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第3話 屋上への呼び出し

 ――彼の手は、暖かかった。緊張で冷え切った、春花のものとは違って。


 やがてその指は、頬の同じ場所で数度往復する。その衝撃で、元より目に溜まっていた涙がぽろりと一滴落ちた。

 それを呼び水にしてか、驚愕と混乱で押さえ込まれていた恐怖が突如ぶわりと湧き起こる。消化しきれていなかった悲しみと、山田くんへの怯えによって、ついに春花は泣き出してしまった。


 「ひ、っ……ウゥ、っううう……」


 「……!? っ!? わ、わ、すまん! 勝手に触ってごめん、でも、汚れが――あ! そ、そそそうだ、これ! これ、良かったら使ってくれ!」


 手をパタパタとした後、山田くんはポケットから清潔なハンカチを取り出したが、春花はそれを受け取らない。彼は困ったように春花の隣にしゃがむと、遠慮がちに、だけど繊細な手つきで春花の顔にかかった髪を耳にかけ、そっと表情を伺った。


 「霞坂さん、だ、大丈夫?」


 「っ……ひ、っく」


 恐怖と嗚咽で震える喉では声が出せず、春花は首を振って応える。山田くんは少し考え込むと、ハンカチを持ち直し、春花の目元に優しく宛がった。


 「霞坂さん、大丈夫だよ。俺は霞坂さんのこと、き、傷つけたりとか、しないから……」


 山田くんは、少しどもりながらも微笑んでいた。

 涙を掬い上げる手は優しく、春花の頬にあるという『汚れ』を取る手つきも、まるで壊れ物に触れるようだ。


 ――春花は、茫然とした。


 放心して、成されるがままに身を任せる春花の涙を拭いながら、山田くんは如何にも照れくさそうに、恥ずかしげに――頬を、染めていたのだ。


 (この人、ほん、とうに……私のことが、好きなんだ……)


 場違いにも、春花はその時初めて――山田くんが自分を好きなことを確信したのだった。




 ――もう遅いから、帰った方がいいんじゃないか? 俺も、送れるならそうしたいんだけど、その、『コレ』を何とかしないとだから……。


 山田くんはそう言うと、あっさりと春花を解放した。


 まさか人殺しの現場を見た春花を逃がすなんて、と不気味に思ったくらいだったが、拍子抜けなことに本当に何もされなかった。

 精々が、「このこと、誰にも言わないで欲しいんだ。約束して欲しい。俺の素性が広がったら、色んな人に狙われて困るし、霞坂さんも危なくなるから」と心底心配そうに言われたくらいである。脅しといえば脅しなのだろうが、彼にはそんな意図は無さそうだった。


 (脅されなくたって、誰にもあんなこと、言えないけど……)


 警察? 両親? 誰に何と説明すればいいのだ。『下校途中に同級生の男の子が日本刀を持って、人を殺していました』などと、冗談にしても三流過ぎる真実を、もっともらしく伝えることなんて春花には出来ない。


 部屋に篭って震えている春花本人でさえ、夢でも見たのかもしれないと思うほどの出来事だ。映画とか、ドラマとかのセットだったりしたのかもしれない、なんて滑稽な妄想をしたり――これは現実逃避なのだろうけれど。


 だって、春花はもう知っている。

 人の首の断面の色も、頭が地面に落っこちる音も、致死量の血の臭いだって。


 「おはよう、春花!」


 「おはよう、美優」


 美優も、他のクラスメイトも、親も、医者だって知らないかもしれないことを、春花と山田くんだけは、知っている。


 美優はいつものように春花に話を振る。春花はそれに応え、いつも通りに妹の居ない並木道を通り、教室へと向かう。


 (――でも、普通に学校に来るのはなんか、流石に間違えてる気が……!)


