第九話 『異変』
「《轟雷嵐ッ!》だ! 消し飛べ!」
ギリギリではあったが、満を持して放ったのは、いつかブラスタイン相手に使ったとき速度を優先して使った雷撃呪文だ。
これは消費する魔力量を増やすことで効果を高める攻撃魔法、その制御を丸ごとスピカに任せ、今回は威力を最優先とした。
自分で使っておきながら、その放射された雷の危険さを肌に感じる。
落雷並の激しさで、巨大な稲妻が渦を巻いて敵の全身に絡みつき、手ひどく暴れ回る。
もし普通の人間に直撃したら一瞬で消し炭になりかねない威力だ。
よくもこんなものを人体目がけて撃ったものだ。
あの四角い顔のオッサン相手には速度優先だったとはいえ、これによく耐えきれたと今更ながらに驚愕したが、あくまでベースが雷撃である以上、眼前の危険、すでについた加速と勢いまでは殺せない。
眩いほどの熾烈な紫電によって全体を包まれた禍々しい黒の球体から何かが蒸発するようなじゅわっという音がし続けた。
しかし恐ろしい速度を保ったまま通路の壁や天井、床のすべてに己の巨体をぶつけながら、人間を轢き殺さんとして突っ込んでくる。
鼻先まで迫った巨大ダークスライムによる死の一撃は、しかし、俺とティナに衝突するその瞬間、ついに耐えきれなくなったらしく破裂し霧散した。
あと少しモンスターが死ぬのが遅れたら直撃していた。
死ぬかと思った。
無色透明なはずのマナはどす黒く見える密度のまま周囲に巻き散って、一拍遅れて、四散した巨大スライムの残した浮遊マナが、瘴気のごとく強烈に吹き付けてきた。
逃げるも避けるも不可能だ。
俺とティナは全身にそれを浴びた。俺は、手をスライム側に向けたまま、固まっていた。
ティナは体勢を崩して、その場に座り込んで、気持ち悪そうに口を押さえた。
物理的な衝撃はなかったはずだが、五感そのものを強く揺さぶられたのだろう。
「……うっぷ」
「スピカ。これって」
「典型的なマナ中毒です。強い耐性のあるティナさんなら重傷化はしないでしょうが、それでも許容量を超えてしまったようです。しばらく動けないかと」
風が巻くようにして纏わり付いたマナは、俺たちを包み込んでしばらくその場に留まっていた。
なんでも、中毒になるほどの量を一度に吸収した場合、形のない何かが一瞬のうちに肌を突き抜けて内臓にまで到達してくるような、おぞましい感覚を受けるらしい。
自分の身体に異物が無理矢理入り込んでくる、耐え難い気分になると。
聞くだけで身震いする気色悪さだ。
少量ずつであれば、多少の不快感程度で済むようなのだが。
「とはいえ、流石ですね。あれだけの至近距離に、量と密度。あれだけの量を一度に摂取してしまえば、そこらの一般人なら即死してもおかしくありません」
「……マジか」
「マジです。最後まで殺意たっぷりでしたね」
「罠過ぎる。素早く倒さなきゃ轢き殺される。なのに下手に倒したらマナ中毒で死ぬかもしれない。一匹のモンスターのくせに、どんだけタチが悪いんだ。ティナ、大丈夫か」
「大丈夫、に、見える? それより、あっち」
「落ち着くまで休んでろ」
ティナの指し示した先を見ると、そこには数十枚の金貨が散らばっていた。
あの巨大ダークスライムのドロップだ。
たった一匹でこれだけの金貨の枚数。
「分かった。分かったから休めって」
ティナの言葉は途切れ途切れで、まだ本調子ではないようだった。
浮遊マナを身体に取り込むことにはメリットもあるが、やはりリスクも大きいと再確認した。
「もう少し、話さないと……。ヨースケ、悪いんだけど、ダンジョンから脱出して。ひとりで、出来るだけ急いで。あんたならできるでしょ」
「……随分と弱気だな」
「冷静な、判断よ。短期間のうちに、同じ量の浮遊マナを受けたら、次は……」
