第九話 『誰がための秘密』
マナ溶液。
その名前がここで出て来て、俺は驚いた。ミリエルはおおよそ予想がついていたのか、ふん、と鼻を鳴らしてスピカの声に頷いた。
マジカディア魔法学院でも聞いたばかりの非常に高価な劇薬の名前であり、学長オージェスを死に至らしめた手段でもある。
警邏の兵士は首をかしげた。自殺との情報は出回っていても、それが服毒自殺であり、そのために使われた薬剤がなんであるかまでは知らなかったらしい。
俺もきちんと理解しているわけではなかったことを察したか、ミリエルが補足を付け加えてくれた。
嚥下すれば死に至ることから、毒と認識するのもあながち間違いではない。しかし研究用の試薬といった側面が強いため、これを毒物として利用することは珍しい。
そのまま服用する場合、高密度の浮遊マナを直接摂取するようなものだ。マナ中毒を人工的に引き起こすわけである。
致死量を摂取なり投与された場合、量に比例して症状は重くなり、最終的には絶命する。
「つまり?」
「マナ中毒の症状で散々苦しんでから死ぬわけじゃな」
「随分とあぶない薬剤だな。どんなに注意していても、人間なら事故は起こるもんだろうに」
「まともな研究者であればきちんと管理しておるし、正しい手順を認識しておれば、誤飲が発生する状況もありえんよ。あくまで研究用、実験用の劇物じゃぞ」
「皮膚についても影響はあるよな」
「経口摂取より幾分危険度は下がるぞ。皮膚に接触させた場合、症状としては同じくマナ中毒になる。しかし、あの量なら軽度で済むはずじゃ。口から入らない限り、重篤化するほどの量ではない」
学長の死因については疑いようもない。マナ中毒が重篤化したことによる絶命である。
ミリエルは皮肉げに付け加えた。
「こんな劇物を自殺用の毒として使うか、という疑問は残るがな。……学院を回れば、もっと苦しまずに死ねる毒物なんぞ山ほど転がっておる。学長にも上り詰めた一角の魔法使いが、そうした知識に疎かったとは思えんのう」
学長の自殺に納得していないウィラーを除き、調査チームはマナ溶液による服毒自殺と考えていた。そう考えるだけの十分な根拠と説明もあった。
ウィラーに対して行ったミリエルによる質疑応答によっても、マジカディア魔法学院の調査はある程度信用出来ると保証されている。
スピカは紙片に施された仕掛けについて語りたくてうずうずしているようだが、その前に、問題のマナ溶液そのものの性質について知っておきたかった。
何か、妙な落とし穴がある気がしてならなかったのである。
「……解毒なり、治療なりは」
「口にした直後、数分以内であれば可能かもしれん。その場合でも、浮遊マナを強制的に減衰させたり、無効化する専用の薬剤が相当量必要となる。前もって用意しておかん限り、即座に処置するには厳しいものがあるのう」
俺はこれまでの旅路を振り返り、倒してきたモンスターとその結果について思いを馳せた。
浮遊マナ。そして、マナ中毒。
モンスターが死ぬと、強力なアイテムや金貨銀貨銅貨をその場に残す。形になった貨幣がそのまま手に入る事実もさることながら、付随して周囲に飛散するマナという要素はあまりにも直接的だ。
敵を倒せば倒すほど儲かる。そして、どんどん強くなる。
地球上にはありえなかった特異な法則であり、この世界におけるモンスターの功罪を目に見える形で表出させているシステムと言える。
俺にはマナ中毒のリスクはほぼ無いため、浮遊マナは経験値扱いでしかなかった。取り込めば取り込むほど強くなれる、レベルアップのための糧という認識の方が強かった。
だが、そんなものは例外なのだ。
一流の魔法使いであるティナですら、金貨級を倒すたびマナ中毒のリスクを負っていた。
つくづくこの世界における強者の苦労が窺える。銀貨級を倒しながら、少しずつ強くなり、同時に浮遊マナに対する耐性をつけていく必要があるのだ。
万が一、金貨級を倒した際に放出される浮遊マナを取り込みすぎても、意識を失ったり、行動不能にならない程度には耐えられるようにと。
一足飛びのレベルアップは基本的にできない。できても、死と隣り合わせの賭けになる。
再三語られてきたが、マナ中毒自体に重症化による死亡のリスクがある。
