第三話 『金の靴亭』
どこまでもあの歓楽街が広がっているわけではなく、少し離れると、ありふれた静けさと暗さが主張を始めた。
今度は誂えたように大量の宿が建ち並んでいた。
確かに、あの騒がしさが間近にあったら眠れないだろう。
それでも宿屋の集中するエリアまで、そう極端に距離があるわけではない。
振り返ると、あの歓楽街を包んだ光が目に飛び込んでくる。
まだまだ夜は始まったばかりだ、とでも言いたげな明るさだった。
アンジーは父と俺とを引き連れて、迷い無い歩みでまっすぐ進んだ。
靴の絵が描かれた看板の前で立ち止まると、宿のひとつへと入っていった。
屋号は『金の靴亭』といった。
豪華な名前と裏腹に、建物自体はかなり老朽化している。
「おばさん、こんにちは!」
「お姉さんって言いな、宿賃上げるよ! って、誰かと思えばアンジーかい! 可愛い可愛いアンジー、いったいどうしたんだい! あんたみたいな賢い娘が、こーんな馬鹿ばっかり集まる街に来るなんて!」
「色々あったんだよ」
「そうかい、分かった、分かってる、皆まで言わなくていいんだよ! とうとうあのダメ親父に愛想つかして家を出たんだろう!? こんなとこまで一人旅するとは、さぞかし大変だったろうねえ。いいよいいよ、ちゃんと雇ってあげるから安心しな!」
威勢の良い女主人は、受付のカウンターから身を乗り出した。
来る途中に見た冒険者たちに負けず劣らず恰幅が良い。
引き締まった目つき顔つきに笑い皺、女性らしさを残しつつも低めで、そのくせ妙に勢いのある発声に比べて、肉付きの良すぎる体つきがもったいない。
昔は美人だった。
そう懐かしがられる系の肝っ玉母ちゃんの印象だ。
二言目もよそ行きの高い声ではなく、身内相手に叩きつけるような喋り方で、のっしのっしと近づきながらアンジーの顔を覗き込もうと寄ってくる。
アンジーが小さく笑って、娘の後ろに隠れて居心地の悪そうなフィリップを、宿の女主人の前に出した。
女主人はアンジーに向けた温かな視線と声とを切り替えた。
「なんだ、いたのかい。いくらアンジーが優しいからって、当たり前に娘を盾にするんじゃないよ。しかも、そんな娘に養って貰ってる生粋のダメ親父の分際で」
「ミセス・ダーリントン! そんな言い方をされる謂われはないぞ! 私だって頑張ってはいるんだ!」
「反論するなら、多少は稼げるようになったんだろうね!? 自分の食い扶持すら稼げない甲斐性無しには、アンジーはもったいないって前にも言ったよ!」
「う。いや、しかしだな」
フィリップが言葉に詰まると、女主人はぐいっと詰め寄った。
間近に迫った藪睨みに、娘に助けを求めるように視線を逸らすフィリップ。
しかしアンジーは肩をすくめて、やり取りの行方を見守っていた。
「その様子じゃ、まーたわけのわかんない趣味に無駄金使ったね?」
「私のしていることは遊びじゃない!」
「そいつで稼げてないなら、なんて言い訳したって遊びだよ! まったく……昔から何も変わってないじゃないか。まさか生活費まで使い込んだんじゃなかろうね!?」
「私の金を私が使って何が悪い!?」
「そういう台詞は娘に養って貰いながら言うもんじゃないよこの宿六が!」
なかなか辛辣である。
フィリップはわなわなと震えていたが、それ以上反論しなかった。
父のさんざんな言われようを横で眺めつつ、アンジーは苦笑で流した。父のためのフォローの言葉は特にない。
内容はごもっともと、内心頷いているのかもしれない。
女主人は標的をフィリップからアンジーに切り替えた。
「アンジー、あんたが母親譲りで情が深いのは得難い美徳だけどね、行きすぎると不幸になるよ。この男は甘やかすとつけあがるんだから、見限るのも優しさだよ」
「こんなのでも、パパだから」
鉄壁だった。魔法の言葉過ぎる。女主人は返答が分かっていたかのように深く頷いて、首を横に二度ほど振った。
これまで何度も繰り返されてきたやり取りだったのかもしれない。
女主人は残念そうに肩を落として、すがるような視線でアンジーを見た。
「あたしゃアンジーが心配なんだよ。そうだ、うちの息子も独り身だし、いっそのこと嫁に来るってのはどうだい。ネストンじゃあ、うちは結構流行ってる方だしさ」
「おばさん」
「そうか、ダメかい……残念だねえ」
「寂しそうな顔してもダメなものはダメ」
「ちぇっ。それでアンジー、結局どうするつもりだい。うちに来たのは客としてか、住み込みか。仕事を選ぶんだったら、そこのヒモ男にもちゃんと働いてもらうよ」
「それより……」
三人の世界を繰り広げられて、さりげなく受付前の椅子に腰掛けていた俺に、女主人はようやく気がついたようだった。
