第五話 『ワタシは、ご主人様専用の』
清・純・派! 清・純・派!
すべきことはあと二つだ。
まず、こいつとの契約。
「して、くれるんですね」
潤んだ瞳で見つめられている気分だった。
熱っぽい声。
感極まった雰囲気。
黒い表紙の魔導書からそんな感じを受ける。
「ずっと焦らされるから……もしかしたら、シてくれないんじゃないかって不安だったんです。でもやっぱりご主人様は、ワタシを求めてくれる。そうです、よね」
艶やかな口調は、少女らしい声質とほんの少しだけずれていて、だからこそ色っぽい。
聞くべきことはほぼ聞いたが、大事なことを教えてもらっていない。
契約の仕方だ。
火照ったようにうわずった声を上げた魔導書は、小さな声で語り出した。
「まず、ページをめくってください……ゆっくりと、少しずつ」
なんというか、動揺する。
たどたどしく表紙を開き、いたいけな白紙ばかりのページを、この手で一枚ずつ繰ってゆく。
はらり、はらりと、色のないページが前へと送られていった。
他人に触れられたことのない、無垢な白がどこまでも続いている。まだ何色にも染められていない書物には先がある。
「そこです。そのページを、なでて……そう、さわって、ください」
あまりに真っ白だったから、汚してしまうことを恐れて、そっと触れるしかない。
ゆっくりと。
やわらかくて、なめらかで、紙の感触とは思えない。まるで体温のように、触れている場所に熱が生じてくる。
そのページが、だんだんと生気を帯びてゆくように見えた。
呼吸器など存在していないはずの魔導書が、籠もった息を漏らすのが耳朶を打つ。
「次のページへ」
言われるままにページをめくると、あっ、と魔導書から声が漏れた。
「ご主人様……もう少し、優しく……お願いします……っ」
全身で息をしているかのような、途絶えがちな声。真っ白なページは続く。指示されずとも、俺の手がその白紙をくまなく撫でる。
乱暴に弄ぶように、じっくりと、じわじわと。
あ、あっ、と声が漏れる。
なんだか楽しくなってきてしまい、俺はさらに続ける。
「そこじゃなくて……っ」
反応の良さについつい動きに複雑さを混ぜてみた。そして気づく。
白紙といっても、触れた場所は完全な純白ではなくなる。光に透けて、乳白色の感じもある。
ページは薄いにも関わらず、とてもしっかりとしている。
美しい少女の肌が白く、きめ細やかであるのと同じに、滑らかで、柔らかくて、艶やかな紙だった。
その紙をくすぐるように、まさぐるように、めくったり戻したりした。
あっ、あっ、あっ、と魔導書が良い声で鳴く。
嫌がっている感じではなく、喜んでいるというか、どこか気持ちよさそうにも聞こえる。
反応がいちいち良いので、なんだかいけないことをしている気分になるが、あくまで本。
魔導書を触っているだけなのだ。
勘違いしてはいけない。俺とこいつは、真面目に契約をしている最中なのである。
上手くいっていると判断して、ペースを速くしたり、緩急を付けたりもしてみた。
漏れる声の様子を確かめていると、突然、あぁ、とくたりとページの張りがなくなり、力が抜けたようになってしまった。
しまった、やりすぎたか。
雰囲気に呑まれていたらしい。
いや、ただページを行ったり来たりさせていただけなのだが、つい。
手を止めたあともしばらく沈黙していた魔導書は、少し低い声を出した。
「ご主人様、遊ばないでください」
「……ごめん」
俺はなんてことを。
「ご主人様も若い男性です、気持ちは分からなくもありません! でもワタシは魔導書なんです! そこを忘れないでくださいね。いくらワタシがご主人様専用で、どれほど尽くしたい気持ちがあるとしても、こう、色々と世間体とかあるんですから!」
魔導書は慌ててこう付け加えた。
「いやあの、ワタシはご主人様のモノですし、望みを叶えて差し上げたいのは山々です。なので、そういうことがしたいならかまいませんが、ワタシにもすべてを見られる覚悟とかページ……もとい気持ちの整理とかありますし、あとこんな表紙に悪い野外じゃなくて、もっとこう、宿の一室を借り切ってとか、そういうときにお願いしますね!」
何か想像していた反応と違ったが、まあそれはそれで。
「それと、まずは契約をお願いします。ワタシも清い体――体という字は『ひと』の『本』と書きます――ですし、婚前交渉というのはやっぱり、その、ちょっと気後れするというか」
今さらっと凄い言葉が出てきたが、スルーせざるをえなかった。
魔導士になるのは魔導書にとって独占契約と思いきや、浮気禁止って感じかもしれない。
「人間の方と結ばれることを邪魔するつもりはありません。相手がご主人様の害にならないない限り祝福もしますし、恋路のお手伝いもします。いっそ複数でもどんと来いです! ただ他の魔導書には目移りしないで欲しいんです。ワタシの、ワタシだけのご主人様として」
分かっている、と俺は頷いた。