マナ中毒そのものが軽度で済んだとしても、ダンジョンの深い場所で、モンスターに囲まれた状況ではそのわずかな体調不良すら命取りだ。
それでも、生き残れば確実に強くなれる。強力なモンスターから得られた浮遊マナに耐えられれば、相応のレベルアップを果たすことができる。
そうして積み重ねてきた結果が、今のティナであり、あるいは以前戦った剛剣ブラスタインのような、一般人ではありえない魔力の高さ、身体能力の高さに繋がっているわけである。
「では、大天使ミリエルちゃんの講義の時間じゃ。大半のモンスターはドロップ品を核――媒体として発生し、同時にマナを肉体として形成する。すなわち、自然発生しているように見えて、何らかの意図が働いておるわけじゃが……」
「スピカから聞いたことがあるな。だいたい古代文明のせいとか」
「え、あの」
「これ、ワシでも確信を得るまでに時間が掛かった最新の研究成果なんじゃが……まあよい。ヨースケはおさらいと思って聞くがよい」
警邏の兵士の顔色が悪い。
一般に知られていないとすれば、とんでもない世界の秘密を聞かされている気分なのだろう。
実際には冒険者のあいだでは経験則として認識されている話であり、理屈らしいのだが。
「つまり、モンスターを倒すと肉体を形成するために集積されていたマナの結合が失われ、その瞬間、核となっていたドロップ品を中心として周囲に飛散する。これが俗に言う浮遊マナじゃ。モンスターが保有していたマナの分量が多ければ多いほど、距離が近ければ近いほど、時間が直後であればあるほど、死んだモンスターを中心にそのマナは強く濃く残留しておることになる」
ミリエルは滔滔と語る。
モンスターを倒した直後に一般人が近づくべきではないのはこれが理由だ。
モンスターから直接的な傷を負わなくとも、ごく近距離で強いモンスターを倒されるだけでマナ中毒――毒を受けたのと似たような症状が現れる。
「マナは空中にあれば放散するし、時間経過に従って半減していくものじゃからな。貴族の子弟が雇った傭兵に銀貨級を倒させて、薄めの浮遊マナを肉体に取り込むことで自然と強くなる、というやり口が可能なのもこのためじゃ」
一般的な銅貨級、ゴブリン程度なら浮遊マナの悪影響はほとんど無いので、子供のうちから身体を鍛えるという名目で、貴族ならずとも、多少なりともマナ耐性を付けさせる親もいなくはない。
この話を聞いたとき、俺は小学校の体育の授業で水泳を教えられたことを思い出した。あれも突発的な水難事故に備えてのものだ。
危険はどこに転がっているか分からないものだ。自分から近づかなければそうそう溺れない水辺と違って、この世界では街の外に出た途端、モンスターがそこそこ頻繁に湧いてくるのだから。
閑話休題。
「大概の場合、街中で訓練を繰り返すより、街の外やダンジョンに出向いて自分の実力に見合ったモンスターを大量の倒した方が成長が早いじゃろ。ゆえにダンジョンに潜る冒険者たちは、みな成長が著しい。自分が受け入れられるギリギリの浮遊マナを、大量に浴び続けることになるわけじゃ」
「な、なるほど。だから直接モンスターにダメージを与えていないやつでも、いつの間にか動きが良くなってたり、力が強くなっているんですね」
「自分の手で倒した方がより高濃度のマナを浴びることになるが、多少の距離があっても恩恵にあずかることは出来るわけでな」
「金の力を使って強くなるわけだ」
「うむ。……それはそれで正しい方法じゃよ。資力もまた、ひとつの力じゃからな。危険を冒さずに強くなれるに越したことはなかろう。……無論、身体能力は上がるが、実戦経験を積んではおらんから、いざというときに使い物になるかという不安は残るが。ちなみに自分より強いモンスターと戦った方が成長が著しいというデータもあってな。これはまだ未熟だったラクティーナのやつで実験済みじゃが、修行法としてはなかなか上手いものだったと自負しておる」
「すみません。たいへん役に立つ講義ではあったのですが、……そろそろ本題に」
「マナ溶液についてじゃったな。つまり、放っておくと勝手に薄れて消えていくマナを上手いこと液中に留めて濃縮したものじゃ」
「おい」
話の腰を折られてへそを曲げたわけでもないのだろうが、いきなりミリエルの説明が雑になった。
「いやなに、ワシが出張りすぎてスピカの出番を取ってしまっては悪いからのう」