無遠慮な視線を向けられて、俺は曖昧に笑った。
勝手に出てくる無駄な威圧感を和らげるための苦肉の策だったが、女主人が眉をひそめたのは一瞬だった。
「あんた、そんなところにいたら永遠に気づいてもらえないよ! しっかり主張しないとこの街じゃあ損するだけさ。なんたってここはネストンだからね! で、あんたは何泊するんだい? うちじゃあ朝食は出るけどそれ以外は他で食ってきてもらう決まりだかんね。一週間以上泊まるなら割引したげるけど、どんな予定だい」
「ええと」
「おばさん、ヨースケはわたしの連れよ」
アンジーの一言に、女主人は一挙に視線を厳しくした。
「ダメ親父に比べりゃ金に縁がありそうな顔だね。男の選び方としちゃあ悪くない。でもねアンジー、自分の年齢ってもんを考えな」
「あのね、おばさん」
「気を付けなよ、この手の男はスケベって相場が決まってるんだ。見てごらん、このエロいことには興味ありません、みたいな澄まし顔。むっつりスケベの証拠じゃないか。頭ん中どんな変態行為でいっぱいか分かったもんじゃない。昔のことだけどね、まだか弱くて清楚だった少女時代のあたしを見初めた旦那は、何も知らなかったあたしを強引に」
「おばさん!」
女主人の長い自慢話を遮って、アンジーはこれまでの経緯を簡単に話した。
色々あって父と一緒に住んでいた街を出たこと、もらった馬車がモンスターの襲撃で壊され、そこを俺が助け、ここまで連れてきたことなど。
ミセス・ダーリントンは話を聞くにつれ、俺に対する険しい表情を和らげ、だんだんと好意的な印象を動作で現すようになった。
馬車が吹き飛ばされた突然の死の危険、大量のグレボーに迫られて絶体絶命の窮地、そこから俺の手に寄って颯爽と救いだされ場面をアンジーが語り終えると、女主人は唐突に近寄ってきて、その迫力のある身体で力強く抱きしめてくれた。
巨乳のやわらかな感触はあったが、実に嬉しくない抱擁だった。
「大変だったねえ。あんたも、よく見たら随分と良い男じゃないか。なにしろアンジーは年に似合わず良い娘だからね、砂糖菓子みたいに舐めたくなる娘っ子さ。そいつに群がってくる悪い虫かと思ってたよ!」
「ヨースケはわたしの命の恩人なの。別に付き合ってるとかじゃないから」
「あんた、ロリコンじゃなかったんだねえ! よおし、うちに泊まってくなら安くしとくよ!」
ようやく開放してくれた女主人は笑って頷くと、ダイナミックに己の巨乳を叩いて請け負った。
アンジーが嘆息した。
「おやおやアンジー、だいぶお疲れだね」
「さすがにね」
「顔も蒼いじゃないか! すぐに部屋で休みな。あとのことはあたしに任せるんだ。ほらそこのダメ親父、アンジーを部屋に運ぶんだよ! 若い娘に無理させるんじゃないよ、ったく」
「ミセス・ダーリントン。私の足もわりと限界なのだが」
「でも、ヨースケにまだ……」
「アンジー、俺の目にもきつそうに見える。今すぐ休んだ方が良い」
「ごめん、ヨースケ。先に休ませてもらうね。今日は、ありがと。話は明日また」
「フィリップ早く! 聞こえなかったのかい!?」
「うう、皆が私に冷たい」
受付で記帳を済ませると、ミセス・ダーリントンが自ら部屋に案内していった。
その後、俺にも部屋を割り当てられた。料金は確かにサービスされたようだった。
「ヨースケ、あんたこの街は初めてだろ? それなら前の道をまっすぐ、ひたすらまっすぐ歩いて、一番向こうにある食堂に行ってみるんだね。スプーンの絵が目印さ。あたしのオススメのメシどころだよ!」
俺は女主人から教えて貰った通り、まっすぐ歩いて飯屋に向かった。
陽が落ちても家々と店の灯りは明るいままで、歩きやすかった。
途中で、冒険者のなりをした人々と何度もすれ違った。
なるほど、アンジーの言った騒がしい街、閉ざされない街、そしてハンターの集う街。その呼び方はどれも正しかった。
曰く、様々な活動があるなかでも、特にモンスター退治をメインとして生計を立てているタイプの冒険者をハンターと呼ぶ。
その名の通り、怪物狩りなわけだ。なにしろ、この世界においてモンスターとは、金銀銅の貨幣や希少なアイテムをドロップする大事で貴重な金づるだ。
戦えば当然命や怪我の危険もある。しかし倒せば倒すだけ儲かるのなら、その方が楽だとか好みってこともある。
この街に来てから目にした冒険者の大半が戦い慣れている風だった。
で、こんな時刻にもかかわらず武器を手にして街の外へ向かう者たちもいれば、帰ってきてすぐ鎧姿のまま酒場へと足を踏み入れる一団もいる。
彼らには昼も夜も関係無い。
