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清純派魔導書と行く異世界旅行!  作者: 三澤いづみ
第二章 ネストン・ラプソディ
53/96

エピローグ

  

 

 ダンジョンの異変は終了し、ネストンに平和が戻ってきた。

 あれから一週間以上が経った。


 コッペリアはあれ以来、姿を見ていない。

 敵ではないが、味方とも言い難い。コッペリアはそういう存在だと判断した。

 だから、会わずに済むならその方がいいのだろう。きっと。


 ネストンの怒れる市長シュヴァインは、ややこしさを増した事態の収拾と解決のために昼夜を問わず街中をかけずり回り、市民とハンター両方にこまめに声を掛け、権力と資金を背景に裏で手を回し、溜め込んでいた私財をバラ撒いてでも混乱を最小限にするように働きかけたが、ついに力尽きて、前のめりのまま自宅前で倒れてしまった、らしい。


 ネストン冒険者ギルド長オズボーンの逮捕と解任によってネストンの混乱に拍車が掛かった。


 そして、オズボーンの動機が問題だった。

 一度は口ごもったシュヴァインだったが、結果的に大きく振り回された関係者、つまりはアンジーと俺たちに『遠因たる吾輩には、説明の義務があるだろう』と言葉少なに語ってくれた。


 牢に繋がれたオズボーンはずっと黙秘を続けていたが、面会に訪れたシュヴァインに気づくと、『勝てなかった……』と一言呟いて、経緯について素直にしゃべるようになった。

 憑き物が落ちたような顔だった、とは市長の弁である。


 市長本人から語るには酷な内容ではあったが、今回の事態を悪化させた理由は、一言でまとめてしまえば、オズボーンによるシュヴァインへの積年の嫉妬だった。より正確には、嫉妬という言葉では収まりきらない何かなのだろうが、これがなかなかに表現が難しい。


 そもそもの話として、二人は家も近く、年も近い、仲の良い幼なじみだったのだという。

 幼い頃は二人の能力にさほど差はなく、傲慢なところの多いシュヴァインを宥めるオズボーン、という構図が多かった。子供時代から容姿に恵まれなかったシュヴァインは、オズボーンの引き立て役のように扱われていたらしい。

 シュヴァインは街の住民にとって、いわば厄介者だった。親が市長であることを笠に着て、しかも図体の大きい手に負えない存在。当時をよく知る者からは、今でも豚小僧として侮られたり嫌われていたりもする。


 オズボーンは持ち前の要領も良さを使って、一職員として働いていた冒険者ギルドで、とんとん拍子に昇格していった。そして、あっという間にトップに上り詰めた。

 だが、ほぼ同時期にシュヴァインの父が病死、数十年前に見つかったダンジョンの存在も手伝って、小さな村から町に、そして市と呼べる規模になりつつあったネストンの市長の座がシュヴァインに転がり込んできた。


 幼なじみではあったが、大人になってから疎遠になっていた二人は、ネストンの重要人物としての立場を得て再会を果たした。

 そして、言葉と態度と見た目が悪いことで誰からも軽んじられていたシュヴァインは、市長としての職に着くと、その責任感に目覚め、ひたすらに邁進するようになった。

 街の嫌われ者は、ゆっくりと、だが着実に、その実力を発揮し始めた。数字は嘘を吐かない。街の発展は目に見える形で、見違えるように前に、大きく動き出した。

 一人、また一人と彼を認める者が増えつつあった。


 シュヴァインは水を得た魚、あるいは戦場を得たオーガのように、めきめきと頭角を現していった。

 ダンジョンの存在でハンターが集まりつつあったネストンを今の形にして、金が回るようにしたのはシュヴァインの手腕によるものが大きかったのだ。


 誰の目から見ても、ネストンは繁栄しつつあった。もちろん、ハンターが毎日詰め寄せる冒険者ギルドの長たるオズボーンには、その変化の度合いも、誰が為した功績かも、何もかも理解出来た。

 理解出来てしまった。


 オズボーンは当然、面白くなかった。

 あのシュヴァインが偉そうに。

 昔はただ喚き散らすだけで、親の七光で偉ぶっていた、あの豚が、自分よりも上の立場からああしろこうしろとやかましい。

 許せなかった。


 ただ生まれが違っただけだ。

 世襲制の村長が町長になり、市長になり、それが当たり前のようにシュヴァインの立場となった。

 どうしてだ。自分と何が違ったのだ。

 あの豚に出来るなら、自分ならもっと上手く出来るに違いない……。


 本人を前にしたり、業績を知った者ほど認めるシュヴァインと違い、オズボーンが誰にも認められなかったのも、その苛立ちに拍車を掛けた。

 ネストン冒険者ギルドも暇ではない。むしろ多忙な方だ。しかし、来る日も来る日もダンジョンにハンターを送り込むばかりで、市長のように新しい政策を打ち出したり、ネストンの経済に寄与したり、あるいは知人からの尊敬を集めたりすることはない。


