第4話 悪戯な風
屋上は涼しかった。太陽光は容赦なく肌を焼くが、その分雲で翳った時は心地良い。
髪を煽る風は少し鬱陶しいが、汗ばんだ体を撫でてくれる。耳に髪をかけ、春花は深呼吸してから山田くんへと目を合わせた。
「山田くん、用っていうのは――」
「霞坂さん、これは、そのッ……告白じゃ、ないから! 安心して!!」
顔を真っ赤にして、山田くんは食い気味に叫んだ。手の中の携帯は会話の途中であっただろうに、真っ暗になっていて、ギチギチと緊張していると思しき彼に握り締められていた。
「へ、へえ、そうなんだ……。うん、それで、用っていうのは……?」
「用!? そう、もちろん用があってのことだからな! 本当に下心とかないから!」
驚くほどにあからさまで、そういった駆け引きに心得のない春花でも、彼が何を考えているのか、何となくは分かってしまう。
「ゲッホ、ゴホンッ。ンンッ、よし、じゃあ早速本題に入らせてもらうぞ……じゃなくて、もらうね」
「う、うん」
言葉尻を柔らかくして、山田くんは頭を軽く掻いた。どうやら重大な話では無さそうで、春花はほっとする。寧ろ、春花から話しかけた時よりも、彼は自然体だった。
「――隠密担当の……俺の相棒からさ、釘刺されちゃって。大丈夫だって言ってんのに、アイツ何回も煩くってさあ。心配なんてないのに。な? 霞坂さん、誰にも昨日のこと言ってないよな?」
数学の小テストのこと忘れててさ、困っちゃうよ――みたいな顔で、山田くんは首を傾げた。
まさか、あの霞坂春花が約束を破ることはあるまい、という盲信の下に、彼は無垢な目で春花を見ていた。
「……っ、うん、だれにも……言って、ない、よ」
背筋が凍りつき、春花の動きはぎこちなくなった。笑み一つ作るのにも苦労する有様だったが、山田くんは数度我が意を得たり、と頷くのに夢中で、気がついていないようだった。
「ウチは警察とも連携取ってるんだけどさ、ご先祖様的な縁で。最近は権力争いがどーとかで、よくしょっ引かれかけんの。前も一回危ない目に遭ってサクラも警戒してるみたいなんだ――あ、サクラっていうのは、俺の相棒の女で、ッあ、でも、別に恋人とかそういうんじゃ、ないから! ええと、なんていうか、幼馴染? 的な、なんかそういう感じの……」
臆病者の慎重さが、春花の命を救ったらしい。警察なんぞに言っていたら、どうなっていたのだろうか?
どっどっと煩い心臓を抑えるために胸下で握った手の頼りなさときたら。この手は何処にすがり付けば良いのだろう。親、友人、教師、みんなただの一般人で、一メートルを越える金属棒――日本刀を、目で終えない速度で振り回し、首を一閃する人間に、誰が対抗できるだろう。
「――あ、そうだ、霞坂さん!」
「っひゃ……! っえ、ええと、なん、です、か……?」
「(何で敬語?)いや、この間気持ち悪いもの見せちゃったから、お詫びで……その……」
ポケットに突っ込んだ彼の手が、何かを掴む動きをする。数秒、ビクビクしながら待っていると、彼が取り出したのは――。
「……と、図書カード? え?」
「うん、現金は流石にな……と思って」
(え? 図書カード? なんで?)
詫びの品としてはオーソドックスだが、それにしても、なんというか。え? このタイミングで? 血まみれの惨劇を見せたお詫びの品として、それは本当に、適格なのだろうか?
呆けて警戒も忘れて図書カードを受け取ったら、その際に山田くんの手に指が軽く触れた。すると、彼は体をビシリと固めて、みるみる顔を赤くする。
(やっぱりこの人は、私のことが好き……なの、かな)
五千円の価値があるカードは、死体を見た春花の精神的ダメージには全く釣り合っていなかったが、それを言うなら、殺人を目撃した春花を生かす、という山田くんのリスクにも釣り合っていない。
(山田くんは、私を脅して何でも命令出来るのに)
それこそ、キスしろ、とか、裸になれ、とか……もっと、何でも出来る。殺すと脅せば、何なら足でも切り落とせば、何だって出来てしまうのだ。
リスクの分だけのメリットが、彼にはない。単に春花にそういう価値がないのかもしれないけれど、それでも、今彼には、何かしらの利益が必ずあるはずだった。
(だってこの人は、あんなにどうでもよさそうに人を殺してた)
無感動なあの目を忘れられない。人殺しを何とも思っていない、命乞いなんて聞こえていないみたいな冷たい目だった。
そんな彼が春花のことを殺さなかったのは、何のためなのだろうか。
相手に想いを押し付けたりしない、噂を立てるのではない、無理矢理迫る訳でもない。
――それが、彼の『恋』の形?
