夕飯と蜜柑
レアがグレゴリアン女学校に編入して、早くも一週間が過ぎた。
そして、この日も、夕方。一日が終わろうとしていた。
夕暮れにたなびくのは白い煙。
校舎の側面の一つに屋根だけが突き出している所があって、その下は料理場となっていた。煙はそこから。
竈とテーブルと数個の丸太椅子。そのセットがいくつかあって、生徒たちは思い思いのグループに分かれて自炊するのだった。
どの竈にも不思議な青い炎が揺れている。
その一つで、鼻歌まじりに鍋をかきまわしているのは、ルツだった。
どうやら献立はシチューらしい。
そして、横のテーブルではレアがテーブルに突っ伏している。ため息。ルツがそれに気づく。
「らしくないね。ため息なんて。レアは明るく精一杯生きるのがモットーなんでしょ?」
「そりゃさ、そうなんだけどさ、ため息の一つくらいつきたくもなるよ」
「分かってる。エリ先生、レアにつきっきりだもんね。何とかレアの業を見つけようとして。過去の月守の業を手当たり次第、試してるんだっけ?」
「そう!何百人分もっ!はあ~……私もね、頑張ってる方だと思うんだ。だけど、頑張ってるだけではどうにもならないのが現実なんだ」
レアは肩にかけているポーチから握りこぶし大のエメラルドを取り出した。
手のひらの中でころころと転がす。
ルツはそんな様子を心配そうに見ながら、言う。
「ゴキって言うんだっけ。その五月の月姫」
「うん……。こうやって肌身離さず持っていれば、もしかして、何かのきっかけでまた光りだすかもって期待しちゃったりなんかして……。あははは、そう都合よくいくわけないよね」
「レア……」
レアはテーブルに頬をのせたまま、あちらを見た。
そこではラケルが真顔を崩すことなく薪割りをしていた。ただし、素手で。
「ラケルはすごいよ。あんなちゃんとした才能があるんだもん。それから、ルツも。ルツは勉強もできて、運動もできて、料理もできて、もう完璧じゃん!それに比べて私は……はあ~……」
「あまり己と人とを比べるものではないぞ」
レアの腕の中からひょっこりとキュウビが顔を出した。
「それに、レア、そなたにはそなたにしか出来ぬ珠玉の業があるではないか」
「ほんとうですかっ!キュウビ様!それは一体――」
「ん。そなたはこの妾が認めた耳掻きの名手だ。ほれ、今日も耳のうらっかわを掻いてはくれんか?」
「キュウビ様~っ」
そう言いながらも、レアは膝上でくるんと丸くなったキュウビの耳裏を掻いてあげる。すぐにすやすやと寝息が聞こえてくる。
「くすくす。レアってば、本当にキュウビに懐かれてるよね」
「まあ、嬉しいことは嬉しいんだけどね。もふもふ気持ちいいし……。ねえ、ルツ。ルツに聞きたいことがあるんだけどさ、聞いていい?」
「うん?なあに?」
「その……ルツも月守になりたかった?グレゴリアン女学校って、月守を選ぶために四が里全体から女の子が集められるんだよね。だから、みんな、私なんかよりもすっごい優秀。それなのに、私が五月の月守になって、九月はラケル。エリ先生は詳しくは教えてくれないけど、六月の月守もいるらしいじゃん?もう月守にはなれないけど、ルツはそれでもいいのかな~って。正直、ちょっと恐縮しちゃうわけです、はい」
ルツはレアに優しく微笑む。
「レアって図太い性格の割にはけっこう繊細だよね」
「図太い性格の割にはって何?!これでも、私は、悩み多い乙女なんです~っ!」
「ふふ。レア。あのね、気にする必要ないと思うよ。ここにいる子たちって、私も含めて、最初から月守になってやるなんて思ってないから」
「えっ!そうなのっ!」
「グレゴリアン女学校って四が里で唯一の学校で、ここを卒業したってだけで、何ていうか、折り紙つきになれるの。結婚の時に有利に働いて、素敵な旦那さんがもらえて、素敵な家庭を築ける――そういうのを、みんな、夢見てるんじゃないかな」
「うわっは!動機が不純っ!じゃあ、ルツも?」
