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清純派魔導書と行く異世界旅行!  作者: 三澤いづみ
第四章 『テクノ・マジカディア』
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第十五話 『わたしのかたち』



 俺は奥歯を噛み締め、叫び出したいのをこらえた。

 刹那のうちに沸き上がった様々な感情を飲み込んで、急いで周囲を観察する。

 この部屋は、想定していたよりもずっと広かった。


 どういうからくりなのか、塔の上層の広さや歩き回ったフロアの規模、構造、学長室の位置などから想像していた数倍の広さがあるように思われた。

 ひとつ前の部屋が教室程度のサイズとすれば、こっちは体育館くらいのスペースがある。

 壁際にいくつもの機械やモニター、スイッチなどが見える。何の用途かは分からないが、その大半に稼働している形跡も見えない。

 その中心に存在していた、巨大なカプセルとでも言うべき、不思議な装置を見上げた。


「……あ」


 若干、形容に困る。

 マッドサイエンティストの実験室にありそうな器具、と語れば想像しやすいだろうか。

 下方には土台のような複雑な機械があり、上部の巨大なカプセルと繋がっている。

 カプセルは卵型で、透明で、中の様子も覗けるようになっている。

 ちょうど人間ひとりを納めるのに十分な大きさで、その内部には何らかの溶液が充満していた。

 とにかく、緑色の透明な液体だった。

 その怪しげな液体で満たされたカプセルの中身に、俺の目は留まらざるをえなかった。


 女性の、生まれたままの姿があった。

 目を閉じていて、まったくと言って良いほど動かない。

 今わずかに動いたように見えのも、カプセル内で循環する液体に起因するのだろう。


 眠っているようにも見えるが、やはり、死んでいるのだろう。

 少なくとも呼吸はしていない。薄い胸の上下する様子は見当たらなかった。

 人形と見間違えたのはそれが原因だ。

 均整の取れた四肢と、白い肌、起伏の少ないボディラインは、作り物めいて美しく見える。

 ぼんやりとした青い光が下部の装置からその裸体を照らし、今はっきりと顔が見えた。


 ルイザだった。

 本当に女子だったのだと、今更のように納得をした。


 重力から解放されたように、何の支えもなく、緑色の液体の中心に浮かんでいる少女。

 男と思っていた時には小柄で細身と感じた肉体は、こう見ると華奢と言い換えられる。

 どうしてか、その表情に苦悶の様子は見当たらなかった。

 幸福な夢を見ているような、そんな穏やかさすらある。

 ルイザと初めて会った時、次に見えた時にもついぞ見られなかった、優しげな顔だ。


 無惨な結果に動揺しつつも、俺はルイザから目を逸らし、汚泥の姿を探した。

 何を目論んでいるのかは分からないが、どうせろくなことではあるまい。

 

「ご主人様……」

「大丈夫、大丈夫だ」


 言葉と裏腹に、動揺を抑えられていないのが、自分でも分かる。

 もっと急ぐべきだった。汚泥を黒幕と判断した時点で対処すべきだった。

 そして、もっと出来ることはあったのではないか。

 俺はルイザのことをまったく知らない。仲が悪いように周囲には思わせておきながら、実は殺された学長オージェスと昵懇にしていて、そして何か秘密を抱えていた、男装の少女。