「ご主人様、ティナさんの言葉は正しいです。今回は耐えられましたが、当分は影響が残るはずです。同等のモンスターを倒したとき、ご主人様なら平気でも、ティナさんは今度こそ意識を失うか、重体化するでしょう。最悪、死の危険すら見えています。一匹なら抱えて逃げるなり、倒さず避けるなりやりようもありますが、二匹以上だったり、足手まといを抱えながら今のと同程度のモンスターを相手取るのは、いくらご主人様でも厳しいかと」
「やっぱり幻聴じゃなかったんだ。ヨースケは魔導士ね?」
予想済みだったらしく、確認するだけの問い方だった。
俺はスピカをポケットから取りだしてみせた。ティナは物珍しそうに見上げてきた。
「スピカと申します」
「知ってるみたいだけど、ラクティーナよ」
「ご主人様の懐で聴いておりましたので、存じ上げています。凄腕美少女天才魔法使いことラクティーナ=ビッテンルーナさんですね!」
「……ヨースケぇ」
「諦めろ。こういう魔導書だ」
「主人そっくりね」
座ったまま、ティナは肩をすくめた。ため息混じりなのは気にしない。
「お褒めいただきありがとうございます!」
「褒めてないわよ。それよりヨースケ、早く行って」
「どうするつもりだ?」
「しばらく小部屋に隠れてやり過ごすわ。金貨級を倒すのはともかく、その浮遊マナには今の状態だと耐えられそうにないし。意識を失ったらそれこそ一巻の終りね」
ティナは笑みを見せたが、その笑顔が、今にも泣き出しそうに俺には見えた。
「あんまり気に病むな。今の状況は完全に想定外だ」
「あたしが行こうって誘ったのよ。責任が無いとは言えないわ」
「危険も覚悟の上で俺は同意したが」
「でも」
「はいはい、ご主人様もティナさんも言い争うのはそのくらいにしていただけますか。お客さんですよー」
「……逃げるぞ!」
「えっ」
動きの鈍いティナをさっと抱えて、俺はモンスターから遠ざかった。
不幸中の幸いだったのは、現れた敵は足の遅いトロールだったこと。
そして出現したのが脱出経路の逆だったことだ。
筋肉とも脂肪ともつかない巨体に、灰緑がかった肌の色、そして毛もなくのっぺりとした頭部と、にたにた笑う不気味な顔。
巨大な棍棒を手に追い掛けてくるトロールは歩幅こそ大きいが、動きが鈍い。
先ほど巨大スライムに追い回された長い通路を駆け戻る。
途中、ティナが逃げるのに邪魔だと投げ捨てたロングスタッフを回収できた。
他のモンスターなら拾ってくるだけの隙は無かったかもしれない。
どたんどたんと足音を響かせて、トロールは狭い通路いっぱいに灰緑色の巨躯を上下させるのだが、傍目にも走りにくそうだった。
身体の大きさに見合っていない通路へと己の手足が何度となくぶつかって、苛立ちながら棍棒で壁や天井を叩きつけるのだが、迷宮の壁や天井はまったく傷付いた様子もなく、衝撃が自分の手に戻ってきたトロールはますます激昂するのだった。
「頭、悪っ。さっきの小さいスライムのがよっぽど怖かったな」
「普通のダークスライムと、そこのトロール。どっちも金貨級だけど、強さの種類が全然違うのよ。ただ、トロールは生命力が高いのと、再生能力持ってるせいで、そこそこの火力がないと手に負えないのよね」
「……ティナ」
「な、なによ」
「無手でどうにかなる算段があったのか?」
俺はスピカを手に持っていなくとも、繋がりがあるから問題無く魔法が使える。
しかしティナはスペックこそ一流とはいえ、一般的なスタイルだ。
魔法使いは誰しも杖を持つ。それは、魔法の行使のために杖が重要だからだ。
「……杖が無くても、魔法は使えるわよ」
「腕の良い魔法使いであれば、一応は使えますね。効率が非常に悪くなるからオススメできませんけどねっ!」
「スピカ! あんた余計なこと言うんじゃないわよ!」
「そんなこと言われましても。ワタシはご主人様の判断材料として、正しい知識を提供しただけですし。横から文句言われても困りますうー」