魔導書は幸せそうに頷いた。そんな気がした。
「じゃ、じゃあ、契約の続き、お願いします……」
ちょっと気持ちが高ぶってしまったが、こいつによれば、契約の際に生ずる魔力の受け渡しで俺も興奮してしまったのではないか、とのことだった。
先ほど中断したあたりから、ページをめくる。
妙になまめかしい反応や漏れる声は、ページを手で触れることで俺の魔力が順応しつつあり、それゆえに起きた現象らしい。
十分な準備をしておいた方が上手くいくと魔導書が言うので、隅々にまで行き渡らせるよう、触れていない場所が無くなるまで、丹念に、入念に、やさしく指をすべらせる。
「ワタシは今、ご主人様の色に染められているんです……っ」
意味は分かるが、なぜその言葉を選んだ。
契約が結ばれた瞬間から、俺以外の誰にも使えなくなるそうだ。
「というわけでネトラレはありません。安心してください、ご主人様」
「何をいきなり言い出すんだ」
「いえ、言っておかないといけない気がしましてっ」
無限にめくり続けられると思われたページだったが、最後の白紙が現れた。
これまでと同様、純白のページに触れ、手の体温を移してゆくことを意識して、なで回す。
指で、手のひらで、優しく、そっと。
やがて支度が終わると、魔導書のまっさらなページが仄かに燐光を発し始めた。
「過去には力の差も見抜けず、ワタシを従えようとした者もいました。けれど、ワタシはそいつら相手にページ一枚足りとも開かず、一切中を覗かせることなく、全部無視してきました……。本当の意味で、ワタシの初めてはご主人様のものなのです」
「世界最高の魔導書って触れ込みはどうなんだ、それ」
使われたことがない以上、比較のしようもないと思うが。
「ワタシとご主人様の力ですから、世界最高でないはずがありません! ではご主人様、最後の仕上げです」
「ああ。どうすればいいんだ」
魔導書は、言った。
「口づけを……お願いします。どうぞ、ご主人様が望むところに」
黒い表紙。中のページ。最後のページ。そして裏表紙。背表紙。
どれを選べばよいのか、さっぱり分からない。
しばらく考えた末、ページを前に辿っていって、一番最初。
普通の本なら目次があるべきページに、そっとキスをした。
唇が触れた感じは、単なる紙とは思えないほどにやわらかかった。
「あ……」
果たしてそれが正解だったのか。
変化は急速に訪れた。
黒いだけだった表紙はページから漏れた光をすべて吸い込み、輝く漆黒へと深まった。
まるで夜空を切り取ったかのような漆黒の魔導書、その中央上部に煌めく星のような金色がうねる。
複雑な文様なのだが、いっこうに形が定まらない。
まるで、そこに記されるべき言葉が未だ存在しないかのように。
はっとした。
魔導書は沈黙している。
俺の言葉を待っている。
すべての過去が押し流され、ここに再び生まれようとしている。
名前を付けて欲しいと、この魔導書は言った。
何が良いのか、ずっと考えていた。
知識としては色々と知っている。
たとえばネクロノミコン。ソロモンの鍵。大奥義書。アルス・ノトリア。
こうした有名どころから名前をもらうのは悪いことではないが、既存の魔導書から取ってくるのは気にくわない。
こいつは俺の魔導書だ。もっとふさわしい名前があるはずだ。
支え合う関係を目指すのであれば、まず自分から与えなければならない。
黒。無垢。相棒。パートナー。愛。輝き。少女。
大量の言葉とイメージが頭の中で流れ去り、ぽつんとひとつだけ取り残される。
「『スピカ』だ。お前は、スピカ。おとめ座で一番明るい星の名前をもらおう」
女神の持った麦の穂を語源とする、星の名前。
魔導書に付けるには、いささか眩しすぎるかもしれない。
宇宙を映したかのように真っ黒な表紙、その上段に燦然と輝く金色に縁取られた文字。
知らない文字で描かれて、なのに、どうしてか読めるスピカの名前。
「ワタシは魔導書スピカ。闇夜に輝く星。尖ったもの。そして豊穣の現れ」
あらゆるものがそうであるように、名前は本質を表す。
何者でもなかった魔導書は、ついに自らの方向性を定められたのだ。
そして俺は魔導士となった。
スピカを手にしていると、体中を巡っていた力が鋭敏に感じ取れる。
野方図に広がっていた何かが、俺の手の中へ流れ込み、ひとつにまとまっていくのが分かる。
それでも漏れてしまう分がある。これが制御しきれない魔力の余波なのだろう。
「主、陰山陽介の望みを叶え、その先に立ちこめる闇を払うものたらん――」
上手くいったことに安堵していると、スピカは言った。
「さあご主人様、ここに契約は成りました! さあ、ワタシを存分にお使いくださいっ!」
「……で、具体的にはどうしたらいい」
「そこで冷静に返すところが、やっぱりご主人様ですよね! 知ってましたけど!」
残った課題は、この遺跡を取り囲んだグランプルを撃破することだ。
どこを目指すにせよ、まずはここから脱出しなければならない。