 会ったのはわずか三回。

 他の学生に絡まれていたときと、話を聞きに行ったとき。そしてさっきの汚泥との対峙。

 短いやり取りから分かったのは人となりと、ボクという一人称、そんな表面的なことだけだ。

 なぜ男装していたのかも、どうして危険を冒してでもマナ溶液を服用したのかも、そしてオージェスとの関係性も、想像の域を出ない。

 親しくしたわけでも、俺から好意を持っていたわけでもない。

 汚泥の企みに利用される前に、救助する必要がある相手でしかなかった。


「……クソっ」


 それなのに、俺はどうしてこんなにショックを受けているのだろう。

 ミリエルの期待に応えられなかったからか、それとも自分の能力なら容易く助けられると驕っていたことに気づいたからか。

 いいや、確たる証拠も無く、汚泥の言葉を信じてしまったからだ。

 いまルイザには死なれては困ると、そんな発言に油断していたのかもしれなかった。


 これが、汚泥の望み。

 清らかな乙女の肉体。すなわち、ルイザの死体をカプセルの中に浮かべた、この状態が。

 あいつは何がしたかったんだ。

 苛立ちと、情けなさと、悔しさとが同時に沸き上がって、やるせなくて叫び出したくなる。

 そして、それらよりずっと強い悲しみが胸を突き刺す。


「ご主人様。ルイザさんのこと、しっかりと見ていただけませんか」

「スピカ。その手の話に付き合う気分じゃないんだ」


 声を抑えているとはいえ、汚泥にいつ気づかれてもおかしくない。

 警戒しつつも、スピカに言葉を返した。

 相当な広さを誇る、研究室と実験室、ついでにコントロールルームの要素を持った学長室の奥にあったこの部屋は、しかし逆に言えば端から端までその程度の距離しかない。

 器材や装置で視線は遮られ、何やら稼働しているためにモーター音やシーク音に紛れても、敏感な人間なら他者の気配を察知している頃合いだろう。

 にも関わらず、汚泥は俺たちの前に姿を現さない。ぐるりと見回した感じ、姿も見えない。

 さらに隠し部屋でもあるのかと首を傾げる俺に、スピカは再度促してくる。


「それは失礼いたしました。ですが、じっくりと凝視していただきたいのです」

「この状況でそれは不謹慎に過ぎる。殺されたルイザの、あんな姿をまじまじと見るなんて」


 汚泥によって服は脱がされてしまったのだろう。

 マジカディア魔法学院の学生である証明の、あの制服じみたローブも見当たらない。

 若干高い位置に配置されたカプセルの、緑色の液体に満ちた中に覗く華奢で白い肌の肉体。

 頭からつま先にいたるまで何一つ隠されていない、もはや隠すこともできない乙女の柔肌、その細くやわらかな四肢が、液体の循環に影響されたように、水中でかすかに揺れている。


 それでもスピカがしつこく言うものだから、俺はしぶしぶカプセルの真正面に立った。

 卵型の透明なカプセル、その下部に接地された装置の分だけ高い位置にある死体を見上げる。

 何度見たところで変わるはずがない。

 眠っているような穏やかな顔の、しかし呼吸をしていない肉体の人形じみた美しさ。

 間近で見ても全然嬉しくない女性の裸体に、俺はため息を吐くしかなかった。

 スピカが何を考えて俺にこんな真似をさせるのか、説明を求めようとした、その瞬間。


「……っ!」

「やっぱりです……!」


 ごぼっ、と突然、ルイザが息を吹き返した。俺はそれを見た。

 緑色の液体のなかで、もう何分も呼吸していなかった、どう見ても死体であったはずのルイザが、息をしようとして水中だからできなくて、苦しそうにもがいている姿を目の当たりにした。


「スピカ!」

「その装置のどこかに、液体を抜くスイッチがあるはずです!」

「根拠は」

「他の器材から独立しているので、その装置だけで処理が完結する仕組みかと!」


 かぶりつくように、俺はカプセルの下部や背面にある装置の文言を調べた。

 古代文明の言葉なのだろう。《共通言語ファイン・トーク》のおかげで、ざっくりとした意味を読み取れたのは僥倖だった。

 排水用のボタンを見つけて、迷う暇も無く押した。可能な限り急いだが、逃げ場のない水中で溺れるには十分な時間だった。

 緑色の液体が装置の最下部に生じた孔から流れ出る。見た目にも水位がどんどん下がっているのも分かった。

 様子を確かめるために、俺はまたカプセルの正面に戻った。


 急速に液体が排水されていって、浮いていたルイザの足が接地する。

 同時にカプセル前面がぱかりと開いて、彼女の身体が排出されるのが見えた。

 せっかく息を吹き返したのにこんなことで死なれては困る。

 人口呼吸も視野に入れて、すぐさま救命措置をしようと目を向けたが、どうやらルイザには意識があるらしい。


 たたらを踏みながらも、裸足のまま装置のへりを踏み台にして、外に出た。

 何度も咳き込んでいるが、それだけだ。

 さっきまでは死体としか思えなかった姿が、溺れた直後とも思えない血色の良い顔で、しかし足取りは不確かで、ふらつきながら目の前の俺に向かって倒れ込んでくる。

 慌てて抱き留めた。

 男装していたときには思いも寄らなかったくらい、ルイザの身体はやわらかかった。


 死体と思っていればともかく、生きていたとなればこの状態は目のやり場に困った。

 ルイザもそれどころではないのか、露わになっている大事な部分を隠す素振りも見えない。

 声はない。言葉もない。

 意識はあるが、先刻までのように明瞭であるかは怪しい。茫洋とした瞳で俺の顔を見上げて、自分がどうしてこんな風になっているのか分からないといいたげに目を瞬かせた。

 俺の腕の中で抱きすくめられたまま、ふりほどくでも、嫌がるでもなくもたれてくる。

 どれくらいそうしていただろう。

 本当は未だ姿の見えない汚泥を警戒しなければならないのだが、この状況のルイザを放置も出来ない。せめてもう少し意識がしっかりしていれば、逃げるなり隠れるなりの算段も出来るのだが。