「そりゃそうだよ。短い人生で素敵な旦那さんを見つけるのって大変なんだから」
「いやいや、ルツなら大丈夫!どんな男の人もルツのことを絶対にほっとかないよっ!」
「ありがとう。……でもね、最近、ラケルが少しうらやましい。月守のラケルはレアとずっと一緒にいられるんだって思うと……」
「……ルツ?」
「な~んでもっ!それより、人の心配をしてる場合?レアの方こそ、これから大変なんだよ。ちゃんと分かってる?」
「私?何が?」
「やっぱり……。月守であることと結婚して家庭をもつこと――この二つを両立させるのってかなり難しいって聞くよ。中には良縁に恵まれなかった例も少なくないんだって」
「あれ?月守って簡単にやめられるんじゃないの?」
「バッカ!そんなわけないじゃないっ!いい?月姫との契約って生涯効力を持つんだよ?それくらい、月姫に仕えて神に業を奉納する月守というお仕事は尊くて、なかなか換えがきかないの。それなのに簡単にやめられるって……あー、ほんと、レアのことが心配になってきた」
「え……だけど、エリ先生が、お母さんは〈大喪失〉の後に月守をやめたって……それでお母さんとお父さんは結婚して……」
考え込むレア。そこに人影が近づいてくる。
さっきまであちらで薪割りをしていたラケルだった。
後ろには二人の生徒の姿も。
「レア。少しいい?彼女たちがキュウビに竈の火を追加してもらいたいって」
「あ、私は全然いいけど……ごめんね、キュウビ様は今こんな状態なんだ」
レアの魔法の手にかかったキュウビは、彼女の膝上で小さく丸まって、九つのうち一つのしっぽを口にくわえて、むにゃむにゃしていた。
ラケルは真顔でひょいとキュウビを持ち上げる。
そして、料理場から校庭に出ると、キュウビを高い高いした。いや、正確に言おう、彼女は真上にキュウビを投げたのである。
はるか上、校舎の二階よりもさらに高くで、ぱちくりと起きたキュウビは、突然の空中に手足をばたつかせる。落ちてくる。
しかし、ラケルはというと、手を差し伸ばしもせず、ただ突っ立ったまま。
キュウビは地面に直撃するすれすれで、体をひねって、しっぽをクッションにした。
それでも、ズシャーっと地面に派手にすっころんだ。
キュウビはすぐさま走り寄ってくると、砂埃だらけの顔をラケルに近づける。
「ラケルっ!毎度毎度毎度毎度!そなたは――ッ!もし、妾が気高く知恵深き月姫でないならば、ぺしゃんこにひっしゃげて死んでおったぞ!」
「うん。でも、キュウビは月姫。だから、やった」
「~~~っ!確信犯か!なおのこと、タチが悪い!……はあ。で、何用だ?」
ラケルはレアに話したことを繰り返す。
「奉納いる?」
「いらん。これしきのことで無用だ。まったく、世話のかける小娘どもだ」
二人の生徒と一緒にキュウビは向こうの竈へ行き、しっぽを逆立てさせた。すると、次の瞬間、しっぽの先から青い炎が生まれ、それは竈の中に落ちた。
周りの女子生徒からの拍手。
そして、そのお礼としてもらったパンをカシカシと齧りだす。それを幸いと、生徒たちはもさもさの彼女の青い髪や耳をさわったりなでたり……
さながら、愛玩動物のよう。
その様子を見ていたラケルはルツに声かをかけられて、テーブルに、レアの真向かいの丸太椅子に座った。
ルツが最後の仕上げにかき混ぜようとしたお玉は横から伸びた長い腕に奪い去られた。
「少し失礼」
それはエリだった。
お玉に口をつけた彼女のことをレアが指さす。
「あ~っ!つまみ食い!いけないんだ!」
「これはつまみ食いではない。味見だ」
「どっちだって同じですよ!働かざる者は食うべからずって言葉を知らないんですか、エリ先生!」
「お前が言えた口か。私は見ていたぞ。全てをルツに任せきりで、レア、お前は手伝いさえしなかったことをな」
「うぐっ……それは、だって……ルツに作ってもらった方が美味しくできるから」
