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第5話 ストーカーから守ってくれた


 楽観的な予想をしたのが悪かったのか。所謂フラグということなのだろうか。


 (また、見てる……)


 今度は、何処から見られているのか分からない。だけど、それでも分かる。

 春花のことを、誰かが見ているのだ。それも、つい最近から。


 ――たぶん、山田くんだろう。


 ちらり、と後ろを振り向くが、誰も居ない。油断せず、早足で、何度も迂回して、あのジェラート屋に寄って帰る。

 ピアスを幾つもつけた店員が恐いのか、ストーカー行為はそこで止むのだ。だがそれまではずっと視線が注がれているのを感じていた。


 「もう、やだ……」


 これも、警察に言ってはいけないの内に入るのだろうか? なら、両親にも友人にも言えない。誰にも助けを求められない。

 以前の妄想が嫌な実感となって擦り寄ってくる。


 (脅せば、山田くんは私になんでも出来る……)


 これまでそうしてこなかったのは、単なる気まぐれだったのだろうか。……少し、嬉しかったのに。

 スクールバックを抱き締めるように並木道を歩く。視線は途切れない。まだずっと着いてきているが、なんてことはない、またジェラート屋に――。


 そう思い、足を踏み入れた公園には、妹が居た。

 ジェラート屋の店員とお喋りをしている。暫く待ってみたが、動く気配はない。サッと青ざめて、春花は慌てて別の方向へ足を向ける。別の……そうだ、美優の家にでも。早く、早く早く早く!


 視線が近付いてくる。ねっとりした粘着質な、執着の感覚。心臓は早鐘のように鳴り、呼吸は荒くなって、それでも立ち止まらずに、走った。


 (やだ、やだ、やだ!! 山田くん、本当の本当に酷い人なの? 人を殺しても何とも思わないみたいに、私に酷いことしても、何とも思わないのっ!?)


 春花の中の山田くんは、普通の人だった。後からそれに、人を殺してもなんとも思わないを追加して、それ以外は普通の人になって、今は――今は、恐くて酷い人殺しになってしまっている。


 あの日――山田くんが人を殺すのを見た日――と同じように、春花は走った。前とは違って、公園の向こう側の、全く土地勘のない場所だったから、何処も彼処も同じに見えて、人の居る大通りの位置も分からない。


 息が上がって、太股が痛くなる。止まるわけには行かなかった。走って、走って、息を切らして、走って……。


 「……っは、ぁ、はあ、はぁ、はあ……! そんな、うそ」


 そこは、行き止まりだった。工事中を示すオレンジのフェンスが囲んでいて、何処にも逃げ場はない。

 ずっと着いてきていた足音は、余裕を感じさせる速度に変わった。彼はここが行き止まりだと知っているのだろう。こつりこつりとわざとらしい足取りで、ゆっくりと春花へと近付いてくる。


 「や、やだ……」


 こつ、かつん。


 「……ご、ごめん、なさい……!」


 こつり、こつん。


 「――ごめんなさい、山田くん……!! 言う事聞くから、お願い……ひどいこと、しないで!」


 うぐ、と無様な嗚咽が漏れかけて、口を抑える。涙が後から後から零れて、目の前がよく見えない。

 春花はそんな歪んだ視界の中、漸く気が付いた。


 (山田くんじゃ、ない?)


 そこに立つ男は山田くんよりも幾分か身長が高く、ふくよかな体型をしていた。ぶるぶると頬を痙攣させて、顔を憤怒に染めている。見覚えはなかった。


 「こ、この……ビッチが! 顔が綺麗だと、すぐ目を付けられる!! 俺以外の誰に尻尾振ったんだよ、このクソ女!!」


 ブツブツと上ずった声で何かを言いながら、男は近付いてくる。春花は後ずさるが、すぐに背に壁を感じた。

 動かしにくい指で、何かないのか、とポケットの中に手を入れる。そこには、あの日返しそびれた山田くんのハンカチが入っていた。


 (山田くんの時も、こんなのだったっけ……)


 いつも、いつだって、春花の不幸は恋愛と共にあった。


 何もしていないのに、いつも悪いのは春花だ。この男の人も、山田くんも。勝手に好きになって、勝手に理想を作って、勝手に想いを押し付けてくる。妹も、外野も、おもしろがって囃し立てて、春花を詰る。


 中身なんてどうでもいいのだ。大切なのは、自分の中の『霞坂春花』だけ。だから、春花がどう思うかなんて関係ない。嫌われようが、避けられようが、『霞坂春花』というお人形で遊びたいだけなのだ。


 「ひ、ひひっ、やっと、これで――」


 男の手が伸びる。強く目を閉じて、顔を逸らす。抵抗する勇気なんてなかった。全身を強張らせるだけが精一杯で、男はそんな春花に益々気を良くしたらしく、にったりと下品に笑った。


