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新しい旅

いきなりぴたん、と水滴が僕の額に当たった、と思ったら見る間にどしゃぶりの雨になってしまった。

「うわわゎゎ……」

僕は、あまり意味はないけれど鞄を頭に乗せて辺りを見回し、目についた鉄橋下の通路に走り込んだ。

服に着いた水滴をはたき落としながら空を見ると、雨はしばらくは止みそうにない。仕事も首になった上に雨に降られるとは、全く踏んだり蹴ったりである。

さてどうしようかな、と通路の中を振り向くと、何故か大量のとうもろこしが投棄されていた。皮が付いたままのとうもろこしが、山のように通路に右側に積まれている。

「……なんでとうもろこし?」

声に出して呟いてから、そう言えば今年は野菜、特にとうもろこしが豊作すぎると言うのをニュースで聞いたような気がするな、と思った。

辺りは畑ばかりだし、誰かが捨てていったのだろうか。わざわざこんな所に捨てることもないだろうに。

まだ食べられるようなら貰っていこうと一つ拾い上げた。歩道の縁石に腰を下ろして、ぺりぺりと皮を剥く。とうもろこしの頭から豊かに伸びたヒゲが手に纏わりついてきてうっとうしい。皮が剥けるたびに、甘い日だまりのような匂いが強くなる。

「大丈夫……っぽいな」

少なくとも腐ってはいない。鼻を近付けて嗅ぐまでもなく、美味しそうな匂いがする。黄色い粒々の間から這い出してきた虫に息をかけて吹き飛ばす。

そのまま皮を剥いたとうもろこしを噛ろうかと思ったが、しかし今まで生のとうもろこしは食べたことがなかったので止めにした。

代わりに話し掛けてみる。

「お前も難儀だな。せっかく頑張って実になったのにいきなり『要らない』って捨てられちゃってさあ」

もちろんとうもろこしは何も言わない。

「僕だって……」

と続けようとして、後は言葉にならなかった。


僕だって…何なんだろう。


確かに不況の煽りで首にされてしまったが、だからといってこのとうもろこしのようかと言われると違う気がした。それよりも、間引きの時に抜かれてしまった芽のほうが僕には相応しいだろう。

「しっかし、雨止みそうにないけどどうしようかね」

アスファルトの屋根の向こう側は雨で暗く煙り、地面の上には早くも水溜まりが出来ている。

とうもろこしの皮が邪魔だったので剥ぎ取って足元に捨て、ヒゲをぶちっ、ぶちっと引きちぎってゆく。

「………ん」

ちょっと楽しい。

絡み付いたとうもろこしのヒゲが切れる感触が何とも言えない快感だ。ぷちぷち…正式名称をエアマットと言ったっけ?を潰す面白さに似ている。

皮とヒゲを取りのぞいたとうもろこしを鞄にしまい、背後に積まれた中からもう一個手に取る。

今度はヒゲだけぷちぷちとやる。これも貰っていこう。この際、もう持てるだけ貰っていこうか。でも鞄の中に入れたら虫が出てきそうだな……もう入れちゃったけど。しかもとうもろこしを抱えて公共の交通機関に乗るのも気が引ける。

そんなことをつらつらと考えている間にも、手は休むことなくとうもろこしのヒゲを引きちぎっている。気が付くと足元にはかつらが出来そうなくらいのヒゲの山、脇にはヒゲをむしられたとうもろこし達が並んでいた。

「おい、お前何してんだ」

「う…うひゃぁ!すすすいませうわぁっ!」

いきなり声をかけられて、僕は持っていたとうもろこしを放り投げて立ち上がっ……たまでは良かったが、慌てすぎてとうもろこしの皮を踏ん付けてすっ転んでしまった。

「いてて……」

したたかに打ち付けた腰をさする。とうもろこしの持ち主が現れたのかと思ったが、辺りを見回しても人影はない。

……あれ、人影がないのにどうして今声がしたんだろう?ひょっとしてとうもろこしが喋っ……

「どこ見てんだよお前、こっちだこっち。足元だよ」

きょろきょろと再び首を巡らすと、ぺたんと座り込んだ僕の足元から声がした。

見ると、大きな赤茶の虎猫が一匹、僕の足元に座っている。くねらせた尻尾が、別個の意志を持った生命体のようだ。

「……え、あ、猫?」

「俺は猫だが?」

それがどうした、と目の前の猫が口を開いた。とりあえず頬をつねってみる。痛い。



その瞬間、僕は気付いた。



…………そもそも打った腰が痛いのだから、更に頬をつねる必要なんて無かったのだということに。

「……腹話術?さもなきゃ失業のショックで僕の頭が………」

僕は痛くなった頬もさすりながら呟いた。

しかしこの虎猫、どこか見覚えのあるような……いや、猫なんてみんな一緒にしか見えないからそのせいか……?