ただ金を稼ぎたくなったら出かけて、大金を手にすればぱあっと使ってしまう。
そしてそれは命掛けで稼いできた対価なのだ。
誰に咎められるようなことでもないし、それを批難するような者はこの街にはいないし、来ない。
便宜上とばかりに備え付けられた開きっぱなしの門、その周辺は寂れていた。
各々好き勝手に空いた柵の脇を通り抜けて出入りしている姿ばかりが見えた。
そこにあるのは色んな顔だった。
面倒くさそうな顔、必死な顔、楽しげな顔、ただ、どんな顔であっても彼らは皆、ハンターだった。
ここはハンターの集まる街、あるいはハンターが集まって出来た街。
ネストンは、そんな街だった。
夜の街の賑わいを横目に、辿りついた食堂は『銀の匙亭』といった。
酒も出しているようだが、メインは料理だった。
席に着いている顔を見回すと、半分ほどが明らかにハンターだった。
残りは街の住民だろう。
この店を訪れた客は、冒険者であっても格好は大人しい。
誰も鎖帷子や鎧は着込んでいないし、仰々しい武器もほぼ見当たらない。
もちろん、戦い慣れた連中なら懐に短剣の一本も仕込んでいるのだろうが、ここは道中に山ほどあった酒場とは違い、そういう荒事向きの場所ではないのだ。
客の大半が穏やかな顔をして、食事を楽しんでいる。
メニューの文字の描き方からして、若干お洒落っぽい。
いつぞやブラスタインやその他数名と飲んだ店が居酒屋だとすれば、ここはレストランの雰囲気があった。
ただし、少しだけ値段も張る。
客の入りを見た限り、味の心配はしなくても良さそうである。
「いらっしゃいませ、お初のお客様ですね。ご注文は?」
「そうだな、……イラーナ豚のコルトゥル鍋で」
「お酒はお飲みになります? それともパンを?」
「パンで」
ほどなくして出された料理に、俺は舌鼓を打った。
美味い!
とろっとして、白く、あんかけ風の中に潜んだ、やわらかな味わい。
鍋と言いつつ、ほとんどスープのような優しさで、パンをそれに浸すと、それだけで心も体も温まる。
だが、決して味がやわらかいだけではない。
煮豚のようにしっかりと味の染みこんだ豚肉は歯応えも良い。
ひとつ噛み締めるたびに深い味が広がり、ゆっくりと舌の上でほどけていく。
甘みのある汁の上には、ぎざぎざの葉っぱが浮いている。この葉っぱのさりげない苦みが、肉、スープ、と繰り返し口の中に含む際の、アクセントとして完璧だった。
気づけば、俺は二杯目を頼んでいた。
荒野を歩いてきたあいだに、こうした街の味に随分と飢えていたらしい。
保存食として買い込んだ干肉に飽きていたこともあったのだろう。目は楽しんだが、舌と胃袋は疲れ切っていたに違いない。
そこに最後のだめ押しとばかりに、グレボーからアンジーを助け、三人でここネストンまで若干強行軍で突っ切ってきた疲労を思い出した。
途中で食事も取ったが、落ち着いて席に座って、となると何日ぶりになるだろう。
俺はただひたすら食事に専念した。少し固めに焼かれたパンも、ちぎってみれば、なかはふわふわだった。
ああ、美味い。
「お帰り! どうだい、おいしかっただろ!」
「たしかに美味かったが……どうしてあの店を薦めたんだ?」
「そりゃこの街で一番旨いメシを出すからだよ! 当然じゃないか。ま、あたしの妹の店だけどねえ」
「おい」
「ちゃんと理由もあるんだよ。この街の連中は濃い味付けが好きだからね、どこの店もそっちに寄ってるが……妹の店じゃあ、繊細な味付けが自慢なのさ。王都で修行した旦那がコックだしね。その分ちょいと値段も張るけど……あんたも満足しただろ?」
「確かに美味かったが」
「そうそう、若いんだから素直が一番だよ。あの親子も、素直に生きられたらその方がいいんだけどねえ……」
「どういう意味だ」
「おっと、口が滑ったね。年を取ると口数が多くなっていけないねえ」
失敗失敗と呟きながら口を押さえた女主人は、そのまま仕事の続きに戻り、俺もそれ以上触れずに部屋に戻った。
ベッドに入って眠りに就く直前、小声でスピカの名を呼んだ。
「はいはい、何でしょうご主人様」
「昼の出来事について、思い当たる節はあるか?」
「モンスターに執拗に狙われることは、無いわけではないのですが……あんな風にアンジーさん一人を狙い続けるのは、あまりにも異常と言えます。ワタシの知る限り、自然に起きることではありません」
「岩場の上にいた魔法使いは?」
「何だったんでしょうねー」
「……だよなあ」
助けに入ってくれたのは分かるのだが、色々不可解ではあった。
俺とスピカは不思議に思いつつも、明日からの予定を軽く相談するのだった。