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新しい服

俺は猫だ。

名前はまだないし、多分これからも付くことはないだろう。



薄暗い中でにゃあにゃあ鳴いていたのが最初の記憶だが、どうして主人の所までたどり着いたのかは定かではない。聞くところによるとどうも猫鍋にされかけていたところを助けられたらしいが、それにしては主人は情け知らずである。

しかもこの主人、「学生」などと言う人間のなかでも頭も行為もよろしくない品種のようで、酒に酔っては俺の尻尾をむんずとつかんでぶら下げたり髭を引っ張って切り落としてくれたり狼藉のし放題である。この頃では「この足は肉付きがよくて旨そうだ」と言って人の足をじっと見たりしている。

人はかような主人のことを「勉強熱心だ」と評しているようだがところがどっこい、主人は机に向かいながらよだれを垂らして惰眠を貪っているだけである。





さて今日もいつものごとく主人と夕食を食べていると山月(サンゲツ)くんが現れた。いったいこの男は花が咲く前に既に枯れかけている主人のような奴と話して何が面白いのかと思うのだが、馬が合うのか何なのか足繁くやってくる。おまけに今日は手に何やら大きくて泥臭い包みまで抱え込んでいるときた。

「おいおいクシャミ、猫に猫まんま食わせちゃいけねえってこの前言っただろうが。キャットフードを買え、キャットフードを」

「うるせえな、人間様と同じ飯だぞ?」

山月くんは俺の粗食に意見を奏したようだが主人は一向に意に介さない。

「てめえが猫まんま食ってんのは金がねえからだろ」

「そうだ。自分が食うものも買えないのにキャットフードが買えるか。だいたいキャットフードだって日本語訳したら猫まんまだろ」

我が主人ながら口の減らない奴である。

「大体お前は何の用があって来たんだ」

「用が無きゃ友達の部屋に来ちゃいけねえのか」

「いけないね」

「つれない奴だ」

そう言いながら山月くん、ごそごそと泥臭い包みのビニール袋を剥がし始めた。俺が近寄って見ると、どうも魚のようだ。しかし見たことの無いものである。

「何だそれは」

わが主人の方も興味をそそられたと見て、飯粒を頬に付けたまま首をのばしてきた。

「ナマズだよ、ナマズ。俺が取ってきたんだ」

得意そうに山月くんが言った。

「しかしナマズをどうしようってんだ」

「決まってんだろ、食うんだよ」

「食えんのか?」

「知るかよ。だが毒があるという話は聞いたことがねえからな、多分食えるだろ。揚げたら良さそうだろ?」

適当だ。ようよう猫まんまを食べおわった馬鹿な主人もそれは感じたようで、「うーん……」と唸っている。

「でけえもんはうめえんだよ。ナマズなんてでかいドジョウだ」

あっさりと山月くんが言った。手はもう包丁をナマズに突き立てている。

微妙な顔をしながら主人が食卓の上で泥と魚特有の匂いを漂わせるナマズを見ていると、また勝手に玄関を開けて今度は酩酊くんと水仙くん、西風くんが現われた。皆思い思いにビール瓶や日本酒の瓶を抱えている。

