第二十三話 『魔法』
「ふふん、ワタシとご主人様の力を持ってすればこの程度容易いですね!」
スピカが言った。
俺は表紙をぽんと軽く叩いておいた。
魔法使いには詠唱が必須であることが常識なのに、俺は呪文のみで攻撃魔法を使った。
魔導士は、たった一言口にするだけで魔法を使える。それも連発出来てしまう。
俺のやったことの異常さは、見る者が見ればすぐに分かるらしい。
未だ距離を保ったまま、見えない攻防を延々と繰り広げている二人も、俺の奇襲と呆気なく無力化された三人の結末に、わずかに手を止めていた。
両者、ともにありえないものを見たように、横目で俺に視線を向けてきた。
隙が出来たのを察知したナスターシャは、一撃を突き入れた。巧みに躱されたものの、彼の動きは精彩を欠いていた。
わずかな時間で剛剣は仲間を喪い、取っていた人質は救われた。
明暗が完全に入れ替わったのだ。
逆転の一手を隠し持っているかもしれないが、この期に及んで繰り出せる機は来ないだろう。
俺は魔導書たるスピカを手に、その場に佇んだ。
居並ぶ守備隊の面々は、驚愕をもって俺を見た。この手にした黒い書に視線をやった。
畏怖の表情を隠さなかった。
「ヨースケさん……色々聞きたいところですが、今はそれどころではなかったですねー」
単なる魔法使いではなく、尋常ではなく強力で希有な、あるいは(スピカ曰く、現在では)唯一の魔導士であると晒したが、後悔はなかった。
ナスターシャも驚いてはいたが、すぐに気を取り直した。
魔導士は想像の範疇になかっただろうが、何かを隠していることは想定されていた。
その分だけ冷静さを取り戻すのが早かったのだ。
「剛剣さん。これ以上は無駄です。降参していただけませんかねー?」
「どのみち、違法奴隷に関わった場合は死罪。それは覆らねえ。見ての通り、おれも誘拐の共犯だったんだぜ」
守備隊の面々がざわついた。
この国には合法的な奴隷制度がある。そして誘拐は大半が違法な奴隷売買目的であり、これへの関与は極めて重く罰せられる。
ナスターシャが首をかしげた。
それから難しい顔をしてため息を吐いた。
「……なるほど、ね。でも、この状況で勝ち目があると思います?」
「隊長さんよ、さっき奇跡が起こって欲しいって顔だったじゃねえか。けど諦めなかったら奇跡が起きた。ほら、来いよ、どうした! おれは剣を握れるし、戦える。死んでねえ、死んでねえんだッ! ……まだ、終わってねえんだよッ!」
自分に言い聞かせる声だ。
言葉通りブラスタインの目は死んでいなかった。何かを狙っている。
「ソフィア、大丈夫か? あのオッサンの言う通り、悪いがまだ終わってない」
「はい、あ、あのっ、助けに来てくれて、スタンも、わたしも……」
「まだだ。その言葉は、もうしばらく待ってくれ」
「え? あの、ヨースケさん、何を……」
混乱し、戸惑っているソフィアだったが、守備隊員たちに任せた。
彼らは助けたスタンとソフィアをまず馬車に乗せ、それから残った最後の敵を取り囲もうとしたのだったが、ナスターシャが声で制した。
「下がって。まだです」
「少しは油断してくれよ」
「油断させたいなら、その殺気、多少は抑えるべきでしたねー」
数の暴力で押しつぶすのが最善だろうに、彼女の部下たちは素直に従った。隠し球を警戒しているナスターシャの様子を眺め、ブラスタインは長々と嘆息した。
「よう、ヨースケ。昨日ぶりだな」
「……ああ」
突然、俺に水を向けてきた。
剛剣のブラスタイン。
同姓同名の別人であるはずもなく、一緒に酒を飲んだ相手だった。
知っていることは少なく、顔を合わせたのも短い時間に過ぎなかったが、好んで悪事を行う人間には見えなかった。
いや、酒を飲み交わしたとき、俺は好ましいとすら思っていた。
大きな剣を携えて、強大な敵、凶悪なモンスターに立ち向かう。
そんな立ち振る舞いに、筋骨隆々とした体躯は、スタンでなくとも憧れるのが分かる。
やり取りを見て、ナスターシャは眉をひそめた。
「魔法使いとは戦ったことがあるが……さっきのは違うな。思った通り、面白いヤツだよ。お前は」
ブラスタインの述懐は、本音なのか、あるいは何か他の意図があるのか。
ナスターシャに比べて距離があるとはいえ、俺は警戒を緩めず、言われた言葉に耳を傾ける。
仲良くなれそうな相手ではあったが、誘拐犯の一味であったことは事実であり、そして今も武器を握りしめたままで、決して気を許せる状況ではない。