「まったくです。真面目に聞いてくれる相手が出来て嬉しいのは分かりますが、ミリエルさんはもう少し慎み深くなった方がよろしいかと」
「よく言うのう。ヨースケに褒めてもらえるタイミングとやり口を見計らって、ワシらのやり取りが一段落するまでずっと黙りを決め込んでおったくせに。お主、最初の方でだいたい察しておったじゃろ」
「あ、それ言います? ミリエルさんこそご主人様相手に良いところ見せようと、話をわき道に逸らしてまで自慢の研究成果を語ろうとしていたくせに。残念でしたー! そのへんの理屈はワタシがとっくに教えさせてもらいましたから!」
「いいから本題」
「すみません」
「すまん」
「……ご苦労、されておられるんですね」
「すみません」
というわけで、スピカが語ったのはマナ溶液の使用法。その応用編の話であった。
「もう皆さん予想されておられると思いますが、そちらの書き付けには、マナ溶液をインク代わりにしたメッセージが遺されています。ただし問題がひとつ。こうした方法で情報のやり取りをする場合、もっとも気を付けなければならないことがあるわけです」
「情報の受け手を誰にするか、ということか」
「その通りです。重ねて言うならば、秘密のメッセージを遺すといった行為には、それそのものに大きな意味があるわけです。誰に知られたくないか。何を知られてはいけないか。どうして、そんな風に隠さなければならなかったのか」
「……この兵舎で、紙片を受け取ったのは」
「私です。事件が発覚して以降は、警邏内部においては担当責任者でもありますので」
「学長の態度なり、メッセンジャーの学生から、それらしい素振りは」
「いっさいございませんでした。内容に見当もつきませんし、その、私は特に、魔法というものにとんと疎いのです」
「ほう。魔法使い編重のきらいがある、ここマジカディア担当にも関わらずか」
「特別な理由があるわけではないんです。私、この街の出身なんですよ。それで王国兵になったら、丁度良いからとマジカディアの警邏に抜擢されまして。故郷に錦を飾る、とはいきませんでしたけど」
警邏の兵士は、小さく笑った。
「学院についても、魔法使いの方に対しても、街そのものに関しても……純粋だった子供の頃とはだいぶ見方が変わりましたね。それでも、街の治安を守るのは私のすべきことですから」
「うむ。……お主を選んだのはオージェスの意向かの?」
「分かりません。……ああ、でも、持ってきてくれた学生さんは、私の名前を確認してからその書き付けを手渡してくれた気がします」
「あり得る話としては、その学生を除いた魔法関係者の手に渡るのを恐れた、といったところか。多少魔法の心得があったところで、一見しただけで分かるほど容易い仕掛けではないのう」
「逆に言えば、魔法使い、特にマナの使い道に長けた人物には見破られる危険があったと」
「仕掛けの正体を知ったワシでも、すぐには読み解けておらんからな。暗号化されておるようじゃ。オージェスのやつは……メッセージそのものと、それを解読する手段とを分けておいたとみえる。つまり、自分が害される危険は十分に認識しておったことになる」
「待ってくれ。協力者である学生に、そのままの情報を伝えておけば済む話じゃないか」
「む。それは、そうじゃな」
ミリエルの口にした結論に、俺は疑問を呈した。
事件の黒幕ないし暗躍する敵が存在するとして、その相手に気づかれたくないのは理解出来る。
どの程度相手の正体を掴んでいるか、あるいは手口を把握出来たかなどは重要な情報だ。最悪の事態に備えて、それが散逸しないようにする。
そして切り札として使用しうる、信頼できる相手に託す。ここまでは理解出来る。
だが、どうして兵舎の一警邏の手元に、本人も分からない形で運ぶ必要があったのか。
その紙切れに透明化、暗号化されたメッセージがあると知らなければ、廃棄される危険もあった。この警邏の几帳面な性格を知っていればそうそう捨てるとは思えないが、しかし事情を知らぬ第三者がゴミと思って処分してしまう危険は否定できない。
何かを勘違いしている。あるいは、何か見落としがある。
紙片のメッセージの前から、ずっとその感触が拭えないでいる。
