第2話 偶然の出会い
下校途中、茶色いチェックのスカートが並木道へと入り込んでくるのを見て、慌てて反転する。
妹の通う私立高校の制服だった。妹とは近頃ピリピリしていて、登校は同じ道を使うというのに、一緒に出発さえしていない有様だった。
(どうしよう。学校に戻って、本でも読もうかな……それとも、遠回りして帰ろうかな)
春花の通う学校は授業時間が少し長く、妹の高校とこうやって下校時間が被るのは稀だった。どうしたものか、と考え込んで、この近くに桜で有名な公園があることを思い出し、そちらへと足を向ける。
桜が咲いている時期は、毎日観光やお花見の客でいっぱいだったが、今はもう六月中旬だ。緑の葉を茂らせた木が沢山の無人の木陰を作ってくれていることだろう。それに、確かあの公園にはジェラートの移動販売車があったはずだ。
――妹と一緒に中学校に通っていた頃は、よく下校途中で食べに行ったものだった。
「……なんか、久しぶりだな」
太陽を浴びながら歩き続けたせいで、頬を汗が伝う。パタパタと制服の胸元を仰ぎ、憂鬱な気分と共に、熱気を逃がした。
ジェラート屋は今は抹茶フェア中らしい。以前はカプチーノフェア、その前はチョコレートフェアだったらしく、三つのフレーバーのうち、二つは斜線が引かれていた。
「抹茶味を一つ、お願いします」
「はいよ」
耳にピアスを八つほど空けた店員さんが、可愛いロゴの入ったカップを渡してくれる。受け取って一匙掬うと、すっきりした優しくて冷たい甘みが広がった。
暫くベンチに座ってジェラートを食べていると、公園の入り口に新しく二人の人影が見えた。何とはなしにそちらを見ていると、その内の一人がこちらへと体を向けたようだった。
その顔を見た瞬間、体が凍りついた。
なんとそこに立っていたのは――妹だった。
緊張で体が強張る。慌ててジェラートを掬い上げ、残った分を一息に飲み込む。かなり喉が苦しいが、急いで、早く、目が合わない内に……。
「お姉ちゃん」
「あ――」
見つかって、しまった。
俯きがちに様子を伺うと、妹はそれにさえ気に食わないのか、思い切り顔を歪めた。
「なに? それ」
「こ、これ? これは、あのお店のジェラートだよ。ほら、中学の時、よく一緒に行った……」
「ふうん――今度はあの店員さんのこと狙ってるんだ」
「――! そんなこと、ない!! た、たまたま、久しぶりに寄っただけ。……わ、私、もう帰るから、じゃあね。もう夕方だし、気をつけて、ね……」
早足で公園を抜ける。振り返らず角まで来たら、一息に走り出した。吐く息が熱い。何故だか叫びたくなって、滲みかけた涙を乱暴に拭う。
(……どうして!? なんで、咲季までそんなこと言うの?)
姉妹なんだから、顔なんてそっくりだ。妹だって、十分にモテているし、なんなら初恋もまだな春花より、恋愛経験は豊富なはずだった。
さっきだって、彼女の隣には同じ高校の制服を着た男子生徒が立っていた。あれはきっと彼氏だろう。放課後、たまに見える彼女の周囲はいつだって友人がいて、自分のように虐められかけることもなく、楽しく過ごせているに違いなかった。
だというのに、何故、彼女まで春花をそうやって責めるのだ。
『噂立つくらいなんだし、何かしたんじゃないの?』『二人同時とかヤバ』『気を持たせといて、知りませんって何なんだよ』
――まるで、春花が悪いみたいに。
春花は何もしていない。美優から聞いて、身の振り方を多少覚えた今は、”何もしなかった”ことこそが罪であり、拒絶が必要だったことは理解したが、だけど、何も悪いことなどしていなかったというのに。
息が切れる。それでも必死で、何処とも知れぬ細い路地を駆け回る。少しでも人の声が聞こえれば方向を変えた。惨めな自分を見られないように。
(山田くんのこと……咲季にバレたら何を言われるんだろう)
今はまだ、美優にしか相談していないし、山田くんの視線には自分しか気づいていないようだった。
例え、彼の視線が嫌悪や純粋な興味などの、恋愛感情以外のものに由来していても、噂なんて好き放題、嘘塗れで広がるのはもう知っていた。あの時みたいに他校にまで広がったりしたら、どうすればいいのだろう。