「あ……」


 突然ルイザの目に光が戻った。曖昧だった意識が、鮮明になりつつあるのかもしれない。

 俺も、急に気恥ずかしさを感じる。さっきまではまったく覚えなかった種類の感情が、だんだんと膨らんでいくのが分かった。

 そこまで親しいわけでもない女性のあられもない姿を前に出来ることといえば、一度その華奢な身体を引きはがして、俺のコートを脱いで羽織らせるくらいだった。

 さっき倒れ込んで来た時のように足下不如意ではないし、もう大丈夫だろう。

 唇を震わせながら、自分の足で立っているルイザに、俺は聞いた。


「大丈夫か、ルイザ」

「……あ、ああ。大丈夫。大丈夫だ」


 いま自分が置かれている状況を思い出して来たのか、ルイザは周囲を確認しだした。

 学長室の奥がこんな部屋であったことを知っていたのか、驚きは見えない。捕まってここに連れて来られた時点で認識していたのかもしれない。

 呼吸を整え、手を握ったり閉じたりすると、自分の格好を確かめて、ひとつ頷く。

 そして俺を見て、微笑んだ。


「ありがとう。カゲヤマは紳士的だね」

「……そう、か?」


 ルイザは自分の肌を隠すコートの前を閉めながら、くるりと身を翻してみせた。

 妙にテンションが高い喋り方で、動きもはしゃいでいるように大きい。

 そうした仕草のたび隙間から肌色が覗くと、俺はなんとも言い難い気持ちになった。

 死にかけた、殺されかけた直後だからかもしれない。

 場違いなくらいの明るさで、クスクスと笑いながら俺をからかってくる。


「そうだよ。誰も見ていないんだから、ボクに悪戯したってバレやしなかったのに」

「そうかもな」

「それでカゲヤマ、どうやって学長室の扉を?」

「なんていうか、色々やってたら開いたんだ」


 俺の雑な説明に、彼女は目を丸くして、それからふーんと頷いた。

 まるで信じていない顔だった。

 ただ、このころころと変わる喜怒哀楽の表情は、以前のルイザには見られなかったものだった。

 ずっと張り詰めていた顔、怒りや苦しみに満ちた顔しか知らない。

 本来のルイザは、こんな風に感情豊かな女の子だったのかもしれない。

 それともオージェスが生きていた頃には、こんな軽口をよく叩いていたのだろうか。


「へえ。やっぱり大魔法使いの助手は違うね。秘密の切り札を持ってるんだ」


 うらやましそうに、彼女が口を尖らせる。

 俺のコートが物珍しいのか、袖を通した腕を掲げては、眺めたりもしている。

 周囲に変化はない。稼働している機械音と、空調か何かの音以外に、物音はない。

 そして、先ほどからスピカは固く沈黙を守っている。

 俺は小さく表情を和らげて、なんでもないことのように問いを投げかけた。


「ちょっと聞きたいことがあるんだが」

「なにかな? 命の恩人の頼みだからね、なんでもいってほしいな」

「汚泥がどうなったのかを、どうして聞かないんだ」

「そいつはカゲヤマが倒して、ボクを助け出してくれたんでしょ。そうじゃなかったら、囚われの身になったボクがこうして生きているわけがないじゃないか」

「じゃあ、質問を変えよう」


 俺は尋ねた。


「お前は誰だ」


 彼女は、不思議そうに首をかしげた。

 ルイザの顔をしているそいつは、俺の問いに本当に驚いたようだった。


「なんで分かったの?」

「……やっぱり、お前は」

「ひどいな、カマ掛けだったんだ。大魔法使いといい、君といい、本当に邪魔な存在だね」


 不満そうに頬を膨らませるのは、まさしく年頃の少女の振るまいに思われた。

 その所作が、俺の見てきたルイザの姿とまったく重ならない。

 本当のルイザ、親しい相手だけに見せる真の姿がこれだったとしても、違和感があった。

 一度命を助けてもらった相手だからと本当の自分をすぐさま明かすほど、ルイザという人物の外面は軽いものではなかったはずだ。


「……ルイザをどうした?」

「ここにいるじゃないか。ボクが、ルイザだよ」

「俺が聞いているのは、本物のルイザの居場所だ。お前じゃない」

「質問の意味が分からないな。ボクが、ルイザなんだよ。かつてのボクが、本物のハルマックだったのと同じでね」