 金と享楽にしか興味が無いハンターどものクレーム対応。それがオズボーンの日常だった。

 そのうちにハンターでも目端の利く連中が、ネストンで稼げるのはシュヴァインが辣腕を振るったからだと口に出し始めた。


 最後の堰が切れたのは酒場の外テーブルを通りがかったときのことだ。

 豚市長に乾杯、とハンターが笑いながら酒を酌み交わしているのを見たときだった。

 馬鹿にしたような言葉でありつつも、どこか愛されている、あるいは尊敬されていることを知って、オズボーンは愕然とした。

 自分には、そんな風に思ってくれる相手はいない。冒険者ギルドの部下たちも、あの気むずかしいシュヴァインとの繋ぎが取れる人物としてオズボーンを見ていることに気づいてしまった。

 幼なじみであるオズボーンは、外からは市長の数少ない友人のひとりとして見られていたのだ。


 鬱屈する日々を送りながらも、ハンターは毎日ダンジョンに潜り続ける。冒険者ギルドはそれを許可し、問題が起きないように注視し続ける。もめ事の仲裁に、ダンジョン内でトラブルが起きないようにと声を掛け、街中でハンターが起こした騒ぎに手回しをする。

 毎日毎日変わり映えのない仕事だが、減ることはなく増えるばかりだ。そしてどれほど働こうとも、オズボーンは中間管理職に過ぎない。

 ハンターから文句を言われ、シュヴァインから無茶振りをされ、冒険者ギルド長としての権力はあるが、他の誰と首をすげ替えられたところで困る者はいない。

 そんな、息苦しいだけの立場だった。


 ただひとり激務を労ってくれたのは、あろうことか、シュヴァインだけだった。

 あの豚市長だけが、お前にはいつも苦労を掛けるな……、などと口にしたのだ。

 あの顔で。

 あの醜い豚面で!


 やめろ。私はお前から慰めの言葉など聞きたくない! そんな目で見るな。そんな言葉をかけるな!

 しかし、毎日毎日仕事に追われるたびに、その嘲っていた、蔑んでいた、そのシュヴァインに勝てるものが何一つ無いことに気がついてしまった。力も。知恵も。財力も。人間としての器も。おそらくは市政の能力も。ただひとつ勝るのは顔だけ。しかし、それすら慣れてしまえばあの豚面は嫌う要素になりはしない。

 何の意味がある。


 そしてオズボーンは羨望と劣等感と自尊心とが綯い交ぜになった暗い炎を胸の裡で育て始めた。それは今回のような事態が発生しなければ、やがて日常に埋没して薄れ行くものだったはずだ。

 だが、そうはならなかった。

 その暗い情念の熾火を昇華するだけのチャンスが、シュヴァインに痛撃を加える機会が、思わぬところから得られてしまった……


 魔が差した。

 そうとしか言えない、本当の意味でただ一度の過ちだった。だが、それは見過ごせないほどの大火と成り果てた。

 聞き出した内容を整理して、語り終えたシュヴァインは、疲れ切った表情のまま目を伏せた。


 切っ掛けはコッペリアの暗躍だった。それでも、どこかで止まることはできたはずだった。止まれなかったオズボーンについて、シュヴァインはただ、馬鹿め、とこぼした。


 オズボーンの動機については、そんなところだ。


 シュヴァインは皮肉げに小さく笑い、ふん、と鼻を鳴らした。

 なお、ミルシアという冒険者ギルドの受付嬢がオズボーンの減刑を願い出ているそうで、最終的な処罰については保留となっている。

 たったひとりの減刑願いだ。それでも陳情には違いない。面倒を増やしおって、とシュヴァインはしかつめらしい顔で舌打ちをした。


 俺たちはそれ以上、オズボーンについては何も言えなかった。シュヴァインは、ネストン市長として、しかるべき対処をするのだろう。だが、所詮は元部下からの求めだ。無視しようと思えば出来たのでは無かろうか。


 こうして、幼なじみだったへの嫉妬が原因だったと判明して、調査班は腰砕け、なのに市長の負担は増えるばかりだった。

 私腹を肥やしている豚市長という悪評も根強かったが、疲労からか日に日に人相が悪くなっていくシュヴァインのひどい顔を目の当たりにすると、市民の大半から同情的な意見が集まりつつあった。