俺との会話に興ずる剛剣に、ナスターシャは表情をさらに険しくする。こんな時に始める話とは思えなかったが、誰も彼の言葉を遮らなかった。
「あれは、久しぶりに楽しい酒だった」
「……そうか?」
阿呆に絡まれて、成り行きに任せただけの酒の席だった。
「俺を知らない、お前みたいな若いヤツと飲めて……愉快だったよ。美味かったんだ」
透明な表情だ。
ブラスタインの言葉も淡々としていた。愚痴るというよりは、吐露、あるいは懺悔にも似た声色だった。
視線こそ俺に向いてはいるが、結ぶべき焦点がぼやけている。
「有名な……いや、すごい冒険者なんだろ、あんた。なんでこんな真似を?」
「さて、どうしてだろうなぁ。……とっくに忘れちまったよ」
夜天の下、俺たちのあいだに生ぬるい風が吹き抜けた。
「悪ぃな。無駄な時間取らせちまった。悪いついでにもうひとつ。さっきは隊長さんに先に言われちまったが、改めて名乗らせてくれ」
俺は頷いた。ナスターシャも、止めなかった。
ブラスタインは、二つ名ともなった剣を掲げた。
無骨で、勇ましく、そして巨大な剣。
剛剣を握りしめ、大音声で胸を張り、ナスターシャを見据えた。
「おれは剛剣! 剛剣のブラスタイン! 誘拐犯の一味で、所詮は悪党、見ての通りに落ちぶれたクズが言うのも馬鹿げてるが……いざ、尋常に――」
「――勝負!」
付き合う義理もなかろうに、表情を一転させ、ナスターシャが薄く微笑んだ。
ブラスタインは俺ではなく、まずナスターシャに剣を向けた。
武人めいた人間にしか理解出来ない気分があるのかもしれない。
巨大な剣の重さからすると信じられないほど軽々と振り回し、その名の通りの剛剣が彼我の間合いを削り取った。
大剣と槍、武器の長さとしては槍が勝るが、刃の部分と幅では大剣が優位だ。
どちらも戦闘巧者なようで、長物を手足の延長のように自在に操っている。
しかし、精神的なプレッシャーから解放された分、形勢はナスターシャに傾きつつあった。
俺はと言えば、こないだのグランプル殲滅によって身体能力は激増したが、技術面ではいささか心許ない。
この攻防に上手く混ざれる自信もないし、武器らしい武器も持っていない以上、この激戦に介入するなら魔法に頼る他はないのだ。
せめて邪魔にならないよう、ある程度の距離を保ったまま、切れ間のない打ち合いを眺める。
「ご主人様、どうなさいます? 自分の世界に入り込んでしまった二人が動き回って狙いを定めにくいなら、このスピカにお任せあれ!」
スピカの声に、すぐには応えられなかった。
「もしかして……震えておられるのですか?」
手の中から聞こえた声は、どこか気遣わしげだった。
俺はスピカを見た。
黒い魔導書を握りしめた自らの手は、スピカの言った通り、少しだけ震えていた。
「ああ! もし先ほどのことが原因なら気にする必要などないのです! ご主人様はソフィアさんとスタン少年を救うため、当然の手段を執っただけです。どのみち生きて捕まえても死刑が当然の輩だったわけで、情けを掛ける余裕も必要も……」
「いや、そうじゃない。そうじゃないんだ」
クズ相手とはいえ、殺傷力のある魔法で狙った。
敵は当然のように死んだ。
もちろんショックは受けているのだが、後悔はしていない。
するつもりもない。
俺は、それだけの力を持っていることを改めて自覚した。それだけだった。
防がれる可能性を考えつつ、スタンに向けられた刃を止めるため、牽制のつもりで撃った《氷狂矢》ですら、たった一撃で殺せてしまった。
あのとき怒りにまかせて《不諦炎》を使っていたら、この周辺一帯が火の海に飲まれていた。
先日、超巨大植物型モンスターであるグランプル相手に《不諦炎》を使ったときは、威力が大きすぎて、派手すぎて、現実感が少なく、得られた実感もあまりなかった。
俺の使える魔法は、俺を主と仰いでくれる魔導書スピカは、本当は恐ろしいものなのではないか。
そしてこの力は、指先に力を入れて引き金を引くより銃もある意味容易く、意思と言葉のみで発揮される。
「ああ、そうなのですね……やっぱり、ワタシのご主人様は、貴方しかいません。恐れる必要はありません、ご主人様。そのためにスピカはいるのです。貴方の魔導書は、貴方の望みを叶えるためにいるのです」
俺の心情を汲んだように、スピカの声は優しかった。
「魔導士となったご主人様は、大いなる力を得られました。しかし、どれほど強大であっても、所詮は力に過ぎません。ほら、ご覧ください」
