顔
肘掛けに腕を乗せ、目を深く閉じる。はじめは、列車が線路を行く振動がひじ掛けを通って、脳を揺らすので、意識を内へと飛ばせなかった。しかし、数分もたてば、無軌道である意味無邪気なその中に僕は居た。そこも、また、列車だった。僕は同じように座席の肘掛に腕を乗せ、だが、目を開いていた。静かな車内だ。僕の肉体がある、車内とは打って変って、人もおらず、あるのは振動と隼の如く夜を切る、列車の音だけだ。僕はなんとなく、内ポケットから煙草を取り出し、ひじ掛けでフィルターをゆっくりと軽くたたく。現実ではないからだろうか。僕は何の躊躇もなく、ライターを手に煙草に火をつけ、一息に煙を吸い、肺に通し、吐き出した。低い天井にまだらな雲が煙で産まれた。
「おいおい、車内で吸うか普通」
静かな車内に声が降った。振り返る。と、そこに笑い顔の男が居た。茶色のよれたジャケットにあせたジーンズ。顔立ちは幼く、よくて二十歳そこそこだろう。
「いかれてるな、あんた」
男は僕の向かいの席に勢いよく座り、足を組む。
「一本恵んでくれよ」
顎で煙草を指しながら、男は求めてきた。僕は内ポケットから一本取り出し、何も言わずそれを差し出し、火をつけた。
「どうも」
男は美味そうに煙を吸い、目いっぱい吐き出す。その煙は僕の吐いた煙と混じり合い、深い霧を発生させた。僕は手を伸ばし、窓を少し開ける。窓の外には月に照らされ、夜風で揺れる麦畑が広がっていた。
「旦那は働いてる?」
男は煙草で僕を指し、訊く。にやけ顔が浮かんでいる。僕は言葉を発さず、首を縦に振る。
「あはは!」
急に彼は下品な笑いを上げ、腹を抑えた。
「嘘だね、そりゃ」
「なぜ?」
僕は不躾な彼の態度に怒りはせず、それよりも彼がなにを思ってそう言ったのか気になって、訊く。
「なぜかって?」
男は得意げに煙草を吸い、煙を吐く。灰をひじ掛けで落とすと、抑揚をつけて答える。床に灰色の染みが滲む。
「顔に書いてある」
僕はその答えに苦笑し、首を振る。
「僕の顔に無職だと」
彼と同じように、行き場のない灰をひじ掛けで弾く。
「それは面白いな」
「信じてないな旦那」
彼は丸い瞳で僕の目をじっと見つめる。顔は笑っているが、目が笑っていない。
「例えばだ」
煙草を使い、演説を行うように男は喋る。
「今にも死にそうって顔したまあ三十代ぐらいのねーちゃんがいたとする。そいつがなんで、死にそうな顔をしてるか、そいつの人生がどんなものなのか、考えたとき、何個か浮かぶよな」
男は絵を描くように煙草で浮かぶ煙をなぞる。
「夫からDVを受けてる、子供の育児に嫌気がさしている、姑と上手く行ってない、ママ友からいじめられてるとか、いろいろな。でも、その表れている、表情を突き詰めていけば、原因を突き止めることなんて簡単だ。言葉なんて必要ないんだ」
顔を逸らせ、彼は煙を目いっぱい天井に吐いた。気づけば天井にあったまだらな雲も、積乱雲へと変貌している。
「それに、その表情がなにから表れたものなのか、分かれば、そいつの人生すらも把握出来ちまう」
煙を吸い、吐き出す。
「人間なんて、つまらないもんさ」
その言葉に僕は彼に代わって笑った。
「じゃあ、君にとってはしかめっ面の婆さんは義理娘に腹を立てていて、落ち込んだ顔の中年の男は車のディーラーだったりするわけか」
すると、男はその言葉に真面目な顔で、頷き返した。
「そうだな、そういうことになる」
「傑作だな」
僕は男の話に呆れ笑いながら席を立った。どこか一人で煙草を吹かしたかった。馬鹿な話につきあわずに。
「まてまて、まあ信じられないのも分かるよ旦那。でも俺の話には続きがあるんだ」
男はまた妙な笑いを見せながら僕の腕を抑えた。
「この話を聞けば多分旦那は納得するよ、ほら座って座って」
強引に彼は僕のことを椅子に座らせた。僕はため息をつきながら、吸いかけではあったが煙草を窓の外に放った。それにならって男も床に煙草を落とし、足で踏みつけた。
「これは俺が子どものころの話なんだが、俺には、優しいお袋と同じくらい良くできた親父がいた。休日なんかは決まって、三人で出かけたりしてな」
俺と彼以外居ない、車内には声がよく響く。
「あの時の俺は両親のことは大好きだった。でもなお袋はまあ置いといて、親父がなんかな変なんだ」
男の目は丸く見開かれ、僕の瞳を射抜いている。
「表情がなおかしいんだ、いつも。でも、お袋はそれには気づいていなくて、子供ながら悩んだよ」
にやにやと彼は笑いそこで、黙った。なんとなく僕に相槌を入れてほしいのが分かった。
「それで?」
「ああ、それから、少したって、事故でお袋が死んだ。俺はめちゃくちゃ悲しくて死んじまうぐらい泣いたよ。親父もまあ、泣きに泣いた。でも、奴は優しい親父だから、わざわざ仕事を辞めて、ふさぎ込んだ俺の側にいつもいてくれたんだ」
僕はこの先の見えてこない話に、飽き飽きしていた。その時、「ゴー―」と音がし始めた。見るとトンネルの中に入ったようだ。迫る壁によって、窓の外は黒で塗りつぶされた。
「でもな、」
窓の漆黒から、彼へと顔を戻す。男は相変わらず笑っている。
「やっぱり、表情が変なんだ。親父の表情が。それで、俺は気づいたんだよ」
男は楽しそうにに笑い続ける。
「旦那、俺が言いたいこともう分かったろ?」
僕も苦笑した。
「ああ、」
男はその答えに嬉しそうにはにかんだ。やっぱり、彼の顔は幼い。
「そういうこと、旦那、あんたの顔は」
彼は頷く。
「親父のとそっくりだ」
「旦那、終点だよ」
目を開けると傍らに彼が立っていた、正しく好青年、という穏やかな顔立ちをしている。僕は働かない頭をどうにか働かせながら、周りを見渡すと、いそいそと他の乗客達が、列を作っていた。若干混雑しているようだ。僕は一つ伸びをし、起こしてくれた彼に礼を言う。
「ありがとう、起こしてくれて」
彼はにこやかにに笑う。
「旦那、すごいぐっすり眠ってたから、起こすか悩んだよ。それじゃ、」
青年は荷物を持ち、列に並ぼうと歩みだす
「ちょっと、」
僕はそれを引き留め、煙草を箱ごと内ポケットから手に取り、彼に手渡した。
「ありがとう。これはお礼だ」
彼は煙草を受け取ると、申し訳なさそうに首を振った。そして、僕に返す。
「気持ちはありがたいけど、俺煙草吸わないんだ」
「なんだ、」
僕はほんの少し笑った。
「吸いそうな顔してるのに」