来襲
レアはしばらく呆然としていた。
それから、のろのろと立ち上がって、くしゃくしゃになった母親の手紙を拾い、手のひらで丁寧にシワを伸ばした。
「あはは……さすがに産まれてこなきゃよかったはないよね。だって、産まれてこなかったら、短い人生を明るく精一杯生きることもできないじゃん。お母さんの分までさ……」
レアは手紙を封筒に入れてポーチにしまった。
そして、エメラルドを拾い上げる。
その表面に刻まれた紋章を悲しげに見つめる。
ポーチの中にエメラルドも入れた。
「さ~て、お母さんのお願いも叶えたことだし、これからどうしよっかな~」
その時、彼女の周りが一気に暗くなった。
「今度はなにっ!」
レアはびっくりして真上を見上げた。
すると、そこには、動物らしき胴体と四本の足。しかし、それは彼女が知っているどんな動物よりもはるかに巨大だった。
そんなのがみるみる落ちてきて迫ってくる。
「きゃあぁあああああああああああああ!」
レアは頭を抱えてうずくまった。
直後、予想に反して、かすかな物音と小さなそよ風。
恐る恐る顔を上げたレアの鼻先をふわりと何かがかすめた。
それは尻尾だった。
その動物は、おそらく生物学的分類上は、狐。
しかし、レアが見上げてしまう時点で、普通の狐ではなく、何より、体を覆っている毛が青かった。腹は青白く、背中にいくにつれてさらに青くなる。
それと、九本の尻尾――。
狐はふっと煙のように姿を消した。
代わって、レアのすぐ目の前に、女の子が一人、空から降ってきた。
ドスン、と着地。
女の子はレアよりも少し背が高く、少し細身。
切り揃えられた前髪の下には、感情を読むことが困難な真顔。
レアはそんな彼女の格好を上から下まで見て、言う。
「いや、そのね、聞きたいことは山ほどあるよ。さっきの狐は何?とか、あなたはどうして空から来たの?とか、その背中に抱えている大きな風呂敷は何?とか。でも、うん――でも、私が今一番聞きたいのは、なんでそんな恰好なのかな~って。半袖シャツに、ブルマってさ……この季節にはちょっと寒いかもと思ったりしちゃうのですが、はい」
「ああ、これ?これは体育の授業中だったから」
「体育?」
「体育の授業中に、月姫との契約の光が空に見えて、それで、先生に言われて来た。五月の月姫と契約したのはあなた?」
少女は目だけを左右に動かした。
「月姫の姿がない。石はどこ?」
「石?あ、もしかして、石ってこれのこと?」
レアはポーチからエメラルドを取り出してみせた。
少女はそれを見ただけで続ける。
「あなたが五月の月姫と契約した新たな月守であることを確認した」
「月守……」
「そう、あなたは月守となった。私と同じ」
「そっか、私が月守に……じゃあ、さっきのは本当に月姫だったんだ……」
「意外と冷静なのね」
「いやいや、そんなことないって!ものすっご~く驚いてるよ!どうして、私なんかがあの月守に!って!もしかしてこれは夢?って思っちゃうくらい!でもさ、あれこれ考えたってどうにもならないし、それに、短い人生を明るく精一杯生きるってのが私のモットーなんだ!」
「……変な人。とにかく、同じ月守同士、これからよろしく。私の名前は、ラケル。グレゴリアン女学校の二年生」
「私は、レア――」
「じゃあ、レア。あなたはこれから私と一緒に学校へ――」
「うわっは!なに、あれっ!かわい~っい!」
レアは一目散にさっきの大きなイチョウの木に駆けていき、その下で小さく丸まっているそれへ飛びついて抱きついた。
「きゃぁあ~っ!もふもふ、きもちいっ~!すっご~いっ、耳もっ!あ、これ、ぴくぴく動くんだ!ってか、肌はすべすべもちもち!尻尾もあるよっ!きゃぁあ~っ!」
興奮するレアの胸にすっかり埋まっていた、その狐の少女――ちなみにジャージ姿――が「ぷはっ」と顔を上げた。
「何だ何だ、この娘は!いきなり、馴れ馴れしい!妾が月姫と知っての狼藉かっ!」
「えっ!あなたも月姫なの!?」
「如何にもだ!妾は、一年十二の月のうち、九月を司る気高く知恵深き月姫――キュウビであるぞ!」
「かわい~っい!えいっ!もふもふしちゃえっ!もふもふもふもふもふ……」
「これ、小娘!べたべたひっつくではないっ!ラケル!ラケル!この娘をどうにかしろ!これでは昼寝がいっこうに出来ぬ!」
あちらで背中からおろした風呂敷の結び目をほどいていたラケルは、レアの腕でもがくキュウビをちらっとも見ずに言う。
「昼寝しなくていい。だから、助ける必要もない」
「そなた、妾の月守であるのだぞ!妾が助けろと言えば、すぐ助けんか!」