「お、それがナマズか。ははぁ、ひげがにょろにょろしてら」

挨拶もなく人の部屋のなかに上がり込んでくる三者。俺は誰かに大事な尻尾を踏まれる前に棚の上に退避した。

「それを揚げるのか?しかしどうやって?この部屋にコンロはないぞ?」

と水仙くん。

「ほらあれだよあれ…何つったか、魔法の板だよ。『ピッ』てなる奴…」

がさがさと勝手知ったる主人の棚から包丁を取って酩酊くんが山月くんの隣に並ぶ。

「IHか。IHクッキングヒーターのことだろ。どうでもいいが物理学科が『魔法の板』は止めろ」

主人は立ち上がった。「魔法の板」を取りに行くのだろう。

「そういや三太はどこ行ったよ」

「三太か。あいつは女んとこだ……よ痛ッ!指切った!三太の馬鹿野郎!」

「何だそんなのも切れないのかよぶきっちょだなあ。だから女が満足しないんだ、んで他の男の所に行っちまうんだ」

「うるせえ貴様!男はハートだ!心だ!それがわからん女に用はないっ!」

「ハートやテクニックより前にてめえはその洋服をなんとかしろ」

「おい、小麦粉が見当たらんのだが、これは素揚げにするのか?」

「それ以前に油が無いっすけど」

「よ、洋服?」

「この前唐揚げ揚げたときの残ってなかったっけ」

「新しい服でも買えってんだ」

「味付けどうする?」

「て言うか俺は刺身のまま食いたい」

「刺身はやばいだろ刺身は。生だし」

一人と一匹でさえ狭い主人の部屋は五人と一匹でもうわやくちゃだ。しかも各々が好き勝手なことをして好き勝手に喋り散らしているので何が何だか分からない。

それでもしばらく見ていると、何とか揚げるところまでこぎつけたようだ。先程まで主人の猫まんまが乗っていた卓袱台の上に代わりにやって来た「魔法の板」と鍋を五人で阿呆のようにじっと見つめていたと思ったら今度は揚がった奴を巡って「お先にどうぞ」「いやいや、そちらこそお先にどうぞ」と始めた。

やがてついに決心を固めたのか、「えい」と西風くんが揚げたナマズを口に入れた。

「おおっ、うめえぞこれ!」

「だから言ったろ、でけえもんはうめえんだって」

山月くんは得意そうだ。

西風くんが手を付けたのをきっかけに皆次々にナマズに手を伸ばす。主人がその内ひとかけらを俺に投げてきたが、俺はそんな油っぽいものは嫌いなので無視する。

「それにしてもあれだ、酩酊、お前は洋服をなんとかしないと本当にまずいな」

主人は強くもない酒を飲みながら言った。隣では既に山月くんが潰れている。

「そうだな、お前はまず服のセンスが課題だな」

「んだんだ」

「そうかあ?」

皆が好き好きに酩酊くんに言うが彼はあっさりとしている。

「じゃあ俺の服選んでくれよ」

「ざけんなよ何で男と買い物に行かなきゃなんねえんだ」

「だからと言って人の服にいちいちけちをつけんなや」

「ダメなもんはダメなんだからしゃあねえだろ」

はてさて人間というものは不便なものだ。俺ら猫のように毛皮を持っていないからいちいち服を取り替える必要がある。しかもその色形を巡ってああだこうだと言い合っている。

やがて酩酊くんも主人も頭を垂れていびきをかき始めた。水仙くんも西風くんも舟を漕ぎながらむにゃむにゃと何かを言っているだけだ。ビールの入ったコップが残っている。

俺は前よりかねて人間の飲むこの酒というものが気になっていた。いい機会だから飲んでみることにしよう。死んでから悔やんでもおっつかない。

勢い良くぴちゃぴちゃやってみると驚いた。ぴりぴりと舌先を刺されるようだ。しかし我慢して主人の残したのを飲んだ。山月くんのも飲んだ。ついでに卓袱台の上にこぼれたのまで舐めとる。

すると何やら体がふらふらとしてきた。何やら面白い。狭い部屋中を躓きながら徘徊してみたくなる。外に出たくなったがどこかに開いた窓はないだろうか。

粗末な風呂場まで来て、奥の窓が開いているのが見えた。よしそちらにいこうと思って足を踏み出したらぼちゃんという音がした。やられた。どうやられたのかとにかくやられたと思うばかりで気が付いたら水のなかだ。

慌てて水を掻いたらがりりと手応えがあって顔が僅かに水面に覗いた。不精者の主人が張りっ放しにしておいた風呂のなかに落ちてしまったようだ。だがどうあがいても淵からでられそうにもない。辛うじて起きている水仙くんも俺の窮状には気付かないようだ。

がりがりと淵を引っ掻いて浮き沈みを繰り返していたが段々体が疲れてきた。もう潜るために掻くのか掻くために潜るのやら判然としない。俺はもう無駄な抵抗はやめにすることにした。次第に楽になってくる。いや楽すらも感じられない。



俺は死ぬ。死んで太平を得る。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。



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