 意味は、分かった。

 ただ出来れば分かりたくなかった。信じたくなかった、と言い換えても良い。

 汚泥はハルマックの肉体を捨てて、ルイザの身体に乗り換えた。

 手段は不明だが、今の言葉を聞く限り、そういうことなのだろう。

 性根が腐っているとは思っていたが、ここまで人間を辞めていたのは想定外だった。


 ふふんと胸を張って笑ったその顔が、どうしてかひどく歪なものに見えた。

 誇らしげな少女の笑み。

 それは、事件が終わったあとに、ルイザが心から浮かべるべきものだった。


「ああ、もっと正確に表現した方がいいかな。この肉体は、ルイザ本人のものなんだよ」

「……外道が」

「よく分からないな。かつてのボクのことを君たちはハルマックの偽物だと評したけれど、本物と贋物の違いってなんだろうね」


 ルイザの顔をしたそれは、出来の悪い学生に諭すように、言った。


「ダンジョンで生み出されるモンスターと一緒で、同じ形、同じ能力を有している存在に本物の偽物もないと思うよ。もちろん多少の差異はあるだろうけど、それは個体差に過ぎない。ゴブリン一匹一匹の性格が違っても、いちいち区別なんかしないよね? それはゴブリンって外見と能力という規格に一致していれば、その中身になんか誰も注目しないからさ」


 だったらさ、とそれは続けた。


「中身が違っても、外側が、肉体が完全に同一のものだったら、人間は気にしないものだよ。だって人間の中身、人格なんて刻一刻と変化し続けるものだからね。固定されていない、規格もない、元々の本当の形なんて誰も知らないものが入れ替わったって、誰が気づける? 気づいたとして、それを証明することなんて出来やしないさ。事実、ボクがハルマックだった頃は、誰にも気づかれなかった」


 俺が黙っているのをいいことに、彼女は謳うように語る。

 演説のようでもあり、釈明のようでもあった。


「自分ってものの記録や思考、秘密を全部誰かに余さず明かしていれば違うんだろうけど、誰にだって、ひとには言えない何かを抱えてる。大魔法使いミールエールだって、君だって、そうだろう。誰にも見せなかった一面と、ボクが入れ替わってことで起きた変化の区別は、どうやってつける?」

「で、くだらない講釈は終わりか?」

「カゲヤマ、君がボクに気づいたのはたまたまだ。違和感なんて、確たる証拠じゃない。君をこの場で始末してしまえば済む話さ」

「もう喋るなよ。汚泥って名前の通り、ルイザの口が汚れるから」

「……ボクをその名前で呼ぶな」


 なるほど、ミリエルがこいつを汚泥と呼んだのは理解出来る。

 汚らしい泥のように、他者にこびり付いた何か。

 こんな正体までは掴んでいなかっただろうが、その本質を見抜いたがゆえの呼び名だった。


「なんだ、けっこう気にしてたのか。ミリエルも上手いこと言うよな」

「……挑発しても無駄だよ。どうやって入り込んだのか分からなかったけど、大魔法使いがこの場にいないことは話している最中に確かめた。実を言えば……ハルマックの肉体は攻撃魔法の素養が皆無でね、使わないのではなく、使えなかったんだ。それに比べると、この身体の素質は本当に素晴らしい」

「一応聞くが、どうしてルイザを選んだんだ」

「ボクが、君に、それをわざわざ教えると思うのかい?」

「だよな」


 さて、正体を突き止めたまではよかったが、これからどうしたものか。

 身体能力や体格差もあって力尽くで抑え込むのは可能だろうが、学長室内部の防衛機構はここにも及んでいるはずだ。

 そうでなければ偽ルイザの余裕に説明が付かない。自分の優位を確信している顔だった。

 ハッタリの可能性もあるが、そうでなかった場合、今度は鎮圧用の魔力弾で済むかは疑わしい。

 運良く先ほどのように通常動作をしない可能性もあるが、勘定に入れるべきではない。


「頭の回転は悪くないみたいだし、とっくに気づいていると思ったんだけど……この塔の中でボクに勝ち目があると思ってるのかな? ああ、学長権限――管理者としての権限は固有マナのパターン登録になっているから、今もちゃんとボク自身が掌握していることを教えてあげよう」