 春花の家は共働きだから、学校を休むと家に一人で居る事になる。一人で静かな家に居たら、誰かが春花を口封じに殺しに来るんじゃないか、という恐怖に耐えられそうもなかったのだ。


 しかし、確かにそちらも怖いが、山田くんも登校しているだろう場所に向かうなんて、少し間抜けというか、迂闊すぎる気もしてきた。びくびくしながら教室の扉を開ける。どうか休んでいて欲しいと願った。


 だって、人を殺した次の日に学校に登校とか――


 「お、おはよ……霞坂、さん」


 ――しないだろう、普通は……。


 山田くんは普通じゃないので、学校へ登校していた。


 春花は真っ青になって、鞄を握り締めて俯く。掌にじっとりと汗をかいて、体を硬直させた。尋常でない春花の様子に美優は訝って、何かしら声をかけようとする。


 それを遮って、いつもより何だか清潔な格好をした山田くんは――意味は違えど――春花と同じぐらいの量の汗をかきながら大き目の声で言った。


 「霞坂さん――お昼休みに、屋上に来て欲しい!」


 春花は今にも泣きそうなぐらいに涙ぐんで、震えながら「はい……」と頷いた。




 教室は喧騒に満ちている。春花は暗い面持ちで弁当箱を片付け、席を立った。


 「山田やるよなー! あの霞坂さんが、ご一考の余地を見せたぞ! 告白っぽいお誘いは全部断る霞坂さんが!」


 「いや、あれは芝原美優コーチの教えの賜物だろ。てかさ、何か顔色悪くね?」


 「コーチは笑うっての。分かる分かる。なんか朝も泣きそうになってなかったか?」


 「え……山田マジで何したんだよ。ヤバくね?」


 教室内では朝の出来事が息を吹き返して大騒ぎしていた。授業中も、いつもよりヒソヒソ話が多かった気がする。

 だが春花にはどうしようもない。今日が命日かもしれないのに、今後の噂なんて気にしていられなかった。一日中、ずっと山田くんのことを考えていた。まるで春花の方が山田くんのことを好きみたいに。


 (どうすれば、殺されないで済むのかなあ)


 美優に頼りたいくらいだった。いつもみたいに、どうすればいいのか教えて欲しかった。もちろん、実際にそうする訳にはいかないが。物言いたげな美優を微笑みで制し、春花は沈黙を守った。


 「ねえ、春花……まさか、本気で行くの?」


 「……うん」


 ぎゅっと手を握り締めて、教室の出口へ向かう。美優は慌てて春花の腕を掴み、心配そうに言い募った。


 「一日見てたんだけど、春花は別に山田のこと好きじゃないよね? なのに何で? 私言ったよね、分かってるの?」


 このままじゃ、山田のこと好きだと誤解されるよ、と囁くように美優は言った。当然だ。何度も教えてもらったし、入学して即日で春花はその説の信憑性を身を持って理解していた。


 「うん……大丈夫だから、気にしないで?」


 美優は明らかに納得していない顔をしていたが、春花の意思の固さを知って、諦めたように身を引いた。絶対面倒くさいことになるからね、とわざとらしく頬を膨らませて、今日は作戦会議だと、カラオケへ行こうと手を握ってくれた。


 ――本当は、全然大丈夫じゃなかった。ここで泣き喚いて、錯乱していると思われてもいいから警察に、「助けて!」と駆け込みたかった。


 だけど、そうするには勇気が足りない。


 (逆らったら、どうなるんだろう……)


 なんだかはっきりしない足取りで、一歩一歩前へ進む。屋上への階段がこんなに短く感じるのは初めてだった。


 (生きたければ言うことを聞け、とか脅されるのかな……)


 ぎゅ、と握ったノブを捻る決心が出来ない。そのまま立ち止まって、背中に嫌な汗が伝うのを感じていた。

 どれほどそうしていただろうか。ふと、ドアの向こうから話し声が聞こえることに気づく。どうやら、もう山田くんは着いているらしい。


 「やっちまった、やっちまった! こ、告白だと思われてたら、どうしよう? お、おいサクラ、お前のせいだぞ、霞坂さんは約束破ったりしないって、あんだけ言ったのに!」


 数秒の間を空けて、また声が聞こえる。どうやら通話中のようだった。


 「だ、だって仕方ないだろ、テンパってたんだよ。相手はあの霞坂さんだぞ? 俺なんかと喋ってくれるとか、ありえないぐらいだ。あんな汚れまくった姿見られて、恥ずかしくて死ぬかと思った!!」


 (意味分かんない……)


 死ぬかと思ったのは春花の方である。今だってこんなに怯えているというのに、彼は何を気にしているのかと思えば、春花に恋情を知られることが恐いのだと言い出す。


 虚脱感と呆れが同時にやっきて、春花はドアノブを捻り、思いの外軽かった扉を開く。吹き込んでくる風に逆らって進み、背後で扉の閉じる音を聞いた。


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