。特に部活動は必須であるわけではないものの、この高校の生徒のほとんどが部活動に所属する。部活動に入っていないというところで僕は目立ちたくない。
迷いながらもリュックを背負って教室を出た。
しかし、僕は肝心なことに気がついた。
この学校にどんな部活があるか、僕は知らない。そして、今焦らなくてもいいのである。よくよく考えると来週の月曜日に、全校集会で部活動紹介がある。そこで、決めても遅くない気がする。
昇降口の下駄箱から自分のローファを取り出して、床に落とした。
そして、上履きからローファーに履き替えようとした時に誰かにぶつかってしまった。
小さな声で「きゃあ」と声がした方向に振り返ると、女の子が下駄箱のすのこの上に倒れていた。
スカートから見えるつやつやの肌に目がいきかけた僕であったが、自分の精神と格闘した。
自分の中の紳士の精神と煩悩の精神の殴り合いの結果、紳士の精神が殴り勝った。
「ご、ごめん。大丈夫?」
僕は、彼女の顔を見て言った。
「あいたたた。大丈夫大丈夫。まさか高校に入って尻餅つくなんて思わなかったよ」
ボブショートカットのセンター分け、綺麗な二重で長いまつげ。一目見た瞬間、僕は可愛い子だと思った。
「えっと、同じクラスの境くんだよね?」
同じクラス?僕は驚いた。こんな元気にフランクに話す子が僕と同じクラスであっただろうか。僕のとなりにいる日本人形さんのせいで、クラスの女子は根暗な人が多いという印象が勝手に頭の中にあった。
僕がそんな不穏なことを想像した瞬間であった。僕は誰かに睨まれているような気がして、背中に冷や汗を書いた。そして、横から五島さんが現れた。背伸びをして下駄箱をあけて、上履きからローファーに履き替えてそそくさと出ていった。
「ん、どうかしたの?」
僕は彼女に話しかけられて、ハッとした。
「ああ、ごめん。なんでもない。そうそう、境です。えっと、、、」
こんな可愛い子の名前を覚えていないのが、僕である。全国の高校生に、可愛い子の名前は試験勉強の内容を頭に入れるよりもまず先に覚えるべき、と声を大にして言いたい。
「ああ、ごめんね。私の名前は、四分一なつみ」
先生の言った通り、自己紹介のほとんどを覚えていないようだ。こんなに珍しい苗字で、こんなに可愛らしい顔の女性を覚えていなかったのだから。
「よろしく、四分一さん。名前覚えてなくてごめん。」
「よろしくね。いいよいいよ気にしないで。自己紹介なんてほとんど覚えてないって先生も言ってたし。ちなみにわたし、一番前の席の入り口から一番奥のところに座ってるんだけど、境くんってどこに座ってるの?」
「後ろの席の入り口に一番近い席」
「じゃあ、私の対角線上にいるわけだ」
「そうなるね」
その後、四分一さんもそのままローファーに履き替えて帰ってしまった。軽く振り返って「じゃ、また明日」という声をかけてくれたものの、それ以上の話を広げることはできなかった。
帰り道、僕は部活動のことを考えながら自転車のペダルを漕いだ。中学生の頃、僕は一応部活に所属していた。バドミントン部である。体育館の窓を全て締め切って、風が入らないようにする。夏だろうと冬だろうと御構い無しである。無風空間の中で、白い鳥の花の着いたシャトルを打ち合うスポーツである。
しかし僕の所属していたバドミントン部は、弱小であり人数も少なかった。
最初は体育館を締め切るものの、誰かが暑いと言うと、体育館のドアは開いた。
ある時は、誰かが臭いと言うと、体育館のドアは開いたこともあった。
僕は、とても意思の弱い部活に所属していたのだ。そんな意思の弱さからか、試合においても勝ち切れず、ほとんど2回戦くらいで毎試合敗戦し、僕の中学校の部活動は幕を下ろした。
部活動に所属することは悪いことではない。
将来的には大学進学をする場合、推薦入試をする時は有利に動くし、運動部であれば運動ができる。文化部であっても友達ができる。メリットは多い。
しかし、今更バドミントンをやるのも……と思ってしまう。自分にバトミントンの才能もあるとは思えなかったからだ。
高校生の春にして、またしても僕は何かを選択しなければなくなったのだった。




