第八話 『大切なものは』
辿り着いたのは、牢屋に連れ込まれたあの建物ではなく、歓楽街そばの一画であった。
腰を落ち着けると、お口に合うか分かりませんが、とお茶を出された。
「すみません、本当にすみません」
誤解とはいえ、手間を掛けさせたことには変わりない。
今度はこっちが平謝りである。
警邏の兵士は笑い皺のある表情をやわらげ、口を開いた。
「いえ、捜査上、意見がぶつかり合うことはあるでしょうし、そういった経緯かなと。ただ、一般の方がそうした事情を見ただけで察するのは難しいと思われますので、ご配慮いただければありがたいです」
「申し訳なかったです」
「お二人は学院の調査にいらしたと聞きましたが、今は街の方でもピリピリしていまして……たいへん心苦しいのですが、行動にはご注意いただければ幸いです」
ミリエルと顔を見合わせ、俺が話を聞き出すことになった。
「何人もの女性が襲われた事件ですか」
「その通りですが、どちらでお聞きに?」
「いえ、少し前に正義感に燃えた妙齢のご婦人に教えていただきまして」
「……ああ、なるほど」
そうした人物に心当たりでもあったのだろう。警邏は困ったように眉をひそめた。
「今始まった話ではなく、数年前からの事件でしてね……許し難い犯罪ですが、我々の力及ばず、未だ犯人検挙にはいたっておりません。外から来た方々にまで伝わるとは、お耳汚しですね。本当に申し訳ない」
「捕まえられないのはともかく、事件が起きたのはあなた方のせいじゃないでしょう。あまり気に病まない方が良いのでは」
「いえ、ここマジカディアは我々の街です。たとえ魔法使いでなくとも。だからこその恥、だからこそ自分たちの力不足が口惜しく」
雰囲気が暗くなってしまったが、俺から切り出した。
「事件のこと、特に被害者と捜査状況について、もう少し詳しく教えていただいても?」
「それは……」
「あまり広めたくない話なのは分かっています」
「では、何故に」
「こっちの事件と関わっているかもしれないからです」
さすがに、いまだ証拠のひとつもない学長の自死への疑義に関して、詳しく語るわけにはいかない。
しかし上級捜査員というミリエルの立場をすでに知っている相手だ。概要だけをさらっと伝えて協力を求めた。
どう繋がるのかが分からず、最初は渋っていた警邏だったが、女性を襲っていた犯人が学院関係者である可能性は認識していた。
そして死んだオージェスが調査協力の陣頭指揮を取っていたことも。
「とすると、お二人は同一犯であると見ているのでしょうか?」
明言しなかった部分にまで踏み込んで聞かれた。さすがに察しがよいが、気が早すぎる。
「無関係ではないだろう、とは思ってる。タイミングが重なっただけの、不幸な偶然って線は捨てきれないが……それならそれでいい。無関係だった、という事実が判明するだけでも、そっちの捜査にはプラスになると思うが」
「そう、ですね」
具体的には、学内で調査することの困難である。
俺のうろ覚えだが、日本の大学には大学自治という概念があった。警察が無闇に踏み込めないという意味では、ここマジカディアの方がよっぽど厳しいはずである。街の権力の中枢であり、一般人では太刀打ちできない魔法という強大な力の保持者達の組織でもある。
つまり、まかり間違って学院が先に強姦魔を見つけ、あまつさえ庇うようなことがあれば、もはや手の打ちようが無い。たとえ証拠を見つけても、警邏の下っ端では門前払いされるのがオチである。
そこで効力を発揮するのが、わざわざ自分で用意したであろうミリエルの立場である。
大魔法使いであると名乗った方が話が早いが、そこは自重したのだろう。ちゃんと正規の手順を踏んだことで、上位機関足る国から派遣された上級捜査員である、という体で動けるわけだ。
「……よし! 分かりました。私の権限の及ぶ範囲で、捜査資料の方をお見せします」
「頼んでおいてなんですが、大丈夫なんでしょうか」
「上はまだ何か別の情報を握ってるかもしれませんが……私たち警邏に回ってる分であれば、なんとか言い訳が効きますので。優先すべきは市民の安全ですし、手詰まりなのは確かなので」
「ありがとうございます」
警邏はあくまで警邏に過ぎない。