 ただでさえ良いとは言えない顔つきである。それが睡眠時間を削り、休む暇無く動き続け、目の下に隈が増え黒ずむと、もはや凶相としか言いようがなくなり、一瞥されるだけで凄まじい気配が漂うのだ。

 下手なモンスターより怖いと評判で、遠目に見かけた子供が大声で泣き出した、という噂まで流れている。


 一方で、ネストンダンジョンの異変から足が遠ざかったハンター達をあっという間に呼び戻した手腕も相まって、市長あってのネストンという認識も広まりつつあった。

 その後の対応や状況についてつらつらと語ったあと、シュヴァインはすっかり元通りの様子を取り戻していた。

 今日以前の段階では、どこのオーガかと見まごうほどの状態だったとは聞いていたが、すぐさま後始末に取りかかり、全力で奔走したおかげで状況も終息しつつあるのだろう。

 やはり一晩ぐっすり眠れると随分と違うらしい。


「まあ、そんなことはどうでもいいのだがな」

「それより呼ばれた理由を聞きたい。あんた、倒れて面会謝絶じゃなかったのか?」

「吾輩があれくらいで寝込んでいられるか。吾輩が業務を怠ると、それだけ街の平穏が遠ざかるからな。それよりヨースケ、貴様がそろそろ街を出ると聞いた。恩がある以上、吾輩が出向くべきだったのは分かっているが、許せ」


 市長はふん、と鼻息荒く、吐き捨てた。

 この場にいるのは俺とティナ、そしてアンジーとフィリップだ。


「貴様らには、オズボーンの性根を見抜けなかったことで迷惑をかけた。そしてあの自動人形とやらが暗躍し、オズボーンが被害を拡大させたこの件の解決に尽力してもらった、その謝罪と感謝をしたい。特にアンジェリカ嬢。貴女の献身がなければ、このネストンは衰退の一途を辿り、ここに住む者たちが路頭に迷っていた可能性が高い。ありがとう。助かった」

「……いえ、市長は頑張っておられますわ」


「そう言ってもらえると、助かる。だが、吾輩にもネストン市長としての立場がある。感謝をこうした言葉だけで済ませるつもりはない。しかし、働きに見合った報酬を渡すとなると、いささか難しいのだ。単刀直入に言おう。謝礼として、何が欲しい?」

「では、アンジーには金貨で謝礼を頂くということにしましょう! ……出来ればどーんと百枚くらい支払って頂けると、大変助かるというか……」

「お黙りくださいクソ親父」


 フィリップがすぐに発言し、アンジーが尻を軽く蹴っ飛ばした。安心するやり取りだった。


「その程度で構わないならすぐに用意できるが……金貨なら五百枚でどうだ? これほど早期に解決しなければ、もっと甚大な被害になっていた可能性が高いからな。吾輩は金にがめつい市長として評判だが、ここぞというときの謝礼を惜しんだことはないぞ」

「パパ」

「い、いえ。私ども親子は、謝礼を辞退させていただきましょう。まだまだ大変な状況が続くというのに、そうした大金を我々に支払っては、市政も立ちゆかぬでしょう」


「市の財政とは関係無い吾輩のポケットマネーだから気にするな。……とはいえすぐに使える現金があるに越したことはないのは事実、その申し出は助かる。そうだな、アンジェリカ嬢。何か他に欲しいものは思いつかないか?」

「……今現在、私どもは金の靴亭、という知人の宿にお世話になっております。ただ、いつまでもそちらにご厄介になるわけにも参りませんので、出来れば安く借りられる部屋などをご紹介いただけたなら」

「住む場所を探していると。なら、良い場所がある」


 シュヴァインはさらさらっと書き付けた文章に、自分の印章を押した。


「これを持って役所に行くと良い。使っていない家を貴女に進呈しよう」

「……ええと」


 意味が分からないのは、俺たちも同じだ。そんな目で助けを求められても困る。


「使っていない吾輩の持ち家を、謝礼としてアンジェリカ嬢に譲渡する、と言っている。もちろん来年には市民税は支払ってもらうぞ。範となるべき市民として、しっかり稼いでくれたまえ。吾輩のネストンは新たなる市民を歓迎する。いつでも、誰でもだ」