声だけでスピカが指し示したのは、ブラスタインとナスターシャが、絶え間なく互いの武器を合わせ、逸らし、弾き、動き続け、その命を削り合っている姿。
殺意に塗れたブラスタインの一撃を受けては、ナスターシャが流麗な所作で槍で無力化を図る。
致命の一閃を何度となく繰り広げては、ただの一度も有効打を与えられない。
殺すために、捕まえるために、武器を持って戦う姿。
周囲のことなど忘れたように、舞踏めいたその動き、獣めいたその一撃、つかず離れず寄せては返す、命を賭けた殺意の波。
たまに飛び散るのは血か汗か、掠めた刃によって頬やら腕から血が落ちる。
夜闇に仄明るく差す月光を受けて、散った雫が赤く輝く。
長らく優位にあったナスターシャも、生け捕りを狙ったせいか、体力的な問題もあってか、いつしか趨勢がブラスタインに傾きつつある。
単純な殺し合いとなっていれば、ナスターシャに軍配が上がっていた。
それを余裕ぶったゆえの失敗と見るか、必要な出費だったと見るかはひとによる。
ついにナスターシャが、槍を持つ手に殺意を乗せた。
生け捕りを狙う余裕は長らく争ううちに使い切ってしまったのだ。
ブラスタインも殺す気で剣を振っていたようだが、気配の変化を敏感に感じ取って、動きが変わる。
あとに残るのは凄惨な殺し合いだ。
力量に差がありすぎて、守備隊の部下は近づくことすら許されない。
介入のタイミングを間違えれば、敬愛する隊長の邪魔になる。
あるいはこの期に及んでも手を出さないのは信頼ゆえか。
「彼らが振るう武器のように、それを何のために、どうやって、どのように使うのかこそが肝要なのです。さあご主人様、貴方の望みを今ここで! どうぞ、このスピカに命じてくださいませ! ワタシはそのために共に在るのですから!」
俺とスピカの会話なぞ、誰も聞いてはいなかっただろう。
それでも何かを感じ取ったのか、ナスターシャとブラスタインは、この瞬間に同時に後方に飛び退いて、一定の距離を取った。
「スピカ」
「はい、ご主人様」
「死んだら話も聞けないからな。無力化出来るか?」
「……あの様子では死ぬまで止まらない感じですね。仕方ありません。死なない程度にぶっ飛ばしましょう! なーに、ご主人様の力を以てすれば、その程度の望みなら容易いことです!」
俺はスピカを左手で掲げ、残った右の掌をブラスタインに向けた。
「何か良い魔法はあるか?」
「ご主人様、ページをめくってください! 新しい魔法が記されてませんかっ?」
先ほど見せた手札は《氷狂矢》だけだ。それすら視界の片隅で、詳細については理解していないだろう。
ただ、《氷狂矢》はまっすぐ氷の矢を撃ち出すシンプルな術理だ。
当たれば凍り付かせて行動の妨害にもなるし、急所に当たれば殺傷出来る威力はあるものの、ブラスタインには見切られる気がした。
かといってこの場で使うには《不諦炎》は威力が高すぎる。
戦闘に俺が混ざることを察したブラスタインは、魔法攻撃を警戒して妨害しようと牽制の一手を仕掛けてきた。
突進してくる巨漢は思っていた以上に恐ろしい。
詠唱抜きで魔法が使える以上、手をこまねいている余裕はないとの判断だ。
ページをめくり、新たな魔法を探しながら、戦闘域から距離を取る。
「以前お伝えした通り、魔法とは意志の発現であり、魔導書は想いをかたちにするものです!」
均衡を崩した剛剣に隙が生まれ、そこをナスターシャが突く。
俺が射線を保持することで、二対一の形となる。
動きにくいはずなのに、ブラスタインは、先ほどまでより余程充溢した雰囲気を滲ませた。
鋭い刺突を大剣一本で巧みに逸らし、その勢いのままに駆け抜けて、ぐるりと回って俺の背後へと。
「魔導士の成長に合わせて、魔導書もまた強力になるのです!」
「だったら!」
ページ一枚を探り当てる余裕すら与えてくれない。
見えたのは獰猛な笑み、そして一瞬で振りかぶられた大剣が、高く頭上から、俺の脳天へと、人間の身体能力ではありえないほどの加速をつけて振り下ろされる。
俺がグランプル撃破で大量にレベルアップしたように、ブラスタインもまた、冒険者として生きてきた今までの人生ゆえに、相当な量の強化がなされている。
それは積み重ねてきた戦闘と苦境、そして強敵の死の結実だ。肉体を強化する浮遊マナの摂取とは、同時に、文字通りの経験値の取得に他ならない。
二つ名持ちの冒険者、その全力で発揮された殺意は、少しばかり強くなって勘違いしていた素人を殺すには十分な一撃だった。