彼らは王国に所属する兵士ではあるが、街中の巡回や防犯、もめ事が起きた際に現場に向かって暴徒を鎮圧したり、犯罪者を捕まえるのが仕事なので、捜査員とはわけが違う。
あえて日本の警察組織風に当てはめるなら、交番にいるお巡りさんの役割だ。犯罪の調査、事件の捜査という点では、ミリエルが名乗っている捜査員の方に当てはまる。
こうした喩え方をするのなら、下級捜査員は一般的にイメージされる刑事のそれであり、上級捜査員は公安だとか検察の上層部だとか、あるいは上級官僚ということになるだろう。
しかしながら、都市内の治安を維持するために最前線で働いているのは、やはり警邏の兵士の方である。地道な聞き込みや、事件発生に対する予防的なパトロールのため、熱心に動き回っているわけだ。
「資料は別所にある兵舎に置いてありますが、足を運んでいただいても?」
「こんな時間でも構いませんか」
「もちろん。……お急ぎなんですよね?」
「すみません。助かります」
「いえ。私……我々としても、早く解決するなら、それに越したことはありませんので」
亡くなった学長オージェスが事件解決に協力的であったとしても、組織そのものの縄張り意識による面倒は避けられないし、ましてや相手の懐に乱暴に手を突っ込むような真似はできない。
歓楽街を離れ、案内されるまま向かったのは、街の片隅にある一区画だった。
学院の厳粛さとどこか現実離れした空気感とはひどくかけ離れて、あるいは歓楽街の夜を照らす光を拡げているさまとは大きく異なり、どこかひっそりとした空気の漂う場所であった。
単純な表現をするのなら、敷地が狭い。
そして、建物がひどく無骨で質素だった。
牢屋に叩き込まれた最初の詰め所よりは大きいが、しかし街全体をカバーする兵士全員が寝食を共にする場所とは思えない規模であった。
「これはまた、なんといっていいか」
「すみません。……失望されましたか」
「これで、ちゃんと仕事になるんですか」
「そう思いますよね。少数精鋭と言えれば格好良いんですが、実態はただの窓際部署みたいなもんです。普通の状況であれば、これでも仕事になっちゃうんですよ。なにしろ、我々の仕事は街の防犯パトロール、食い逃げ班の確保、もめ事の仲裁……それから不審者のチェックくらいですから」
「なら、事件の捜査は?」
「担当――いえ、普通の街とは兵士の役割が違うんです」
警邏の彼は、寂しげに口にした。
「ここはマジカディア。魔法学院のためにある街、魔法使いの街なんです。そんな場所で魔法も使えない王国兵士が、いったい何の役に立つというんです?」
「最初の、あの詰め所の牢番は」
「あっち側の人間です」
「……なるほど」
彼の言葉でようやく得心がいった。
警邏――王国の兵士の職分は、他の街ならともかくこの街では極めて狭く限定されている。
その理由は、一般的な兵士では、強力な魔法使いに対抗出来ないから。
牢番が殺されたことを知った際、ミリエルが懸念していたことと重なる。その通りだ。犯罪者を見つけても逮捕鎮圧できないのでは、ただ被害が拡大するだけだろう。
ゆえにここマジカディアでは、治安維持と警察機関すらも、学院側の息の掛かった組織、人間が担っているわけである。
王国が魔法を使える兵士を大量に派遣する手もあった。
しかし、そんな無駄な真似を、どうしてわざわざする必要があるだろう。
俺も魔導士、ミリエルも大魔法使いで、ティナも一流の魔法使いと――周囲が魔法を使える人間ばかりだから忘れがちだが、この世界において魔法使いはむしろ少数派――希有な存在であり、魔法学院所属の学生たちはエリートそのものなのだ。
そんなエリートの集う、知性と武力を兼ね備えた魔法学院という組織がある以上、これに自治を任せてしまった方がよっぽど効率的だと考えるのは、当然といえば当然だった。
「とすると、上というのは」
「捜査機関はともかく、行政の方は王国から出向してきた役人主体で回してますので――あの、カゲヤマさんも目にした方です。ミリエルさんがこてんぱんにしてしまった、あの方が学院との折衝役というか、潤滑油というか」
「……みなさん、苦労してますね」
「ですね……」
思わぬところで悲哀を見てしまったが、俺はコートの襟を正して、資料を受け取った。
兵舎に来るまでは世間話くらいはしていたミリエルも、警邏の彼と話しているあいだ、何かを考えるように黙り込んでしまっている。