「みたいだな」


 そもそも、戦闘になった時点で俺の負けだろう。

 俺の勝利条件は、ルイザを奪還することなのだ。単純に人質に取られていた学長室前の状況より、さらに悪化している現実に目も当てられない。

 かといって今すぐ汚泥に背を向けて、ただ逃げるのも分が悪い。ルイザの肉体が奪われた。この情報だけでは手の打ちようがなかった。

 反撃すれば塔自体が敵になる。一方的に俺を嬲る形で攻撃を仕掛けてくるかと思ったが、汚泥はなかなか動かない。

 警戒しているのは、俺自身ではなく後ろ盾になっている大魔法使いの名前だろう。

 助手として重宝されていたからには、何らかの特異な手段を握っている可能性がある。

 汚泥が先手を打たないのはその一点を重視しているからだ。攻撃もせず、逃げ出しもしない俺の振るまいが、何かあると思わせるのに一役買ったのかもしれない。 


 俺も汚泥の一挙手一動足を観察しつつ、ヒントになり得る情報を探している。

 何かないか。

 俺が様子を窺っていることを察してか、汚泥が言った。


「一応教えておくけど、ボクを殺すってことは、ルイザの肉体も死ぬってことだよ」

「……で、本物のルイザを取り戻す手段はあるのか?」

「そっちは教えないよ。あるか無いかも、出来るかどうかも」


 嫌な牽制の仕方だった。

 本物が助かる可能性の提示。俺から聞けば利用されると思って聞けなかったが、読まれていた。

 俺がこの場に来た理由、カプセル内にいた際のルイザに対する態度を見ていれば、汚泥ごと殺すのは躊躇すると判断したのだろう。

 そして、それは正しかった。

 つくづくタチが悪い。

 取り憑いている、という表現が正しいのかどうかのかも不明だが、汚泥のみを排除する方法、あるいはルイザの肉体から切り離す手段を考えなければならない。


 それ用の魔法を作れるか、と声に出さずにスピカに問う。

 なんとなく伝わってくるのは否定のイメージ。先ほど《封印解除》作成に使ったリソースがことのほか大きかったようで、すぐに新たな魔法を描き出すのは難しいといった感触だった。


「ふむ。……うん、いいね。いいよ君」

「……何がだ」

「ボクの方に鞍替えしないかな? さっきから思ってたんだけど、君はどうやら強いらしい。モンスターで溢れていたはずの通路を突破して、権限者以外が開けないはずの扉を開いてみせた……大魔法使いの助手なんて立場では説明が付かない能力を持っているようだ」


 汚泥は艶然とした笑みを浮かべた。

 目を細め、唇をぺろりと舐めて、一度は閉めたコートのボタンを外してみせた。


「この身体と塔の力を手に入れた以上、大魔法使いすらボクの敵じゃない。ミールエール=スティングホルトは誰よりも魔力が多く知識があって、実戦で鍛えた戦闘巧者としても名高い人物だ。あの姿にはさすがに驚かされたけど、長寿の秘密と思えば納得も出来る。しかし……偉大ではあるが、それ以上のものではなかった。現に、金貨級モンスターのるつぼを作り出せば、塔から逃げ出したくらいだ。だけど君は違う。こうしてボクの前まで来ることが出来た。素晴らしい能力を示したんだ」


 それは甘やかな誘いだった。

 ルイザの顔で、ルイザの声で、ルイザの肉体で、俺を引き寄せようとした。


「惜しいと思ったのさ。ボクのものになれば、さらなる力が手に入るんだ。この塔の真の力を使えば、人間なんて誰も逆らえなくなる。そうしたら、君はもっと自由に生きられるはずさ。あんな大魔法使いの下について不自由な想いをしなくても良い。倫理観とか、常識に縛られる必要なんかないんだ」

「……どういう意味だ」

「カゲヤマ。君、童貞だろ?」


 唐突な追及に、俺は言葉を返せなかった。

 この手の会話から何か糸口を見つけようと付き合っていたが、汚泥はうんうんと頷いた。


「視線や態度から丸わかりだよ。でも、その顔その強さその年で未経験だなんて、よっぽど出逢いに恵まれなかったか……そうでなければ性欲を無理矢理にでも押さえつけていた理由があるかだ。君の名前は寡聞にして知らなかったけど、おそらくは大魔法使いの秘蔵っ子か何かなんだろうね。あんな師がいるなら、女性と交われなくても仕方ない。別に馬鹿にしているわけじゃない。ただ、もったいないと思っているだけさ」


 ミリエルの弟子と勘違いされているが、あえて訂正しないで話を続けさせる。

 汚泥はそれまで以上に饒舌に、俺を説き伏せるように優しい口調で語った。


「ボクと組めば、さらなる力が――本物の自由が手に入るんだよ。力さえあれば、何にも縛られずに済む。たとえば嫌いな人間を殺しても、誰にも咎められない。気に入った女性を選んで、捕まえて、組み伏せて、そうやって自分のものにしたっていい。思うがままに行動して、他者を屈服させて、なにもかもを支配するんだ。……もはや誰にも止めることはできない。国の定めた法も、どんな力も、ボクたちの行動を阻めない。この塔には……いや、ボクにはもう、それだけの力がある。そして、ボクは君を選んだ。そう、唯一のパートナーとして」