――いっそ、山田くんが本当に、私に恋をしていれば……。
仄暗い願望が突然に芽生えて、春花は動揺する。
だけど――告白されたなら、断ってしまえばお終いに出来るのだ。
きっと次の日にはそれも噂となっているだろうけれど、それでも視線に怯え続けるよりはマシだ。ああ、そうなればいいのに。そうすれば、楽なのに。
自分が途方もなく汚いものになった気がして、激しい自己嫌悪に苛まれる。他人の思いを利用するなんて、何様なのだろう。それこそ、”何もしない”よりもよっぽどの罪だ。
目の淵にじわじわと涙が溜まっていく。堪えることが出来ず、いよいよ零れそうになって、また目を擦る――と、その時。
ドン、と何かにぶつかった。人の体だ。春花がビルの壁に沿って曲がった時、丁度そこには誰かが居たらしかった。
「っ、すみませ――」
声は止まり、思わず眉根を寄せる。そこに居たのは、何の巡り会わせか、例の視線の主である山田くんだったのだ。
一方的な悪感情に、ほんの少し胸がかき回されたが、それでも謝ろうと、尻餅を着いたまま彼を見上げる。酷く驚いていたらしい彼は、ポカンと開いた口もそのままに、殆ど反射のように手を貸してくれた。
「あ、え……? 霞坂さん!? だ、大丈夫!?」
「うん、大丈夫。ごめんね、ぶつかっちゃって。……ところで――」
こんな所で、何をしてるの?
間を持たせるために、適当に口から放たれかけた言葉は、自身のひっと息を呑む音に阻まれた。
真っ赤だったのだ。彼は。
山田くんの全身は赤い液体に濡れていて、彼のシャツもジーンズも、ポタポタと赤い滴を――それは鉄錆びの匂いを強烈に放っていた――おそらく、血を垂らしながら、そこへ立っていた。
「――っおい!! そ、そそそこのきみ、た、たのむ! たすけてくれ、しにたくない!!」
震える男性の声が、路地の奥から聞こえる。暗闇に目を凝らすと、そこには山田くんと同じく血に塗れた中年の男性が座り込んでいた。
彼の傍らには、革靴を履いた足が転がっている。我知らず、そのつま先を追って、太股、腹、胸……と引っ張られるように首が動いたが、それ以上は山田くんの体で上手く見えない。
見えないけれど、見なくてもなんとなく、分かってしまった。ぷうんと広がる血の臭いの発生源は、その人――いや、ソレ以外にはありえないだろう。
「たのむ、たすけてくれ!! しにたくないいい!! 死にたくないんだ!! しにたくッ、」
ひゅん、と空を切る音がしたかと思うと、春花の真ん前で、男性の首がずるりとズレて、ごとりと地面へと落ちた。
「ウッワ、最悪だ……よりによって、霞坂さんにこんな姿見られるとか……」
山田くんは、小声でそう言った……と思う。聞こえた言葉を何度も反芻するが、余りに状況にそぐわないので、混乱した春花では、意味を理解出来なかったのだ。何かを聞き間違えたのかもしれなかった。
(な、なに? なんで、なんで? うそでしょ、死んじゃったの……? ころされた? 山田くんが、人を殺した?)
頭が真っ白になっていて、上手く考えが纏まらない。何もかもがよく分からなかった。
白昼夢はいつまで経っても終わらず、男性の必死の命乞いや、最期の瞬間まで自分を見ていた彼の瞳から、突然生気が消える瞬間が、脳に焼きついて消えない。
春花は自分が見たものが信じられなかった。というよりも、自分が幻を見たのだと思いたかった。
だが、転がった男性の断面から流れた血が自身の足元にまで迫ってくるのと同じくらいの速度で、思考は漸く現実に追いつき始める。
何もかもが許容の範囲外だった。同じ学校で、同じ場所で、同じ授業を受けていた――そして、自分のことを、もしかすると、好きかもしれない男の子。それが、山田くんではなかったのだろうか?
ここに居るのは誰なのだろう。日本刀を持ち、躊躇いもなく、さっきまで確かに話していた人間を肉の塊に変えて、あまつさえ微塵の動揺さえしないこの人は。
山田くんは壁に向き合い、暫時鬱々としていたが、くるりと此方を向くと、視線をあちこち泳がせた後、気まずそうに春花と目を合わせた。
そして、つい先刻まで生きていた人間の返り血塗れの中、唯一無事な右手を春花へと伸ばし、柔らかな少女の頬へと、その親指の腹を滑らせた。