場所を貸して貰って、俺はテーブルの上に資料を拡げた。
といっても、そう多いわけでもないし、複雑な内容でもない。
ここ三年ほどのあいだに、八人の少女が被害にあったらしい、という調査報告である。
「らしい、というのは」
「年頃の女性の前で細かく語るのははばかれますが――」
「ワシならかまわんぞ。というか、お主も王国兵ならば、捜査員相手に気を遣う必要はあるまい」
「では」
警邏は痛ましそうな表情をしつつも、簡潔に説明を始めた。
被害者とされる女性は全員が未成年であり、中には魔法学院の学生も含まれていた。
しかし、全員が口を揃えて言うのは、被害を受けた記憶が一切ないのだという。
「どういうことだ?」
「彼女たちが発見された状況から考えると、性的な被害にあったことは間違いないと思われます。初期の被害者はともかく、事件が表面化してからは……その、女性兵士に確認もさせましたので」
「行為の最中には意識がなかった、と」
「ええ。前後不覚、あるいは意識を失わせたあとに性的暴行に及んだ、と考えられます」
「……いまいち歯切れが悪い言い方なのは、何か理由が?」
「ひとつは……自覚症状がないのです。被害者たちが、何が起きたかを分かっていなかった」
「ありうるんですか」
「普通は、ありえません。行為に及べば、どうしたって痕跡は残るものです。しかしそれがない――非常に狡猾な魔法使いの関与を疑ったのはこの点からです。そもそもそんなことが魔法でも可能なのか、我々はそれを問い合わせました」
魔法使い犯人説が有力となれば、魔法学院側とてある程度の調査はするだろう。
犯人の正体次第では匿うなり隠蔽するなりもありうるだろうが、しかし初手はまず外部の人間を疑うのが自然であるし、都合が良い。
また、被害者に学生がいる。
その一点でも、学長がこの事件の調査に力を入れるのは当然だ。
「学長オージェス氏によれば、一般的に知られている魔法では不可能である、が回答でした」
逆説的な言い回しだった。
一般的に知られていない魔法であれば、不可能ではないと言っているに等しい。
しかし、犯人の心当たりがないとのことだった。これが魔法であるとすれば、一族の秘技や禁術に属する技術と考えられる。そんな特殊な魔法が使えるなんて事実は、秘匿して当然だとも。
オージェスは自分で学院内の調査をする予定だったらしい。犯人に察知される危険や、情報漏洩のおそれがあるとのことで、情報のやり取りは何か大きな進展があるときに限ると取り決めた。
そして、それから数ヶ月が経った。
何か新情報は無いか、その望みを持ってオージェスの返答を待ったが、定期連絡には進展は無しとの文言のみだった。
オージェス自殺の一報が流れたのは、今月の連絡を待っている矢先のことだった。
捜査は振り出しに戻ってしまった。警邏の彼は、握りしめた拳を震えさせた。
「いろいろ、邪推はしますよね。タイミング的に。……いえ、話を戻します。自覚がないということは――被害者の数は、実はもっと多いのかもしれない。この懸念も生まれました」
「……さっき言ってた、らしい、というのは」
「我々が事件として認識、確認した数が、八名だったのです。あるいは自覚があって隠している女性もいるかもしれませんが……ことがことだけに、表立って申し出てもらうにはいささか困難が伴います」
「大っぴらに聞き回るわけにもいかないか」
「ええ。しかし、もう一点、不可解な点が見つかりまして」
口にするだけでも気落ちする話だが、警邏の彼は嘆息を繰り返した。
「三つ目は、妊娠者がいない、という点です」
「む?」
ずっと考え込んでいたミリエルが、顔を上げて、露骨に眉をひそめた。
俺は言葉に詰まった。警邏の彼は、嘆息した。
「こちらは連続婦女暴行事件として、一連の事件はすべて同一犯あるいは同一グループの犯行であるというのが我々の見解なのですが……一般的な強姦事件であれば、これだけ被害者がいる場合、望まぬ妊娠をしてしまう娘さんがいることは珍しくありません。この手の犯罪者が、被害女性のことを慮って避妊を考慮するのは考えにくいので」
ミリエルを横目で探ると、俺の視線に気づいたのか、首を縦に振った。
魔法的な手段をもってしても、事後に避妊を試みることは難しいらしい。
「しかし現実には、誰もそういった状況に陥ってはいない、と」