「ちょっと混乱してきたな。そもそもこれは、本当に学長オージェスからのメッセージなのか? ダイイングメッセージには早すぎるし、告発のための武器としては回りくどすぎる」
「内容が読めんことには、その保証もないのう」
「あの」
「じゃがなヨースケ、わざわざマナ溶液を使用して、こんな形で遺されたメッセージが、重大なものでないはずがないじゃろ。少なくとも、手間に見合っただけの言葉が書かれていると考えるべきじゃ」
「あのー! ご主人様も、ミリエルさんも、置いてきぼりを喰らってる警邏の方も、ワタシを蔑ろにしすぎじゃないですか!? このスピカの専門分野と! 先ほども申し上げました! よね!?」
「あ」
「すまん。忘れておった」
「ひどっ。いいですいいです。ここんとこちょっと影が薄いこのスピカこそが、ご主人様にとっての道標であることを念入りに思い出させてあげますから」
スピカは俺たちの疑問に一言で決着を付けた。
「皆さんが議論しているあいだに、ワタシはすでに解読を終わらせていたのです。ふふん。さっそく書いてあったメッセージを読み上げてみましょう。『分かっているとは思うが』……あれ?」
「スピカ」
「さ、先を読み進めますね。……ええと『お前の行動次第では、どんな結果が訪れるか。くれぐれも軽はずみな行動に出ないように』」
「……は?」
「え?」
「それだけ、ですか」
「……はい。これだけです」
俺もミリエルも、警邏の彼もスピカも、一様に黙り込んでしまった。
なんなのだこれは。
秘密のメッセージは、事件の黒幕を暴き立てるものではなく、ひどく私信めいたものだった。
しかも、その文面にはどこか不穏なものが感じ取れる。
「前提が間違っておった、と考えるしかないのう」
「これはオージェスの遺言ではなく、誰かとこっそりやり取りをするために、たまたまこの紙片がちょうど良かったと」
「オージェスの記名も、相手の名前も出て来ないが……誰が宛先かは特定が容易いのう」
「この紙を兵舎まで運んできた学生、ですか」
「うむ。その学生は特殊な読み方を先に教わっておったんじゃろ。ゆえに、オージェスがこの兵舎に宛てた紙片を運ぶ役割を与えられたと同時に、その文面を読むように強要されてもいた」
「ぱっと見、脅迫のように見えるな」
「分からんぞ。もしかしたらさらに別の意図があるのやもしれん」
「ミリエルさん。思ってもいないことを慰めのように言わない方が」
「文章だけを素直に読めば、その男子学生が何かをした場合、そのために大きな不利益を蒙るぞ、とオージェスが忠告している風に読み取れるわけだが」
「学長が、学生相手に、そんな風に語るって」
「……いや、まさかな。そんなことはあるまいが……可能性としてはあり得る、のか?」
「どうしたミリエル。眉をひそめて」
「そうですよミリエルさん。すっごく変な顔をして」
「スピカよ、いま、なぜわざわざヨースケの使った表現から変えた。ライバルを蹴落とすために熱心な意地悪なご令嬢そっくりの声色じゃったぞ。やはり性根に問題が……」
スピカとミリエルのやり取りはどこか空々しかった。
秘密のメッセージが意味することを、最悪のストーリーを、全員同時に思い浮かべたせいだろう。
咄嗟の軽口では、この重い空気は変わらなかった。
誰からともなく黙り込んで、その想像を否定するだけの理由を探しているようだった。
俺は亡くなった学長オージェスという人物を伝聞でしか知らない。
高潔であったかどうかはさておき、その力量、その手腕はウィラーをはじめとした弟子や学生たちから尊敬を集めるに値するものはあったはずだ。
逆に言えば、客観的な事実のみで判断しうる立場でもあると言える。
努めて、学長を善良な人物であると、まっとうな人格者であるとの想定で推論を重ねていたが、手元に揃ってしまった事実と証拠の組み合わせ方次第では、真逆の情景が浮かび上がるのかもしれない。
警邏の兵士は青ざめた顔で、その推理とも言えない邪推を開陳した。
このなかでは、一番学長オージェスに対して尊敬と信頼をしていたはずの彼の声は、暗かった。
「ずっと、強姦事件が明るみにでなかったのも、発覚してからも捜査が進展しなかったのも……オージェスさまが中心だったから、なんですか?」
「それは」