 凍り付いている二人をさておいて、今度は俺たちに向き直った。

 シュヴァインは皮肉そうに俺たちを見つめた。


「で、だ。二人には何を渡したものかと迷っている。ダンジョンに居残ったままの困った金貨級を掃除してくれているのは、貴様らだろう?」


 シュヴァインの指摘通り、ダンジョンが正常化した翌日から、俺とティナはダンジョンアタックを敢行したのだ。

 倒してはいけない、という厳しい縛りさえなければ、やがて在庫の切れる金貨級ごときは敵ではない。

 見敵必殺。

 普段の状態であれば、ティナとてマナ中毒にはほど遠い。


 俺とティナは競い合うように、未だ跋扈していた金貨級を片っ端から駆逐した。

 当然手元には拾い集めた金貨が山となって積み上がった。

 俺たちが金に困っていない以上、市長が報酬について頭を悩ませるのは分からなくもない。


「先日の依頼も、ちゃんとした報酬を決めていなかったな。吾輩は常々、働きに見合った対価を支払うべきだと考えている。しかし今回のような事態に相場なんてものはない。成功報酬として渡そうにも、どうにも適切な謝礼が思い浮かばん。ならば直接尋ねた方が早かろうと考えたわけだ。で、何が欲しい? 貴様らは何を求めて、吾輩にこれだけの恩を売りつけてくれたのだ?」


 俺とティナは顔を見合わせた。


「と、言われても」

「そうよね。謝礼目当てでやったことでもないし」


 言うなれば、成り行き任せだった。流れに応じて対処しているうちに、いつの間にか事件の解決まで付き合うことになった、という感覚だろうか。

 ティナも同じらしい。市長の態度は大げさだが、気持ちは分かる。ただ、この温度差までは如何ともしがたい。

 なんだかんだあったが、アンジーが助かった。俺としてはそれで十分だった。


「吾輩の気が済まん、と言っているのだ。そもそも……本当に良いのか? 今回の一件、ほとんど貴様らが解決したようなものではないか。その事実を伏せて、吾輩の功績として発表しろなどと……確かにその方が混乱は少ないだろう。自動人形コッペリアの暗躍、アンジェリカ嬢が必要だった理由、そしてオズボーンの動機、どれも完全に隠すか、カバーストーリーを作って誤魔化すしかないものばかりだ。事実をありのまま語ったところで誰も得しないからな……。木を隠すには森の中、面倒を隠すには悪評の中ということだな。……しかし!」


 市長シュヴァインも頑固な方だ。目には目を、歯には歯を、というタイプなのは分かりきっている。殴られたらその分だけ殴り返す。貸しを作ったら、それを返すまでは腰を落ち着けられない性分なのだろう。

 ティナが腕を組んで、首をかしげた。


「たとえば……道行くおばあさんがいたとして、転んだとき、市長さんはしっかりと手を貸すでしょう? おばあさんが立ち上がるまでは面倒を見るでしょう? まあ、なんだかんだで転ばないように注意して歩けとか、口うるさく指摘しそうだけど」

「う、うむ。転んだ者がネストンの市民ならば、吾輩は当然そうするだろうな。それが?」


「市長さん、そのおばあさんに恩を売ったって思う? 次から気を付けるように、と思うくらいじゃないかしら。少なくとも手を貸したことの謝礼は求めないでしょ?」

「その老女と私が同じだと? それとこれとは全く話が違う!」


「そんなに変わらないわ。ただちょっと種類と規模が違うだけ。アンジーは巻き込まれただけだし、しかも命掛けで、危険な目にも遭った。報酬というよりは、慰謝料と謝礼金として見合ったものを渡すべきだけど、あたしとヨースケの場合は自分から首を突っ込んだのよ。放っておいても自分で立てる相手に、少しだけ立ち上がるのが早くなるように、さりげなく手を差し出しただけ。……そんな相手がいたとして、おばあさんが無理して謝礼を渡そうと考えてたら、市長さんはどう対応する?」


 ぼっち歴が長いとは思えない、ティナの堂の入った諭し方だった。俺はスマートな返しに若干感動していた。

 さすティナ。


「吾輩は……」

「う、うん?」


 何かティナの思い描いていた反応と違ったらしく、固まった。

 一度俯いた市長が、くわっと顔を上げた。


「吾輩は、こうして口で言い包められるのが嫌いなのだ!」

「今のはちょっと感動して目を潤ませるところじゃないのっ!?」


「貴様らには何か後でちょっと気の利いた豪華な贈り物でもしてやる! 金のあまり掛からない心尽くしの贈り物だ! それでいいんだろう! だいたい、ティナとかいったか魔法使いの小娘! 今のたとえを語るときの、貴様のその勝ち誇った顔が気に食わん! ヨースケの、そのなんでも見透かしてます、みたいな表情もかなり苛立たしい! だが、それはそれ、これはこれだ! 吾輩のネストンを助けていただいてありがとう! 心から感謝する! 貴様らのおかげで随分と助かった! 吾輩が本気で感謝することなど滅多にないのだから、素直にこの感謝の言葉を受け取っておけ! ありがとう二人とも! そして格好付けすぎと気取りすぎだこの馬鹿どもが!」