「ならば、私も同じだ。私が作ると必ず決まって食あたりを起こす者が出る。以来、死人が出る前に私は料理から足を洗ったのだ」
「いや、そんなこと、そう堂々と言われましても……」
「ルツ、これを二人分もらってもいいか?」
了承をもらったエリは小脇に抱えていた木箱を下におろした。
中から器を二つ取り出すと、なみなみに、シチューで満たした。
「礼にこれをやろう。お前たちで食べるなり、皆で分けて食べるなり、好きに活用しろ」
そう言い残してエリは料理場から出て校舎の方へと向かっていった。
その背中にレアはあっかんべえと舌を出す。
「エリ先生って必ず二人前をどこかの竈から強奪していくよね。食いしん坊すぎだよ、もうっ……。あ、ねえ、それって何だった?」
レアはエリが置き残した木箱の中をのぞき込んだ。
そこにあったのは、両手で数え切れないほどの蜜柑の山。完全な黄色ではなく、所々、緑がかっている。
「うわっは!みかんじゃん!みかんって作ってる人が少ないから、なかなか、お目にかかれない代物だよ!こんなにもらってもいいのっ!」
ルツが曖昧にうなずいて、「うん……でも、あまり期待しない方がいいかも。エリ先生のもってくる蜜柑って、学校の裏山になってる野生のやつだから、かなり酸っぱいの。たまに、一個くらい当たりがあるにはあるんだけど。どうしようっかな……みんな、いらないと思うし、ジャムにでも……」
「あ!待って、待って!ここは私に任せてもらっちゃってもいいでしょうか?」
いぶかしがるルツを尻目に、レアは鼻の先に人差し指をあてた。
それから、その指を蜜柑の山の上でふらふらとさまよわせると、一個をまっすぐつかみ取った。
「君に決めたっ!はい、ルツ、美味しいみかんだよ」
「はいって……なんでそんなことが分かるの?」
「私ってば、こういうの必ず当たっちゃうんだよね~。いらないの?じゃあ、私からも~らいっ。……ん~っ、あまくて、おいしい~っ!ほらほら、ルツも食べてみなよ。おいしいからさ。はい、あーん」
「レアがそこまで言うなら……あーん……。……うそ、おいしい」
「でしょ!」
レアはその様子を真顔でじっと見つめているラケルに気づいた。
「はい、ラケルにもおすそ分け。あーん、して」
「……私はいい」
「そんな遠慮しないで、はい、あーん」
「いい。いらないって」
「もらっておくが良かろう。そなたの顔のためにもな」
キュウビは口についたパンくずをペロッとしながら、やって来た。
不敵ににやりとする。
「妾はよ~く知っておるぞ。そなたがその表情に乏しい顔に悩んでいるのを。そして、誰も彼もが寝静まった夜遅くに、鏡の前で、顔面マッサージなるものを試み、口や目をこ~んなに曲げておるのを。くっくっ。いやはや、そなたも年頃だのぅ。気高く知恵深き妾の知るところでは、なんでも、蜜柑には肌の色つやをよくする効能が――って、おい!何をする!やめっ!す……すまん、妾が悪かった。ちょいといつもの腹いせに、ほんの出来心で――あぁああああああ、しっぽがちぎれるぅううぅううううう!」
ラケルはキュウビのしっぽを鷲づかみにすると、校庭に出て、ぶんぶんと、ぐるんぐるんと回したあげく、パッと手放した。
ものすごい速さで校庭の上をすっ飛んでいくキュウビに背を向けて、ラケルは自分の椅子に戻ってきた。
うつむく彼女の顔は真顔だが、頬は羞恥に赤く染まっていた。
そんなラケルにレアは抱きついた。
「ラケルってば、かわい~いっ!」
「……可愛くない」
「え~っ、かわいいじゃん!ほら、ルツも来なよ!」
「それじゃあ、お邪魔して――えいっ!」
「ん、重い……二人とも離れて」
「だ~めっ、ラケルがこれを食べてくれるまで離れてあげな~いっ!はい、あーんして」
ラケルは観念したのか、あーんと蜜柑を一粒ほおばった。
やはり予想外の美味しさらしく、目を丸くした彼女の口からは自然と笑みがこぼれる。
ほんの僅かであったが、それを見た二人の表情は――ここに書くまでもない。
こうして彼女たちの夜は更けていく。