 言葉を飲み込み、先を促す。

 俺の態度を乗り気だとでも思ったのか、汚泥の声ははますます喜びに満ちていく。


「そういう趣味じゃない? なら、師匠越えという名誉を求めたってかまわない。魔法使いたるもの、力を欲するのは自然なことだ。恒星のような大人物の影に隠れて、君のような才能ある人間が日の目を見ないなんてあってはならない。埋もれた自分の名を示したいだろう? 世界にその力を認めさせたいだろう? つまらないルールに従いながら、自分を押し殺して生き続けるなんて苦しいだろう? さあ、ボクの手を取って……一緒に、世界を支配しよう」

「世界を支配するなんて、できるはずがないだろ」


 意識したわけではないが、心底呆れきった声が出た。

 汚泥は言った。


「ははっ……もう登録は終わっているんだ。管理者権限と、清らかな乙女の肉体。二つが揃った以上、かつて古代文明が塔に組み込んだすべての機能が復活する」


 ようやく、汚泥は核心について語り出した。

 俺を脅威と思っていないのか、知られたところでもはや無意味だと考えているのか。


「ああ、そうか……清らかな乙女であることは登録時の条件だから、処女を失っても構わないんだ。ねえカゲヤマ、この場でボクのものになってくれるなら、君に純潔を捧げてもかまわないよ。どうかな……悪い取引じゃないだろう?」

「お前は何を言ってるんだ」

「君が助けに来たのは、下心もあったはずだ。何の見返りも求めなくて、大した交流もない小娘を命掛けで助けようなんて思うはずがないからね。この乙女の柔肌を、君だけは好きにしていいんだ」

「俺が、それに頷くとでも?」

「ボクはね、対等な相手が欲しいんだ。どうやら君には、ボクを殺しうる手段があるらしい。ボクもせっかくここまで来たのに、呆気なく殺されるのは困る。だから交換条件だよ。手を取れるかもしれない相手と無駄に争うなんて、それこそ馬鹿馬鹿しいじゃないか」


 俺が眉をひそめたのを見て取ってか、汚泥は肩をすくめた。

 その動きの最中コートの前が開いたのは、意図的なものだったのだろう。


「君はこの身体を自由にする権利を得る。ボクはルイザの肉体が生きている限り、存続できる。ボクたちはどちらもルイザの死を望んでいないんだし、協力の余地はあるはずだよ」

「勝手に話を進めるな。そもそもお前のものじゃないだろ、その身体は」

「ああ、前の身体がハルマックだったから警戒しているのかな? 安心してほしい。かつてのボクに性別はなかった。この肉体が女性である以上、今のボクはちゃんと女の子だよ。それともカゲヤマは同性の方が好みだったかな?」

「そんなわけがあるか、阿呆」

「……ああ! 心配しているのは性別ではなくて、ベッドの中で約束を反故にする可能性かな。人間、そうした行為に耽っているとどうしても無防備になりがちだからね。でも大丈夫。ボクは約束は守る方だし、望むなら従順に奉仕しよう。ボクの目的に支障が出ない限り、君にしっかり尽くすと誓うよ」

「……っ」

「そうそう、さっきも言ったけど何しろボクもそういう経験は一度も無いからさ、最初は上手に出来なくても怒らないでほしいな。ああでも、お互い初めて同士なら大丈夫かな? うん、まあ女の子の身体はそうした行為をするためにこんな作りをしているんだ。習うより慣れろとも言うし、これから少しずつ勉強していけばいいよね」


 こいつと話していると、頭がおかしくなりそうだ。

 挑発なのか、天然なのか、本心なのか、擬態なのか。

 ハルマックとして振る舞っていたときの姿と、ルイザの肉体を使っている汚泥は、同じでありながら何かが決定的に異なっている。

 だんだんと違和感が減ってきているのが、ひどく不気味だ。

 ルイザを操っているというより、汚泥という要素が混ざっている、そんな印象まで受けた。

 ああ、まずい。

 向こうのペースに乗せられている。

 頬を赤らめ、上目遣いにあんな台詞をのたまった彼女の誘惑を、俺は鼻で笑った。


「冗談きついな」

「ひどいなぁ。ボクは本気で言ってるのに」

「本気ならなお悪い。この塔の力とやらがそんなに凄いなら、俺を必要とする理由なんかないだろ」

「鈍感なのかな? それともわざと気づいてないフリをして、駆け引きに持ち込む趣味なのか。釈明しておくと……これはね、乙女心ってやつだよ」

「正気か? ああいや、正気のわけがなかったな」

「カゲヤマは、つれない男だね。それとも、いくじなしと罵った方がよかったかな。せっかくお互いに有益な提案をしてあげたのに、妙な意地を張っちゃって。……そんなだから童貞なんだよ、チキン野郎」