「…………」
「~~~っ!無視か!いい度胸だ、ラケル!妾がちょいと本気になれば、そなたなどひとひねりにしてくれるぞ!――って!小娘も、そろそろ、いい加減にせい!」
「もふもふもふもふもふもふもふ……」
「おい!聞いておるのか!」
「もふもふもふ………………………………すん…………」
レアは青い毛でふさふさのキュウビの頭に顔を突っ込んでいた。
キュウビは耳をぴくりとさせる。
「小娘、もしかして、泣いておるのか?」
「あれ?なんでだろう?……もふもふが気持ちよくって安心しちゃったからな……ごめんね、すぐにどくから……」
「ふん。まあ、しばらくそのままでよい。はあ……気高く知恵深き妾が察するに、ゴキのやつめに何か言われたのであろう?」
「ゴキ……?」
「ほれ、そなたが此度、契をかわした月姫のことだ。違うか?」
「うん……そうかも……」
「ゴキは昔から言動がちょいとばかしきついが、決して悪いやつではない。十二の月姫の中にあって他の誰よりも人間がためその身を粉にしてきた。それ故、少々人間に情を入れ込み易いところがあってな……特に〈大喪失〉の後の出来事については、色々と思うところがあるのであろう。おそらく、小娘、そなたはサラの――いいや、いい。とりあえずはゴキが悪いことをしたな。妾に免じて許してやってくれ」
「ううん、許すも何も、私が勝手に元気をなくしちゃっただけだから……」
「ん。そうか」
少ししてレアは顔を上げた。
涙のあとを服の袖でごしごしと擦る。ちょっと目が赤いが、それはいつもと変わらない明るい彼女の顔だった。
「もう大丈夫っ!ありがとうございます、キュウビ様!」
「キュウビ――様!小娘、もう一度、言ってみい」
「キュウビ様?」
「くぅう~~っ!久しぶりに様づけで呼ばれたぞ!こんなに嬉しいことはないっ!まったく……あのラケルを筆頭に、誰も彼も、妾のことをさも犬猫のようにキュウビキュウビと言いおって――。小娘、名は何と言ったか?」
「私?私はレア」
「レアだな。覚えたぞ。ところで、レア、妾に礼などいいから、ちょいと耳のうらっかわを掻いてはくれんか?」
「こう、ですか?」
「う~ん、もうちょいと右、ああ、ちょいと上、そう、そこを少し強めに――あ~、レア、そなたはなかなかの名手であるな。気持ち、よい、ぞ……ふわぁ~……」
キュウビはレアの膝上でくるんと丸くなり、すやすやし出した。
そこへ、ラケルが歩み寄ってくる。
眉一つ動かない真顔のまま腰をかがめる。
「準備できた。起きて、キュウビ」
ペシン――
と、ラケルはキュウビの頬を軽く平手打ちした。
キュウビは目をぱちくりとさせる。
「な――っ。ラケル!事もあろうに妾に手を上げたな!今度という今度は――」
ラケルは回れ右して遠ざかる。
「これ、聞かぬかっ!おい!……あやつめ、妾のことを完全に見下しておるな。覚えておれよ。いつか必ずあやつを泣かして地面にひれ伏させてやるぞ……。ん~っ、それでは帰るとするかのぅ~」
キュウビは立ち上がりぐっと背を伸ばしてから、ラケルの後を追う。
レアも慌てて立ち上がって二人に続いた。
ラケルが立ち止まった所には、しぼんだ風呂敷があって、それと、どういうわけか、屋根瓦が積まれてあった。
屋根瓦は九段、それが三つ横に並べてある。
ラケルは目をつむって拳を構えた。
「あの……キュウビ様、これは何かの訓練ですか……?」
「むぅ?まあ、よいから、黙って見ておくのだ」
ラケルは息をふぅ~っと吐くと、ゆっくり目を開けた。
すると、拳の甲に線が浮かび上がった。それは、細かい点は異なるが、だいたいにおいてレアの甲に浮かんでいたあの紋章と同じ。ただし、彼女のは青かった。
「天なる神、九月の月守、ラケルが九つ三つの力を奉納する……。ハァア――ッ!ハッ!ハァアアア!」
後には、真っ二つどころか、粉々の木っ端微塵になった屋根瓦の残骸の山が三つできあがっていた。
直後、レアの隣にいたキュウビの体から青い光が放たれる。
「神威降臨――!神技解放――!」
青い光がぱっと強くなり、それがやむと、そこには、レアが最初に見た大きな狐の姿があった。そして、気高く澄んだ声で一つ鳴いてみせた。
声も出ずあっけにとられるレアにラケルが近づく。
「つかまって」
差し出された彼女の手をレアが握った途端、ラケルは地面を蹴ってジャンプした。
たった一度の跳躍でキュウビの背中に飛びのると、片腕で前にいるレアを固定して、もう一方の手で青い毛をつかんだ。
次の瞬間にはもう狐は風のように駆け去っていた。
それと一緒に、レアの悲鳴も遠のいていく。