「不幸中の幸いと申しましょうか……あるいは、何らかの理由があってのことなのか。魔法というものを理屈としては知っていても、深くは知り得ない我々ではそれ以上、犯人の手段や目的について推し量ることが難しいのです。ゆえに、こまめに巡回して、この事件のことを聞き回って……新たな事件の発生を牽制するくらいしかできず……はがゆいばかりです」
「ふむ」
資料に目を通した限りだと、彼の言葉と記載の内容は相違ない。
書かれているのは被害者の名前や発見された状況が大半であり、犯人に繋がる情報はほとんど見当たらない。
被害者達はみな一様に被害を受けた記憶がない、あるいは記憶にないと証言している。共通項は、最後に覚えているのは道を歩いている最中だった、ということくらいか。
「室内に侵入された上で襲われた、ということはなかったと」
「分かりません。……一連の事件でこうして被害者として認定されたのは、意識を失ったまま路上で発見された方だけでして。その方達は、買い物に行く途中だったり、繁華街からの帰り道であったり、あるいは早朝に魔法学院へと向かう道すがら――気がついたら我々に保護されていた、と仰っていました」
「ひとつ聞きたいのじゃが。その娘らは、本当に襲われたのか」
「狂言だと? それこそまさか。彼女たちは、純然たる被害者です」
これは聞き逃せなかったのか、警邏の兵士は気色ばんだ。まさかそんなことを言われるとは思わなかった、という失望が顔に浮かんでいた。
ミリエルは小さく頭を下げて、言い直した。
「そうではない。そうではないのだ。ワシが聞きたいのは……、その」
「ミリエル。何を言いよどんでるんだ?」
「ワシとて女の身であるからのう。尋ねる内容が内容だけに、多少なりとも気兼ねをするんじゃよ。まあ、話が進まんから率直に聞くが……被害者の娘達はみな処女であったか? ああ、もちろん被害に遭う前の話じゃ」
「それは」
話の流れに憤りを禁じ得なかった彼の顔に、それ以上の当惑が浮かんだ。
ミリエルはその幼くも可愛らしい顔に心底嫌そうな表情を浮かべて、口の端を歪めた。
「やはりか。ヨースケよ、より一層タチの悪い話だったみたいじゃぞ」
「ミリエルさん……なぜ、そう思われたのですか」
「簡単な話じゃよ。……誰一人妊娠もせず、犯人の痕跡もまったく残っていない。つまり体液の付着や残存すらなかったことになろう。報告書を見る限り、暴力を受けた様子もないようじゃし。だというのに被害を受けたかどうかの判別が可能。すなわち、判断した手段は、膜の有無ということになるな。意識を失う直前までは守り続けていたはずのそれが、気がついたら失われていた。なるほど、確かに被害者じゃよ。気に喰わぬ。まったくもって気に喰わん!」
「……は?」
俺は一瞬、ミリエルの言っている意味が理解出来なかった。
「おい、それって」
「犯人は、年頃の若い娘の意識を奪い、襲って……純潔だけを奪って路上に置き去りにしたことになる。趣味が悪いどころの話ではないな。しかも、そんなことを複数回繰り返している狂人が、いま現在も街に野放しになっておるわけじゃよ。……保護された上でも被害者かどうか判然としない者がいるのは、なかにはすでに経験済みの女子もおったからじゃな」
「……仰る通りです」
「吐き気がする手合いじゃな。しかし、今は話を戻すぞ。ワシが聞きたかったのは判別手段ではなく、実行犯の痕跡についてじゃよ。……重ねて問うが、本当に一切、体液は残っておらんかったんじゃな?」
「ええ……果たして、それが不幸中の幸いと言えるのかどうかすら曖昧ですが……純潔の保持など、あとになって証明する手段はないに等しいわけです。これをもって被害を受けた、事件があったと証明するのは難しかった」
「早熟な娘なら、十二、三で恋人を作る者もおるからのう」
「近年はマジカディアでも、その手の風紀の乱れは問題になっておりますが……しかしそれはそれ、これはこれです。どういった理由か、犯人は破瓜の痕跡まで綺麗に拭っていったようでしてね。狂人の理屈など理解したくもありませんが、被害者自身に被害の記憶もない。行為を受けた痕跡もない。被害の事実すら証明するのが困難という三重苦に、当初は事件として扱うことすら止められたくらいです」
憤懣やるかたない、といった彼の声に、ミリエルは嘆息で応えた。
