6月1日 金曜日【帰り道】
梅雨の朝はどこかぼんやりとしている。
薄暗い教室の黒板も、瞳に鈍くぼやけて映る気がするし、しとしとと降り続く弱い雨の音で先生の声だって頭に入ってこない。
また昨日とだいたい同じ、くだらない今日が始まる。それが過ぎれば明日になる。
昨日高校二年生になったと思っていたらもう次の日六月だった。そう思えてしまうくらいに、新しいクラスで始まった一学期最初の二ヶ月はわたしにとって波乱に満ちたものだった。
休み時間、クラスの中央では放課後部活のない人間でカラオケに行こうと計画がされて、賑わっている。少し遠くから遠慮がちな声が聞こえてくる。
「そういえば大槻さんも、部活入ってないよね」
「大槻? あいつはいいよ。性格の悪い人間がいると空気が悪くなる」
険のある声音でわたしに対して聞こえよがしに悪口を言うのは新堂亮司だ。
わたしは決して気弱に見える容姿ではないし、実際気弱ではない。ただ、喧嘩っぱやいかといわれればそこまで好戦的な方でもないので、言われたことに対していちいち立ち上がって反論しにいったりはしない。だって馬鹿に何を言ったって無駄だから。
今年の春。クラス替えのすぐ後にある男子生徒から告白された。
久保田というその大柄な男子生徒のことをわたしはよく知らなかった。坊主頭で人は良さそうだなと思いはしたけれど、さほど親しくもないその相手に興味はわかなかったので簡素に「ごめん、興味がない」とお断りした。
ほどなくしてその男子生徒の友人を名乗る松崎紗里奈という女子生徒が現れた。
どうしても付き合えないか、一年のときも同じクラスだったけど、ほんとにいいやつなんだ、と結構しつこく説得されて、それでも興味がわかないのは仕方がない。そのまま伝えたけれど、言い方がそっけなく感じられたらしい。もともとわたしは愛想がないし物言いがキツイと言われることが多いほうだ。細かい内容は知らないけれど、彼女はわたしに無視をされたとか、きつい言い方で拒絶されたとかそんなようなことを一部にこぼしたようだ。
そしてそれが件の男子生徒及び女子生徒と仲の良かった新堂の耳に入り、一体どんな伝わりかたをしたのかは知らないが、わたしはある朝、机に座るなり新堂に喧嘩を売られることとなった。
「お前さー、もうちょっと人の気持ち考えて行動したら?」
人の机を思い切りバンと叩いて言うそいつがはたして他人の気持ちを思いやれる人間かどうかは疑問だったけれど、わたしはそれにも「あんた誰?」と返した。その頃まだクラスの人間を全員覚えてはいなかったので、知らなかったのだ。
それにたとえば久保田や松崎紗里奈から苦情を言われたならば聞かなくもないけれど、関係のない第三者に言われることではないと思った。わたしのその返答はお気に召さなかったらしく、余計に新堂の怒りをかった。
新堂は基本的に正義感が強いけれど、周りに影響されやすい。おまけに短気で気が強いので怒りを押し込めることなく発露させる。とても迷惑な人間だ。それにわたしから見るとすごく単純なものの見方しかしていないような言動が見受けられる。彼はきっと、正義と悪でこの世がはっきり分割できると信じて疑ってないんだろう。
もっとも新堂は身内と認めた人間にはとことん優しい。気の小さいクラスメイトが上級生に取り上げられた漫画を取り返しに行ったとかいう話も聞いたことがある。困っている人間がいたら進んで助けに行くタイプだ。
だから一旦懐に入り込んでしまえば、単なる気のいい世話焼きな奴なのかもしれない。新堂への評価は男女共に誰に聞いても“優しい良いやつ”だった。
しかしながら彼のその目がわたしに向くことはない。彼の単純な世界ではわたしは友達を傷付ける極悪人でしかない。
そしてどことなく牽引力のある彼が大声でわたしを糾弾するさまは、世間的には正義の制裁に映るようで、わたしが新しいクラスで友達になって、まだ、さん付けで呼び合っていたクラスメイトから距離を置かれる程度には悪目立ちしていた。
*
放課後「みんな集まった? 行こうぜ」と声が聞こえる。そちらを見もせずに鞄を手に持って席を立った。
「まだ井口さんが来てないから待とう」
扉を出ても新堂のやたらにでかい声が聞こえてくる。もう少し、ボリュームさげれないのかな。
昇降口を出ると雨がぱらついていたので鞄から小さな折り畳み傘を出して広げた。梅雨のじっとりとした弱々しい雨は傘とそこからはみ出た制服を濡らす。ポタポタとした感触はあまり感じられないけれど、気が付いた時にはぐっしょりと濡れている。
しばらく行くと奇妙なことが起こった。
わたしの帰り道には昔バス停だった場所がある。路線変更でバス停としては使われなくなったその場所は、今は草むらの中オンボロのベンチと朽ちかけた屋根だけが忘れられたように残っている。
奇妙というのは新堂そっくりの男がベンチの手前で屋根からはみ出すように雨に濡れて立っていたのだ。
制服もうちの高校のもので、顔もさきほど教室で見たものと変わらない。さほど遠回りした覚えもないのでさっき教室にいた男がここにいるのはおかしい。教室で聞いた声は新堂ではなかったのだろうか。
どちらにせよわたしにとって今一番関わりたくない存在だ。目の前を通らないわけにはいかないので傘で顔を隠すようにして足早にそこを過ぎようと歩く。ローファーに沁みた水たまりの水が不快だったけれど、さらに歩調を速める。
「大槻」
すぐそこから声が聞こえた気がする。
さほど強い雨でもないのに、わたしはそれを気のせいだと思った。だって、その声を出しそうな人間はそこに濡れている新堂しかいなかったから。
「おーつき! おーつき!」
今度ははっきりと聞こえる。
びっくりして思わず振り向くとほとんど真後ろに新堂がいた。
「……何?」
わたしが思い切り不快な声になってしまったのはここ最近の一部始終を思えば無理もないことだと思う。
しかし、新堂はわたしの不機嫌な返答に対して真剣な顔で頭を下げた。またびっくりして固まってしまう。
「ちょっと、頼む。一分でいいから、あ、できたら三十分、話聞いて」
わたしがその場を急いで逃げ出したのもまた、無理はないことだと思う。