だとしたらそれはなんて、やさしくて、柔らかくて、夢みたいな――。
「山田くん。……山田くんは――」
衝動に駆られ、春花が口を開いたまさにその時、強風が吹いた。
髪が風にかき混ぜられる。びゅう、と木の葉が飛ばされていくのが視界の端に映った。
乱れる髪の隙間から、アスファルトと、青空と、それから、耳まで真っ赤になって目を見開いた山田くんが見え――。
……今、スカートにやけに開放感があったような――まさか、スカートが、捲くれて……?
「……へ?」
「い、いやそのあの、今のは、えっと、なんていうか――」
もごもごと何かを言おうとして、諦めたのか、山田くんは黙りこくった。それから鼻を抑えて上を見上げた。
「……見たの?」
「いや……」
「見たんだ?」
「……うん」
「――っ、や、山田くんが悪いんだよ、屋上とか、言うから。いっつも履いてる体育ズボン、友達に貸しちゃったのに、大事な話かなって、思ったから来たんだよ」
「ごめん……」
自分の顔も真っ赤になっているのが分かる。顔から火が出そうだ。こんなに風が強いのだから、推して然るべきだったかもしれないが、命の懸かった呼び出しだったのだから、行くしかないじゃないか。
羞恥と怒りが混ぜこぜになって、春花は戦慄く唇をはくはくと動かした。
「酷い……。山田くん、私に死体も、こっ、殺すとこも見せて……しかも、私の下着を見るなんて」
支離滅裂な言葉が溢れていく。さっきまで凍えていた体は、興奮状態のせいですっかり温かくなっていた。
「ううう……ううううう……。ひ、酷い、さいてー。なんで……うう、やだ……」
昨日の、誰にも吐き出せなかった感情の行き先は、全部山田くんによって防がれてしまった。恐かったのに、助けて欲しかったのに、慰めて、抱き締めて欲しかったのに。大丈夫だよ、って言って欲しかった、のに。
誰にも、言えなくなってしまったのだ。
恐いとか、殺さないで、とか。言うべきではない言葉が出そうになる。言ったら、彼が急に化け物になってしまう気がする、呪文の言葉。
それを何とか変形させて、山田くんにぶつける。だって、山田くんのせいなのだから。全部、全部全部彼のせいなのだから!
「なんで、なんで酷いことするの。私なんにもしてないのに……! むり、さいてい! さいあく……っ! や、山田くんなんて――嫌い!!」
山田くんは顔を青くして、「ごめん」とだけ言った。
■■■
一日、三日、五日……一週間。
それだけ経っても、何もない。命の危機も、山田くんから話しかけられることもなくなった。彼からの視線はまだあるけれど、途切れがちになり、偶然にでも目が合うと酷く気まずそうな顔で逸らされる。
一番ハッピーエンドに近い終わり方だった。気になる視線もなくなって、美優に言い訳するのは骨が折れたけれど、
「……ちょっと相談されただけだよ」
「何の相談だったら屋上で二人っきりになる必要があるの?」
「いやほんとにただの話し合いだったから!」
「の、割には山田大分ダメージ受けてるけど? そもそもアンタら知り合いだっけ? 完全にアイツの片想いだったように見え……」
「――っ! この話お終い! はい、明日一緒に遊びに行く話しよ!? ね!?」
なんとか交わすことが出来た。
ベッドに寝転がって、携帯を見る。クラスメイト全員の名前の載ったSNSアプリには、当然彼の名前もある訳で。
「……私のことを、好きだった人」
聞いてみたいことが、あった気がする。あの日屋上で、春花は彼に、どうしても聞きたい事が――。
「もう、無理だけど」
ぱたん、と持ち上げていた腕を下ろし、横になる。明日も学校だ。妹とは別々に登校して、美優に会って、授業を受けて、下校して……。
少し前までの春花と全く同じ生活だ。胸のうちに、誰にも言えない大きな秘密がどっしりと居座っている。ただそれだけだ。山田くんにしか言えないそれも、もう日の目を見ることはないだろう。
(このまま……いつか、小さくなって……きえる、まで……)
目を閉じて、夢に落ちて行く。
噂だって、七十五日で収まった。彼の恋という名の熱病だって、きっとすぐに冷めてくれるだろう。
だって、春花は彼とは全くの別世界に生きる人間なのだから。