 俺は何も言わなかった。

 別に、可愛い顔して痛烈な一言を浴びせられたから黙ったわけではない。


「勇気を出しての告白も断られちゃったし……時間稼ぎに付き合ってあげるのもここまで」

「……!」

「じゃあ、お別れだ。さよなら、カゲヤマ」


 まだか。

 俺が汚泥の妄言に付き合っているあいだ、スピカが探っていた何か。

 その答えが出る前に、汚泥は俺の勧誘に見切りをつけたらしかった。


 汚泥が、俺という存在を欲していたのは確かなのだろう。

 ルイザの肉体ではあるが、身体を使ってまで引き留めようとしたことは、決して口だけの提案には思えなかった。

 こいつの前で全力を見せた覚えはなかったが、ミリエルのように何らかの手段で察知されていてもおかしくはない。

 しかし、魔導士の能力ではなく、俺個人を求めているように感じられた。どこまで本心なのか、どうして俺を自分の味方にしたがったのか、それを確かめる術はなかった。

 

 時間稼ぎと看破された以上、この状況はまずい。

 汚泥は手のひらを俺に向け、着せてやったコートをはためかせ、長い詠唱を始めた。


「我は乞う、すべてを灰燼と帰す慈悲を――」


 距離を取るか、魔法を妨害するか、俺には二つの選択肢があった。

 だが、いつの時点で配置していたのか、俺と汚泥の周囲を取り囲む形で大量の影がゆらりと立ち上がる。装置や器材の影に紛れる形で隠れていたのだろう。

 影男シャドウマン

 金貨級ではあるが、魔法使いにとっては、ただの雑魚だ。《火炎玉》一発で消し飛ぶほどの紙耐久。しかし今この瞬間だけは決定的な一手になった。

 物理攻撃が一切通用しない。そして一発で消し飛ぶ。牽制のために魔法を使おうとしても、不要なまでの痛打として機能してしまうのだ。


「数多の骸を薪とし、煉獄の炎よ燃え盛れ――」


 汚泥の意思に従うように、どの方向にもちょうど邪魔になる位置に陣取られている。

 前後左右、どちらに移動しても妨害されるのは明白で、しかも影男を倒せばルイザの肉体が近距離且つ大量の浮遊マナに晒されると示している。

 同じ手を何度も喰らうのは癪だが、人質作戦は有用だからこそ、相手も繰り返し使ってくる。

 何のために。何を考えて。いくつもの疑問が、俺の判断を鈍らせた。

 躊躇してはいけなかった。彼女に、俺を殺すのに十分な時間を与えてしまった。



「やがて消えゆく篝火の果て――生も死も此岸に残すな鈍色の風。 《清火葬(プルガトリウム)》」


 朗朗と謳い上げるような詠唱からなされた呪文を、俺はつい先日聞いた覚えがあった。

 ウィラーから師の功績について話を聞いた。その際、誇らしげに語ったなかにあったのだ。

 オージェスを学長の座に昇らせた強さの要諦、『灰色』の二つ名で呼ばれる理由とされた火炎魔法。

 それがこの《清火葬(プルガトリウム)》だ。

 一流とされる魔法使いがこぞって真似しようとしたが、誰ににも再現出来なかった。ミリエル曰くティナもまだ使えないほどの、高難易度にして超威力を誇る秘術。


 秘密を共有していたルイザなら、教わっていてもおかしくはない。

 亡くなったオージェスと親密であったことは、もはや疑いようもない事実だ。

 しかし、おそらくオージェスはこの魔法を、親友といえどハルマックには伝えなかったはずだ。

 汚泥が成り代わる前も、後にも。


 またひとつ、違和感が増えた。


 避ける? いいや、無理だ。

 呪文のあと、種火めいた青く清冽な輝きが、彼女の手のひらの前で増えていく。

 蒼い宝石めいた輝く炎が、いくつもいくつも生み出される。

 そして、どこか幻想的な軌跡を描いて、その場でぐるぐると回り出す。

 美しい炎が連なり、加速して、円周し続けている。その青く眩い光が渦を巻いて、彼女の前でどんどん大きくなっていくのを俺は目にした。


 すぐに撃たないのは、溜めれば溜めるほど威力が増すからだ。

 回避も防御も許さない、必殺の一撃。

 なるほど、コンセプトは俺の切り札と同じで、しかし追尾能力はないのだろう。

 追尾できないのなら、逃げ出せない状況を作ってしまえばいい。

 簡単な話だ。実際に出来るのは、ほんの一握りだろうが。


 青い輝きは、先刻打倒したサファイアドラゴンの恐るべきビームブレスを思い出す。

 違うのは、現在の俺に逃げ場が無く、彼女が発射のタイミングを見計っている点だ。

 

