第二話 『はじめまして、ご主人様!』
黒い本を手にしたまま俺は固まっていた。
「さすがご主人様、いきなり捨てられそうなんて絶体絶命! でもワタシは主人様の所有物ですから、どんなプレイにも応じなければいけませんね! 『捨てられたくなければ……分かるな?』みたいな! そこでワタシは嫌がる素振りを見せつつ、頬を染めて、逆らえないビクンビクンッ! みーたーいーなーっ!」
黒本は楽しげに言った。
呆気にとられたのは一瞬だった。
「本に頬は無いだろ。つーか所有物って」
「これって、よくある異世界ファンタジーで道ばたに売られていた奴隷を大金で買って優しくするよりもっとこう深い感じですよね! だってモノ扱いですよモノ扱い! しかもアナタなしではいられない的関係って言うか。きゃー! ご主人様のえっち!」
会話が成立していないと思うのは、果たして気のせいだろうか。
というかよくある異世界ファンタジーって、おい。
「というわけでご主人様! ワタシを存分に使って欲しいと言うか、ご主人様の色に染め上げて欲しいというか、こう、ご主人様の手で開発して欲しいというか……きゃっ」
黒本はハイテンションのまま語り続けた。
「おい黒本」
「そんな本の片隅にもおけない致命的な間違いのある役立たずと、ご主人様のためだけに存在する世界最高の魔導書たるワタシを一緒にしないでください」
それまでの楽しげな声とは一転、低く真剣な声だった。
黒本呼ばわりは禁句だ。触れてはならない地雷だった。
気をつけよう。
というかキャラ作ってねえか。こいつ。
疑わしく思っていると、自称最高の魔導書はこう告げてきた。
「さあご主人様、世界征服でも魔王討伐でも思うがままにしてください! ワタシとご主人様の力をもってすれば、生きとし生けるものすべての敵になっても逃げられるくらいの能力は発揮できるに違いありません!」
自称魔導書の言葉に引っかかりを覚えた。
「すべての敵を倒せるくらい、とは言わないのな」
「ぎくっ」
「発揮できるに違いありません、って微妙に逃げをうってないか」
「ぎくぎくっ」
「……そもそもどうやって使えと」
「そこはまあ、ご主人様の知恵と工夫で!」
恐ろしいな。混乱とテンションのせいで調子に乗るところだった。
可愛らしい少女の声にほだされそうになるが、本物の魔導書って結構な割合で呪われてるものではないだろうか。
疑えばきりがない。
創作ファンタジーにおいて、力ある魔導書は危険物の別名だ。
使えば使うほど寿命を削るとか、一度でも使うと死ぬときに魂を奪われるとか、その手の逸話があれこれ思い浮かぶ。
危険が発生するのは魔導書に限らないが、強力な武器や道具にはたいてい相応の制限や代償が存在しているものだ。
便利すぎるものに頼れば、調子に乗ったあたりで必ず落とし穴に落ちる。
とはいえ、行動しないことには状況を打破できないことも事実。
少女の声を持った魔導書に、慎重に質問を選んで尋ねてみた。
「何が出来る?」
「ワタシと契約すれば、ご主人様は特別な魔法が使えるようになります!」
契約、と来た。
そして魔法。
心引かれるのは事実である。
ここがファンタジー的な異世界なら身を守る術は必要になる。危険生物には事欠かないことは、あの怪物的な植物だけ見ても明らかだ。
現に崩壊した謎の遺跡に閉じ込められている。
「どうして契約が必要なんだ」
「ワタシ――魔導書は正式な契約によって魔導書としての機能を使えるからです。ワタシは道具ですから、使ってもらわなければ存在している意味がありません」
魔導書の声は静かだった。
嬉しそうだとか悲しそうだとか、隠しきれない感情が見え隠れしている。本の姿であるため表情が変わるわけでもない。
ただなんとなく、魔導書の感情が読み取れるのだ。
「待った。契約してない段階で、どうして俺のことをご主人様とか呼んだ」
「その……ご主人様には、ずっと抱きしめられてましたから」
「は?」
「鞄ごしでも、ご主人様のぬくもりを感じていたら……その……」
本を見た。頬を染めているような、照れているような、そんな感じがした。
電車でしばらく鞄を抱えていたときのことを言っているのだろう。
さすがファンタジー。
よく分からん。
「それに……流れ込んでくる気持ちも心地よかったんです」
感情やら心やらも俺とうっすらと繋がっているらしい。その心地よさが、この短い時間のあいだに、この本を虜にしてしまったようだ。
とにかく俺を気に入ったらしい。
「真の主になって欲しい、と魔導書から頼み込むのはすごく恥ずかしいことで、一世一代の告白みたいなものなんです……」
「もし断ったら」
「ワタシ、塵になります」