それから、小首をかしげ、ミリエルは淡々と話を進めた。
「ワシは詳しくないのじゃが、性犯罪者というものは、おおむね欲望のはけ口として女性を襲うものと考えてよいかの?」
「今まで捕まえた犯人の場合は、そうでした。衝動的な性欲に突き動かされて、乱暴狼藉を働くのが基本です。酔っ払って自制が効かなくなった者、周到に計画を立てて夜道で待ち構えていた者もいましたが、彼らは理性を持ちながらも、それを脇に置いて犯行に及んでいたきらいがありました」
「そうした者は、やはり処女を好むものかのう」
「そこは、各個人の嗜好によるようです。ただ、多くの場合は自分に逆らえない相手、反撃されにくい相手として未成熟な娘さんを狙う傾向があるようです」
「ではそのか弱い獲物を捕まえた場合――決して反撃されず、好き勝手にもてあそべる状況を作り上げたと仮定して――その対象となった乙女を手に入れておいて、精を放たぬことなど、あるじゃろうか」
ミリエルの問いに、彼はハッとした様子で目を見開くと、首を横に振った。
「私の知る限りでは、ありません」
「ミリエル……。何を想定しての質問なんだ、これは」
「うむ。……果たして、犯人はどちらなのかと思ってな」
「必要がないから、やらなかったのか。……したいけど、できなかったのか」
思わず口を突いて出た言葉に、ミリエルは肩をすくめてみせた。
意図についてか。それとも結果についての話なのか。
警邏の兵士は、唇をわなわなと震わせて、調査結果、報告書を手に取った。
一枚一枚、そこに書いてあった文字を舐めるように読み直して、顔を強ばらせた。
「まさか。犯人は、男じゃないかもしれない……!?」
しかし、ミリエルはかぶりを振った。
「この状況だけでは結論は出せん。犯行に及んだ人物は、女かもしれんし、老人かもしれん。あるいは子供の可能性だってある。やはり男だったということもありうる。そもそもこれは、強姦事件なのかどうかすら不確かじゃよ」
「……で、ですが」
「純潔を散らしたからといって、性行目的だったとは限らん。処女膜を奪うこと自体に意味を見出していたのかもしれんし、尊厳を傷つけたり、愉快犯的な動機とも考え得る。体液が残っていなかったのは何らかの道具を用いたからかもしれんし、あるいは未知の魔法によってすべての痕跡を消し去った可能性だって否定はできん。オージェスが考え、そして懸念したように、極めて特異な魔法であれば可能であろうが、しかしこれがその魔法によるものであると断定するだけの物証すらないわけじゃ」
ひとつの想定が崩れ去り、積み上げてきたものすら失われてしまった気がしたのだろう。
目の前のテーブルに手を着いて、悔しげに唇を噛み締めた彼を見た。
ミリエルは、そんな彼に優しく伝えた。
「絶望するでない。確かに、この事件の状況は厳しい。悲観的にもなろう。……しかし、ワシらがおる。そもそもワシらが、なんのためにこっちの事件に首を突っ込んだか思い出すがいい」
「オージェス様の、自殺」
「その自殺を大いに疑っておるからこその捜査じゃよ。お主から見て、オージェスという男は抱えた懸念に決着も付けずに自死を選ぶような男か?」
「いえ……決して、そんなことはないと思います」
「材料不足なせいで、やつが自殺した可能性も残ってはおるのだが、その場合でも動機の面に納得がいかん。近しい者からはオージェスが悩みを抱えていたらしいとは聞こえてきたが、誰一人としてオージェスの悩みの中身について知っている者はおらんかった。この処女狩りの事件と、不審たっぷりな学長の死。連動しているとすれば、逆側から攻めてみた方が解決に近づく気がしてならん」
「まさか……オージェス様は、こちらの事件を調べていたせいで、殺された、と?」
「何かを知ったか。何かに気づいたか。死なねばならぬ、殺さねばならぬ理由があったのか」
ミリエルは大きく息を吐き出して、静かに問いかけた。
「あらためて聞こう。オージェスは本当に何も分からなかったのか? それとも、何かに気がついた上で伏せたようなことはなかったか? なんでもよいぞ。進展無しとの言葉以外に、あやつが寄越したものがひとつでもあれば」
「あ! ……い、いえ、でも」
「なんじゃ。あるならさっさと出さんか」
彼は慌てた様子で引き出しから、数枚の紙を引っ張り出してきた。