「そんなんじゃねえよ」

その深緑とも青ともつかない目を細めて、にやりと猫が笑った−−ように、見えた。

歩道の縁石に座り直した僕の隣に、するりと近寄ってくる。先程までとうもろこしに夢中で気が付かなかったが、雨に濡れた頭が冷たい。

「……じゃあ、自分で喋ってるの?」

「ああ」

当然のように僕の隣に座って、猫が頷いた。その虎縞には一滴の水滴も着いていない。

「………」

僕が何も言えずに猫を見つめていると、虎猫は「別に信じる必要なんて無いさ」と言い、くくと笑った。

笑いが納まってしばらく、まだ僕が呆けたように猫を見つめていると、彼はちらりとこちらを見上げた。そして、

「お前、仕事クビになったんだって?」

唐突にそう言った。

「な、ななな…………何でそれをっ!?喋るだけじゃなくてテレパシーまで使えるの!?」

「違ぇよ。さっき自分で言ってただろうが」

「えぇ?知らないよ僕は」

「馬鹿だなお前。自分で言ったことぐらい覚えてろよ。そんなんだからクビになるんだ」

「うるさいやい」

何気なく返して、僕は猫から視線を外して前を向いた。

やはり、微妙な目の色といい、長い尻尾といい、どこか記憶に引っ掛かるところがあるような無いような……やっぱ無いな。うん。僕に猫の知り合いなんていないはずだし。猫を飼ったこともないし。気のせいに違いない。

「で………えっと、だから何?」

前を向いたまま僕は言った。初対面だったし、虎猫の態度は横柄だったが、僕は何故か敬語を使う気になれなかった。

………と言うかそもそも、この猫はどうやって喋っているのだろう。声帯の構造はどうなっているのだろうか。

「あ、そうそう、お前、そんなに気を落すんじゃねえよって俺は言いたかったんだ。明日には明日の風が吹くさ」

「気休めならいらないよ」

「気休めなんかじゃないさ」

僕がぶすっとして言うと、猫はにやにやと笑い、体を静止させたまま耳だけをぐるぐると動かした。

「猫の言いなりになるしか出来なかった奴でも大富豪になれたんだからな」

「……へぇ」

どうやって猫一匹でそんなに金を稼いだのだろう。わらしべ長者じゃあるまいし、とんだ物語である。

「………」

「……………」



……だがこの喋る虎猫の言うことなら、信じられる気がした。



目の前の猫には、きっとそれが出来たのだ。

「………ど、どうやって?」

僕が呟くと、猫はくくくと再び笑った。深緑とも青ともつかない目が僕の視線と合う。大きな猫の目の中に僕が映っているのが見えて、その僕は、




――背筋が、ぞくりとした。

雨に濡れたせいだろうか。



僕が思わず猫から目を逸らすと、彼は小さく鳴いた。

「さあ?どうしたんだろうな?」

そしてぱたん、と尻尾をアスファルトの上に打ち付けた。隣にあるとうもろこしのヒゲはこそりとも動かない。

そして猫は立ち上がり、通路の出口まで音を立てずに歩いていった。

「さて、雨も止んだことだし、そろそろ俺は行くよ」そして僕に背を向けたまま、唐突に言った。

「……そう?じゃあね」

何故か、「どこへ?」とは聞けなかった。

僕も立ち上がり、ヒゲを取ったとうもろこしを抱えて通路の入り口に立った。見上げると、雲の合間から夏の眩しい光が差し込んできている。

「ああ……もう会うこともないだろうが、な」

猫は俺を見上げ、そして水溜まりに足を踏みだした。



「…………×××!」



猫が波紋すら立てずに水溜まりの上を数歩行った時、僕は自分の口がその猫の名を呼んだのを感じた。

それは僕自身の行動のはずだったが、僕は何故自分がそんなことをしたのかよく分からなかった。

無意識の行為だったのだろう。

確かに僕はその猫の名を呼んだはずなのだが、何と呼んだのかさえ全く覚えていないのだから。

猫は僕の声を聞いていたのかいなかったのか、一瞬立ち止まって尻尾をゆっくりと一回転させ、そして――




そして――――――走り始めた。





道を一直線に走っていったのだが、見る見るうちにその虎縞の体は小さくなり、瞬く間に見えなくなってしまった。

後に残されたのは僕一人だけだ。




「さて……僕も行くか」




やがて僕もそう呟いて、ぴしゃりと水溜まりのなかに足を踏み入れた。




空は青く晴れて、薄く虹が出ていたのだった。



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