「物騒だなおい!」
……重い。
想定していた危険とは違う方面で重い。
「これ以上の相手は現れない、と確信したからこその告白ですから!」
「つまり、次善の相手とかは考えないと」
「そんな尻の軽い魔導書とは思わないで欲しいですね!」
少なくとも答えに嘘は感じられない。
「さっきの断られたときの対応だが、俺に呪いをかけるとか、自爆するとか、一緒に破滅するとか、そういう答えをしなかったのはなんでだ」
塵になると答えたのも、罪悪感を煽ったり同情を惹くためでなく、聞かれたから正直に答えた風だった。
契約しなかったら呪いますと言われても、真贋を確かめる術などないのだ。
「逆に聞きますが、ご主人様。これから長く連れ添って欲しい、そして信頼して欲しい相手に、そんな嘘をつきますか」
「……いや、誠実な方が印象は良いな」
損得を考える知性もある。情も理解している。
この魔導書が単なる道具ではないことは自明だ。ならば知性あるパートナーと考えるべきである。ちらほら覗く趣味嗜好にいささかの疑念はあるが、そこに目を瞑ればお互いに有益な関係を築けそうだった。
「……お前を使うことで、俺にリスクはあるのか」
「あります」
「だよな。具体的には」
「ワタシを介さない限り、一切の魔法が使えません」
「……他には」
「え?」
「何か俺にとって不都合になりそうなことはないのか」
「ワタシと本契約すると、他の魔導書とは今後契約できなくなる、くらいですかね」
「寿命を奪ったり魂を食らいつくしたり魔法が尻から出たりはしないのか」
「え、なんですかそれ怖い。どんな悪辣な呪いの書なんですかそれ!」
不思議そうに沈黙する魔導書を見つめると、目があった気がした。
外界の情報をどうやって得ているのかよく分からない。
本である以上、感覚器官など持ち合わせていないはずなのだ。
やはり魔力か。不思議パワーなのか。
俺とこいつで常識が食い違っている気がしてならない。
「お前は、なんだ?」
「さっきも言いましたけど、ご主人様専用の世界最高の魔導書ですってば!」
「聞き方が悪かった。魔法とは何で、魔導書とはどんなものか。そこから頼む」
「あれ?」
ひとしきりうなったあと、魔導書はもう一度、あれれ、と漏らした。
やはり何か致命的な齟齬があるらしい。
「ご主人様、魔法使いですよね」
「違うが」
両方の意味である。そもそも俺はまだ二十歳にすらなっていないが。
「で、でも、だってこんなに大量の魔力がありますよ?」
「知らん」
「ワタシとの繋がりも普通に確保されてますよ?」
「と言われても」
「こんなに凄まじい才能があるのに、どうして魔法使いじゃないんですか!」
こいつは何を言っているのだろう、という俺の視線をものともせず、魔導書はひたすら叫び続けた。
「まさかアレですか、敵を切り刻んだり切り刻まれたりすることに快感を覚えてヒャッハー!とか叫ぶ剣士なんですか!」
「違う」
「それとも他人を癒すことで信仰を得たり信用を勝ち取ってその裏側でお布施をがっぽり儲けてヒャッハー!とか叫ぶ僧侶なんですか!」
「剣士や僧侶に恨みでもあるのか」
「ま、まさかとは思いますが他人の情事を覗くことで隠れたり情報収集能力を極めた挙げ句財宝を奪ったり、人様の懐から多額の金銭や名誉を掠め取ったり、乙女の大事なものを盗んでいってヒャッハーと叫ぶ盗賊だったりするんですか!」
「……おい」
「違いますよね、違うって言ってください! ワタシのご主人様がそんな一般的な職業であるはずがありません! 栄光と才能と知力によって選ばれし最高のジョブ、そんな素敵で無敵な魔法使いだって言ってくださいご主人様!」
悲痛な叫びだったが、俺は切ないトーンで返した。
「俺は、無職だ」
「ご、ご主人様?」
「無職で何が悪い」
「あの、その」
気まずい様子の魔導書に、俺は淡々と続けた。
「最後は必ず面接だ。そして面接官は俺を一目見た瞬間に不採用を決める。年齢は問題じゃないって言われた。相談所の係員は話し方にも振る舞いにも問題はないと太鼓判を押してくれた」
いつでも、どこでも同じだった。
百数十社から断られたとはいえ、書類選考や試験であればほぼ通過した。
直せる部分は全部直した。
なのに決して、採用通知だけはもらえなかった。
二十回を超えた頃、不合格をその場で言い渡されてから、理由を尋ねるようにした。
理由を教えてくれた彼らは、口をそろえて言った。
「同じ場所で働くことをためらわせる何かがある、と」
口にすると落ち込む内容だった。
「ご安心くださいご主人様。ワタシには断られた理由が分かりますから!」
スルーしたかと思っていたが、魔導書にこう断言されたのだった。