乱暴に扱った痕跡か、拡げた紙には無数の皺がついてしまっていた。
捨てなかったのが不思議なくらい、単なる走り書きにしか見えない紙切れだった。
「……その。こちらです。すみません。渡されたのがこんな紙きればかりでしたから、あまり丁寧には保存してませんでした」
「なるほどなるほど。たしかに『申し訳ないが、進展は無し』と書いてあるのう。して、これは誰が持ってきた」
「え? いえ、学院の方でしたが……」
「お主が言ったんじゃろ。オージェスは学院関係者が犯人である可能性を考慮していた、と。連絡役は慎重に選んだはずじゃ。犯人とは絶対に無関係であると確信できたか、あるいは非常に信頼している相手か。……後者であれば、この一件でオージェスに協力していても不思議ではあるまい」
切れたと思っていた糸が、辛うじて繋がった感じだ。
オージェスの死によって失われた真相への道筋が、残っているかもしれない。
その希望が見えた途端、警邏の彼は必死になって記憶を呼び起こそうとしていた。
「な、なるほど! それを持ってきたのは、毎月同じ方で……ええ、間違いなくマジカディアの生徒の方でした。男子生徒だったかと」
「オージェスの弟子のウィラーではないのだな?」
「ああ、あの警備主任の……あの方はこちらに訪ねて来たことすらありませんが」
ミリエルの手元に渡った紙を、俺も覗き込んだ。
「なんじゃ、ヨースケその顔は。何か思いついたのか」
「こういう場面で出てくる紙だと、あぶり出しが定番だと思ったんだが……」
何の変哲もない紙である。
あぶり出しに使うインク代わりのものは、柑橘類の果汁あたりが入手しやすいが、書いた段階で透明で、熱を加えて色が変わるのであればどんな液体でも構わない。
普通のあぶり出しであれば、よく見れば何かが書かれていることは分かるものだ。
この紙には、一見すると何ら違和感がない。
俺の発言に呼応するように、スピカが何か言いたげな気配を出した。
脳裏を過ぎったのは、魔導書の白紙に、はっきりと文字が浮かび上がるイメージ。
「果汁じゃなくて、魔法か何かで文字を描いた、とか」
「それじゃ! でかした……っ!」
ミリエルは矯めつ眇めつ眺めていた紙の一枚を、マジックライトの光に透かしてみた。
「仄かな光よ、我が前を照らせ。《灯光》 ……ふむ」
「どうだ」
「ダメじゃな。しかし、仕掛けがあるのは間違いない。とすると――」
思案顔のミリエルに、俺はひとつ同意を求めた。
なんじゃ、と声を出さずに問い返すミリエルに、コートのポケットを指し示す。
ちらりと警邏の彼を横目で覗き見て、悪戯っぽくニヤリと笑った。
俺はスピカの背表紙を撫でて、出番だと伝えた。
「では、お許しも得たところで、このスピカが道を指し示すとしましょう!」
「へ?」
突然聞こえてきた聞き慣れぬ声に、警邏の彼は慌てた様子で周囲を警戒する。
余人の居ない兵舎だったからこそ深いところまで喋っていたのだ。その前提が覆されれば、彼でなくとも焦ると思われる。
あるいはオージェスの死と事件の関連が疑われている以上、危機感を抱くのも当然か。
なんであれ、唐突に美少女の声が聞こえてきて狼狽する彼に、ミリエルが告げる。
「気にするでない。姿こそ見せられんが、この声の主はワシらの味方じゃよ。知恵者であることはワシが保証しよう。してスピカよ、この紙片をどう見る」
「魔法により文字を記された紙、これこそワタシの専門分野であることをお忘れでしたね?」
「あー、なるほどのう」
ふふーん、と魔導書がありもしない胸を張り、自信ありげな笑いをこぼす。
第三者の声が聞こえてきたことに動揺していた彼も、俺とミリエルの様子を見て、なんとか平静を取り戻したように見えた。まだ混乱しているだろうに、たいした自制心である。
ミリエルが無言で先を促した。
スピカはずっと沈黙していた鬱憤を晴らすように、語り出す。
「とはいえ、魔法に不慣れな兵士の方は当然、魔法に習熟しているお二人ですら、この仕掛けを一見して解き明かすのは不可能でしょう」
「すでにこの紙の込められた謎は分かっていると?」
「答えを言ってしまえば、そこに描かれた文字のインクは――マナ溶液なのです!」
スピカは高らかに、謳うような口ぶりで、その答えを告げた。
ここで出るか、マナ溶液。