 あの魔法を撃たせてはいけない。

 対策無しで受けたら、人体など影も残さず蒸発しかねない。

 しかし、生死を相手に握られているというのに、俺は焦りはあっても恐怖はなかった。


 再び、疑問が鎌首をもたげたのだ。こんな状況なのに、というより、こんな窮地だからこそだ。

 俺が助かるためには、ルイザごと汚泥を殺すしかない状況を突きつけられている。


 さっき迷ったのもそれが原因だった。

 俺に選択させようとしていると感じたのだ。

 スピカ。

 俺は心の中で呼びかけた。


 それから俺は発動寸前の、あのプラズマレーザーじみた超威力を正面にとって、これみよがしに腰に差していた杖を引き抜いた。

 呪文は唱え終わっている。発動は詠唱者の意思ひとつだ。

 彼女は、無謀な真似をしようとする俺を冷たく見据えて、口を開いた。


「なんのつもりかな?」

「早撃ち勝負さ。発射されるより前に倒せば、その魔法は無力化するだろ?」

「さあ、どうだろうね」


 もう一度、スピカに声を出さずに呼びかける。

 本当に命掛けの選択になってしまったが、相棒を信じて、あとは呪文を唱えるだけだ。

 いや、せっかくだからもう一手。


 彼女の見ている前で、杖を軽く放り投げてみせた。


「……!?」

「後ろがガラ空きですっ!」


 今叫んだのはスピカだった。コートのポケットにしまわれたままのスピカの声だった。

 俺が無手になったことに動揺したこと。スピカが背後からの奇襲を装ったこと。

 そして何より、俺を魔導士だと知らなかったことが、彼女の目論見をひっくり返した。

 一瞬だけ硬直した。その一瞬で十分だった。


「《轟雷嵐(サンダー・ストーム)》」


 発車寸前で溜め続けている《清火葬(プルガトリウム)》は、確かに意思ひとつで発動する状態だった。

 逆に言えば、その意思を乱してしまえばよかった。

 直後、影男すら殺せない弱い電撃が網のように広がるのを見た。


「……な……んで……」


 彼女はその場に崩れ落ちた。身体にしびれはあるだろうが、命に関わるものでもないし、意識を失うほどの威力もないはずである。

 膨れあがっていた《清火葬》は形を維持出来なくなって、その場で掻き消えた。行き場のない熱の残りだけが、未練のように周囲を揺らめかせていた。


 スタンガンをイメージした、非殺傷用の電圧に調整してもらった。

 だが、ここからは時間との勝負だ。

 殺傷能力が皆無とはいえ、管理権限者に攻撃を仕掛けた事実には違いない。塔全体の防衛機構と、周囲の影男の群れがいっせいに攻撃を開始してくる。

 先ほどの鎮圧用のものではなく、殺傷しうる威力の魔力弾だ。即死するほどではないが、当たれば骨折くらいはするだろう衝撃が、回避した床の破裂音から想像できた。

 微弱なダメージにも関わらず行動不能になっている影男の脇を走り抜けて、数メートルの距離を一息で詰めた俺は、そのままルイザの身体を抱きかかえる。

 コートに包まれた裸体、投げ出された四肢、そして力ない笑み。

 何よりその表情に浮かんだ失望は、疑いに過ぎなかった考えを確信に変えるには十分だった。


 魔力弾の発射はもうない。優先して守るべき管理権限者を傷つける危険があるからだ。

 影男たちの殺到も警戒していたが、それもなかった。指示内容は単純な内容で、しかも上書きしない限り最初の命令が継続するためだろう。


 俺に抱え上げられた状態で、彼女は暴れたりはしなかった。

 ただ悲痛さと怒りに満ちた瞳で、俺を睨み付け、うめくように声を絞り出した。


「なんで、殺してくれなかったんだ……!」


 震える声に、俺は改めてこの腕の中にある姿を見つめた。

 そこにいたのは汚泥という名の何かではなく、目に大粒の涙を溜めた少女だった。



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