 「――俺のも、のぉッ!?」


 奇妙に言葉が途切れると同時、びちゃり、と液体が地面にぶちまけられる音がした。


 「ッギャアアアアアア!! ひっ、ぎ、うううああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


 次いで絶叫。春花は思わず伏せていた顔を上げ――男に何が起こったのかを目撃した。

 恐々とあげた目が捉えたのは、腹を抑えて絶叫する男。血液がじわじわと服を染め、腹と背中の方からボトボトと流血している。怪我をしているようだった。


 犯人の姿は見当たらない。血液を零す男はよたよたしながら壁に縋り付いている。自分の近くに寄ってきたように見えて、春花は小さく悲鳴を上げて、数歩後ずさった。


 そして、その背に壁ではない何かの感触を捉える。肩が跳ね上がり、呼吸が止まる。咄嗟に大声で叫びそうになった春花の口を、何者かが塞いだ。


 「ごめん、静かにしてくれるか? 見られると不味いんだ」


 聞き覚えのある、声だった。

 異様なほどに落ち着きはらった声。心拍数は平常で、手の温度はいつもと同じで暖かい。


 (山田、くん……?)


 じっと彼の目を見ると、すぐに逸らされてしまう。耳が少し赤くて、明らかに彼は照れていたが、それでも、後ろから抱きとめるような姿勢は、親密な者同士にしか許されない距離感を保ち続けていた。


 山田くんの心臓が、等間隔で鳴っている。些か以上に速いものだったが、他人の心音を聞いているうち、次第に春花の拍動はゆったりとしたものへと変わっていき、穏やかなテンポに戻っていった。


 山田くんはそれを察したのか、そっと春花から手を放すと、「しーっ」と唇の前に人差し指を持っていった。茶目っ気のある仕草だったが、空気をガラリと変え、彼の顔は険しいものになっていた。そして、足音もなく悶える男へと近付いていく。


 男はひいふうと呼吸をおかしくしながら、虚ろな目で地を見ている。出血量が多かったから、貧血にでもなっているのだろう。いかに強姦未遂犯といえど、殺すのは忍びないと思ったのか、山田くんは肩を貸して、男を路地の角へと立てかけた。


 どうやら、もう春花は安全になったらしい。ほっとして、がくがくと膝が笑うので、立って居られなくなってしまった。

 彼とは複雑な関係だったが、それでもこの安堵は本物だ。春花はへらり、と不器用な笑みを浮かべて、礼を言おうとした。


 「や、山田くん、助けてく――」


 ひゅうん、と風を切る音が、した。


 (……え?)


 ごろりと転がり落ちたのは、男の生首だった。血しぶきが飛び散るが、さっき角に頭を向けたせいで、山田くんには一滴もついていなかった。あの男性は山田くんを汚すという方法で一矢を報いることもなく、首を落とされたのだ。


 彼は、明らかに、不必要に、無為に――完膚なきまでに、殺されていた。


 春花はひっ、ひっ、と怪しい呼吸をなんとか繰り返しながら、なんとか酸素を吸う。気がおかしくなってしまいそうだった。


 彼の四十数年の人生の詰まった肉袋から、血液がどくどくと溢れる。自分の内にも流れる血潮が、男の形をした肉から、漏れて、垂れて、流れている。


 山田くんは、また春花の目前で人を殺した。

 それも、無抵抗で、彼にとって何の価値もないはずの人を。


 じゃあ、なんのために――誰のために、山田くんは人を殺した?


 おぞましい予想が頭を過ぎり、春花は無意識に弱弱しく首を横に振っていた。


 ――ああ、そんな、そんな……そんなことはありえない。ありえては、いけない。


 きっと、また仕事だったのだ。元より、彼は殺される予定の人間だった。だからといって、命が一つ潰れた事実は変わらないが、そう思いたかった。そうでなければ、嫌だった。

 じわじわとインクが染み入るように、心が冷たく侵食されていく。恐怖と困惑が複雑に混ざり合って、現実が嘘みたいに遠く見える。


 「霞坂さん、大丈夫? 怪我してないか……?」


 山田くんがおずおずと春花の肩に触れる。その手はやっぱり暖かくて、彼は心配そうに春花の濡れた目尻を撫でた。


 「た、立てるかな? 急かして悪いんだけど、移動しないと」


 雨も降ってきたし、『アレ』を見られると不味いからさ、と頬を掻いて、彼は平然と言った。


 春花はその時初めて、雨が降っていることに気づいた。山田くんに手を引かれながら路地を抜ける時、ふと振り返ると、あの男性の血液は、下水の流れる横溝へと、雨と混じり合いながら流れていた。


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