スピカは今ポケットの中で収まっている。
あまり力が入らないのか、返した杖を腕で絡めるように胸に抱いた美少女が俺に抱きかかえられた姿のまま姿の隠れた魔導書と言い争っている。
その様子は、本人たちは真剣なのかもしれないが、どうにも妙ちくりんな光景であった。
どちらも種類こそ違うが、可愛らしい少女の声であり、しかも場所が薄暗いダンジョンの通路なだけに尚更おかしい。
「な、ななな、なにこいつ! 嫌なやつ! 邪悪な魔導書に違いないわ! あたしがもし魔導士になったらアンタみたいな性悪な魔導書とか絶対に契約しないわ! ヨースケあんたよくこんな不遜な魔導書に自由に喋ること許してるわね!」
「もしなったらとかありえない未来を妄想してるところ申し訳ありませんが、ティナさんは魔導士になれませんからご安心を! ご主人様はティナさんみたいな視野が狭くて狭量でひんそーな魔法使いとは違うんですうー」
「だだだ、誰がひんそーよ! ヨースケは男なんだから胸とか関係無いでしょ!」
「あれー? ワタシいつ胸のことだなんて言いましたかー? ティナさんがひんそーなのは人としての器ですー。ご主人様のように大きくて、立派で、黒く輝くような……」
「アンタ何言ってんのよ!?」
「あれれー。ティナさん何か他のこと想像されましたかー? やれやれ、道具を大切にしないひとはこれだから……」
「う」
スピカの嫌味にティナが口を噤み、取り戻したロングスタッフをじっと見つめた。
仕方なかったとはいえ、自分の愛用の武器を粗雑に扱った自覚はあったらしい。
スピカがいつになく刺々しい口調なのは、その辺も関係しているのかもしれない。
「仲良くなったところで悪いが、このまま逃げ続けて大丈夫か?」
口論している最中もトロールの追跡は続いていた。
敵の足の遅さと通路の狭さが上手い具合に重なって、逃げに徹すれば余裕で引き離せるのだが、そろそろ巨大ダークスライムが道を塞いでいたあたりだ。
「ティナ、またさっきのでかいのが出る危険は」
「無い、と思うわ。強いモンスターほど再出現の間隔は空く。それが常識だもの。……ただ、ついさっき出現モンスターの分布は基本的に変化しない、って常識が破られたばっかりなのよね。ありえないわよ、これだけの金貨級なんて。それが銀貨級しか出ない区画に現れた以上、異常事態は間違いないわ」
ダンジョン初探索の俺には、異変の程度が分からない。
ただ、表情と声のトーンからして、天変地異レベルの異常事態が起きたとティナは感じている。
ダンジョン入り口近くに屯していた大勢の弛緩した雰囲気から、彼らが命の危険をわずかにでも意識しているとはまったく思えなかった。
彼らの大半にとって狩り場で金貨級と対峙することは、安全地帯で死神と遭遇することに他ならない。
「ドロップが金貨十枚を超えるモンスターなんてまず出くわさないし、二十枚超えたらダンジョンの最奥に一匹だけ、みたいな希少さのモンスターよ。さっきの巨大ダークスライムで、魔具級のドラゴン一歩手前ね。そんなのと銀貨級の領域で出くわすなんて、ゴブリン殺してマジックアイテムがドロップするみたいな話よ。警戒はしておいて」
警戒してどうにかなる問題ではない、とティナも分かっているのだ。
かなり引き離したにもかかわらず、トロールの足音が響いてくる。ここは長々とした一本道であり、遠からず追いつかれるだろう。
巨大ダークスライムでなくとも、強敵が道を塞ぐ形で出てきたら、トロールと新敵とで挟み撃ちにされる。
今のうちにトロールを処理すべきか、マナ中毒の悪影響はどこまで残っているのか、俺は状況の把握をしようと努めた。
やがて、俺たちは問題の場所にさしかかった。
手が塞がったことで袋の紐にひっかけたマジックライトが、通路の先を照らす。
ちらりと見えたのは人影だ。
ティナも同じものを目にしたようで、表情が強ばった。