 そう口にした市長の表情は、初めて見るほど清々しい笑みだった。



 旅支度は済んでいる。次に向かう街は決まっている。

 ティナも同じ街に用事があるらしく、そこまでは一緒に行動することになった。あのだだっ広い荒野をひたすら歩く、二人と一冊の旅路である。


 出発前日に届いた、市長手ずからの謝礼については詳細を伏せておく。

 多忙極まりない執務の合間を縫って雑貨屋を巡ってきたのだろうが、おそらく部下ではなく自分で探し回ったのだろう。ご苦労様である。

 また、あんな見た目、あんな性格の割に、実は料理や菓子作りが幼い頃からの趣味だったと知ることになるとは思わなかった。オマケとして持ってこられた市長手作りの甘味の繊細な味に、俺とティナは揃って感動してしまった。

 硝子細工のような美しい見た目の砂糖菓子と、内側の宝石めいた飴の艶めかしい輝き。食べるために崩すのがもったいないくらいだった。


 見送りには、フィリップとアンジーがやってきた。ミセス・ダーリントンとは宿を出るときに挨拶をした。あんたもがんばんなよ! と背中を叩かれて、わりと痛かった。

 いつかまた。そんなありふれた再会の約束を交わして、壁のないネストンの街を出るとき、アンジーが突然走ってきて、俺のそばに駆け寄った。


「ヨースケ、わすれもの!」

「ん?」


 何か忘れただろうか、とコートのポケットや、リュックの中身を改めようと、身体をひねったところに、アンジーが待ち構えていた。


「……っ」


 避けようと思えば、避けられた。だが、アンジーの表情に気を取られて、唇を奪われるまで動けなかった。


「あ、アンジーっ! なぜだっ! なぜ、そんな男に!」

「いつかまた、絶対に、会えるよね……?」


 俺は頷いた。それを見て安心したように微笑んで、アンジーはフィリップの元にゆっくりと歩いて行く。

 その後ろ姿に俺は尋ねる。アンジーは振り返らずに答える。


「大事に取っておくんじゃなかったのか?」

「キスはね……したいときに、するものなの! 義務とか、必要とか、そういうものじゃないんだよ。……って、おばさんが言ってた」

「クソ! またミセス・ダーリントンか! 余計なこと、を……」


 フィリップが悲鳴と気炎を上げていたが、途中で言葉を途切れさせた。

 アンジーは背中を向けたまま、ネストンの街の方へと歩いて行く。手を振って、俺に顔を見せないようにして、そのまま遠ざかっていく。


「行きましょ、ヨースケ。アンジーに恥を掻かせるんじゃないわよ」

「ああ」


 視界の端で、アンジーは後ろを向いたまま、肩を震わせている。

 俺はそれに気づかないふりをして、アンジーが最後に見せた笑顔だけを覚えておく。


 ネストンから出ると、どこまでもどこまでも、穏やかな荒野が続いている。

 空はそれよりさらに広く、果てなど、どこにも見当たらない。


 街から街は、それなりに距離がある。

 街道として用意された道も、順路も、ただひたすらに何も無い場所に向かってまっすぐ延びている。

 視線の先には、抜けるような晴天の青と、枯れ果てた土の渇いた赤が一切混じり合うことなく、水平線によって天地二色に隔てられている。


 太陽光が眩いなか、ネストンを後にしてから今まで、ティナは口を噤んでいる。何を話せばいいのか分からないからと、俺も無言で歩いている。

 街から十分に離れたあたりで、スピカがぼそりと呟いた。


「数年経てばロリコン呼ばわりされませんよ、ご主人様!」


 スピカの表紙を、ちょっと強めにデコピンした。気遣うように沈黙を守っていたティナが、あまりにも間の良いスピカの一言に、耐えきれずに噴き出した。

 俺たちはまだ旅の途中だった。


 どこから来たかは知っている。

 だが、どこに辿り着くのかは、まだ分からない。



 以上、第二章「ネストン・ラプソディ篇」これにて終幕とさせていただきます。

 喜んでいただけたなら幸い。長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。


 第三章も今章と同じく、書き上がってから掲載とする予定です。あまり急かさず、なるべく気にせず、どうぞ気長にお待ちくださいませ。


 お読み頂きありがとうございました。

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