「はは……。そりゃあ、そうですよね。私は、私たちは、頼みにする相手を間違ったんですね。加害者本人に、あるいは加害者の仲間か協力者に解決を求めたって、まともな調査なんかしてくれるはずがない。……魔法使いが相手なら、私たちの手ではどうしようもないから、だから託して待っているしかなかったのに……そんなの、そんなのって」
「待て。まだ、そうと決まったわけではない」
「だったら! だったら、その書き付けの文章はなんなんですか……。どう聞いたって、秘密を知った相手を黙らせるための言葉じゃないですか! あの学生は、そのメモを私に渡すとき、いったいどんな気持ちだったんでしょうね。……犯人の手で踊らされている私たちを嘲笑っていたのか、それとも、何も知らないことを憐れんでいたのか」
「スピカ。文言は、その本当に正しいのか」
「すみません。間違いなく、この通りですし……これ以外のメッセージはありません。書き付けられた文字と比べてみても、オージェスさんの直筆であることは疑いようがないかと」
「真相に近づくための手掛かりになるかもしれない。……確かに、お二人の仰る通りでした。ですが……オージェスさま……いえ、前学長は、本当に自殺だったのかもしれません。あまりにも醜悪だった自らの行いを悔やんでのものか、あるいは誰かに秘密を握られて逃れられぬと悟ったか。殺されたのだとしたら、被害者から復讐でもされたんじゃないでしょうか」
「いいのか、それで」
「他に、どう考えろと?」
「あんたはオージェスのことをずっと信じてたんだろ。きっと事件解決のために、必死に努力していると期待していたんだろ。にもかかわらず、この紙切れ一枚でオージェスが犯人の一味だったと、そう結論づけて良いのか?」
「私には見る目がなかった。救いがたい間抜けだった。それだけの話です。選ばれた者……魔法使いであるあなた方にはきっと分からないでしょう。犯人を特定できなかった自分たちの無能さへの怒りも、もし目の前に犯人がいても捕まえる力を持っていない無力感も……それでも、オージェスさまだけは、違うと思っていたのに」
「やめよ、ヨースケ。いまは何を言っても無駄じゃ」
兵舎の一室の空気は最悪だった。
陰鬱で、寒々しい。
街中の明るさと比べるとこの周辺の明かりは少なく、窓の外は暗闇で埋め尽くされていた。
しばらくの沈黙のあと、警邏の彼は絞り出すように口にした。
「……お二人とも、ご協力ありがとうございました。ああ、姿の見えないスピカさんも」
「大丈夫かの?」
「ええ……。お二人は、まだ調査を続けられるのでしょう? そちらの事件について、大したお役には立てなかったでしょうが……正しく解決することを願っております」
「最後にひとつ聞かせよ。お主の目から見て、オージェスはそうした犯行に及ぶ人間じゃったか」
「一度でも……たった一度でも、そんな風に感じていたなら、期待なんかしませんでした」
「そうか。参考になった。あとはワシらに任せよ」
「……え?」
「お主の見る目は確かじゃった。すぐさまワシらを信じたじゃろ? であれば、お主がオージェスを信じたことも正しかったと考えるには十分じゃよ。……さて、ヨースケ。次に話を聞くべき相手は分かっておるな」
「問題の学生だな」
「どちらにせよ、答え合わせは必要となる。一連の事件がすべて繋がっていて、なおかつ本当にオージェスが首魁であったのなら、やつの死後にワシらが狙われたのはやっぱりおかしいじゃろ」
「少なくとも、真相を調べられたくない誰かが残っていることになるな」
「それが誰にとって不都合な真実なのか。答えに辿り着くには、あともう少しじゃよ」
俺たちは兵舎を辞して、ウィラーに用意してもらった宿に向かうことにした。
警邏の彼は、俺たちに敬礼をしたまま、無言で見送ってくれた。
夜空には月が浮かんでいたが、街中の明るさ眩さに霞んでしまっているようだった。
マジカディアの長い一日が、こうして終わりを告げた。
ミリエルは隣の部屋だった。俺とスピカはベッドの上で明日の予定を語り合った。
さすがに疲れていたのだろう。目を閉じてしまえば、眠りに入るまでは早かった。
翌朝、俺たちはドアを激しく叩く音によって起こされた。
聞けばウィラーからの使いだという。
慌てた様子の彼が口にした内容は、眠気を吹き飛ばすには十分だった。
「学長代理のハルマックが、死んだ前学長の悪事を告発した?」




