第十二話 『小さな親切』
肌寒さを感じて目が覚めた。
部屋の窓から届いた柔らかくて白い光、廊下の壁にもたれて寝ていたせいか間接や骨がわずかに痛む気がする。
ブランケットがずり落ちて、その感触が腕から離れていく。
ぼやけて滲んだ視界がはっきりしてくると、目が合った。
「うおおわあああ」
「きゃっ」
こっちも驚いたが、向こうも驚いていた。
ソフィアが顔を覗き込んでいた。
「……お、おはようございます」
「あ、ああ。おはよう」
昨晩のやり取りが思い出されて気まずいなんてものじゃない。ソフィアはすでにエプロンドレスに着替えており、服屋の店主としての顔に戻っていた。
表情こそ俺と同じくたっぷりの気まずさを含んではいたが、昨晩のどこか悲痛さを覗かせるそれとは異なっていた。
目だ。
瞳の輝きが違う。
とても清々しい、明るい笑顔を見せてきた。
俺をまっすぐ見据えて、ソフィアは言った。
「よ、ヨースケさん!」
「お。おう」
「そ、その!」
次の言葉が出て来ない。口がわなわなと動いてはいるが、はっきりと言葉にするのは躊躇われる、といった様子だった。
意を決して、ソフィアは叫んだ。
「ご、誤解しないでください! 昨日のアレは、その、アレだったんです!」
「アレ?」
「だ、誰にでもああいうことを言ったりやったりするわけじゃないですし、昨日のわたしはちょっと、いえ、すっごくアレだったわけで……アレはそーゆーことで、だから忘れてくださいっ」
「忘れろと言われてもな」
ソフィアは顔を真っ赤にしつつ、口をとがらせた。俺は少し意地悪に聞き直した。
「アレとかアレって、具体的には何のことだ?」
「し、知りませんっ! それより早く起きてくださいっ。ヨースケさんの分も朝ご飯、作っちゃいましたから。そ、それと着替えも用意したので」
顔に向かって乱暴に投げつけられ、それを手に取る。街中で見かけたものと似た服とズボンだったが、拡げて見ると俺の体格には若干大きめだ。
「……そ、その、お父さんの服なので、ちょっと大きいかもしれませんけど……あとでヨースケさんのサイズに合わせて詰めますから」
「あ、ああ。ありがとう」
お互いに言葉が詰まり詰まりではあったが、昨日の一件はそれほど悪い影響を残してはいないらしかった。
少し安心した。
服を着替えようと思ったが、ソフィアが目の前から動こうとしない。
「……着替えるところが見たいのか? まさか俺の裸に興味が?」
想像したらしく、一気に赤面した。
一事が万事この調子だ。昨晩は本当にアレだったらしい。
どれだけ取り繕っていたのやら。
ソフィアは慌てて手をばたばた振りながら、違いますと叫んで逃げた。
気を取り直して着替え始めると、逃げたはずのソフィアが戻ってきて、一言だけ口にした。
「ヨースケさん。……昨日はすみませんでした。それと、ありがとうございましたっ」
そして再び逃げ去った。
静寂に、唐突にスピカが呟く声が聞こえた。
「……さすがはご主人様っ」
「どういう意味だそれ」
「パーフェクトコミュニケーション、ってやつですね!」
「だからどういう意味だっての」
朝食時、平静を装うソフィアに、こちらも合わせて対応する。
が、ちらちらと視線がこちらを掠めていく。
嫌な感じはしない。警戒されている風でもない。
俺の表情や所作のひとつひとつが興味津々に注目されている。
昨日も注意深く見られていることはあったが、それとはまるで違う雰囲気だった。
目が合うと、さっと逸らされたが、視線が再び重なったりもする。
あんまりじっくり見られていると、それはそれで落ち着かない。
ソフィアのもずっと笑顔というわけではなく、思い悩む表情も、お澄まし顔も混じっている。
なのにその全部に共通して朗らかな感じが覗く。
悪い傾向ではない、はずだ。
と思うのだが、俺の人生経験ではそれ以上は分からない。
スピカは口を噤んでいる。なのに(ご主人様のにぶちん……)と言われた気がした。
ぺし、とさりげなく表紙を指で弾いておく。
朝食を食べ終えた頃、ソフィアから言われた。
「そ、それでヨースケさん、これからどうなされるつもりなんですか……?」
俺は少し考えてから言った。
「しばらくはこの街を回るつもりだ。スーツは店に置いておくから、作る服の参考にしてくれ」
「いいんですか。本当にいいんですか?」
「ワイシャツも渡しておく。別に多少乱暴に扱ってもかまわない」
「あ、ありがとうございますっ。そ、それでですね」
現状では悪目立ちしそうだし、街中でスーツを着る機会は当面無いだろう。
ソフィアは一度口ごもり、言った。
「ヨ、ヨースケさんが良ければ、今日もうちに泊まってください。お父さんの使っていた部屋を片付けるので……そこを使ってもらえれば」
俺はすぐに答えなかった。
ソフィアは目を伏せて、頭を下げてきた。
「昨日のことは忘れてください。その、ヨースケさんに言われたこと、ちゃんと考えて決めたことですから」
残念なような、ほっとしたような。
「今日からは宿を取ろうかと思ってたんだが……年頃の女性が男を連れ込んだ、なんて評判になってたら」
「だ、大丈夫です! その……泊まってもらえると、わたしが嬉しいです」
「……考えておく」
このままずるずるとソフィアの家に居着いてしまうのはまずい気がする。
だが、助かるのは事実だった。
そして俺は途方に暮れた。
どうしてこうなってしまったんだろう。
「姉ちゃんを、姉ちゃんをかいほーしろーっ!」
「そうだそうだ!」
「ソフィアちゃんのこと、自由にしてやってくれんかね……」
「お前みたいなやつにソフィアちゃんが……! やっぱり昨日、身体を張ってでも止めるべきだったんだ」
「くそ……亡くなったあの娘の親父さんに申し訳が立たねえ……!」
店から出たところで、ぐるりと取り囲まれた。
周囲には隣り合った店やソフィアの顔見知りと思しき方々。
ほとんど全員から睨まれている。
というか、みな殺気だっている。
「……一目見たときからヤバイやつだとは思ってたんだ……ちくしょう!」
「あの子は優しい子なんだよ……! どうしてこんなことに……」
「気立ても良いし、近いうちに良い相手を見つけてやろうと思ってたのに!」
最初に叫んだのは茶髪で元気そうな男の子だったが、ソフィアは一人っ子だと聞いたばかりである。彼女を姉と慕う近所の子供だろう。
ここら一帯の住民が、互いに家族同然に付き合っていることは見て取れた。
あまり納得したくないが、理解はした。
昨日の流れが他人からどう見えたか、それが問題だった。
「やっちゃいましょう、ご主人様」
俺にだけ聞こえる声だった。
ソフィアから借りた服には奇しくも大きなポケットがあった。おかげで、そこにスピカを入れておけた。
俺を取り囲む集団は距離を保っているため、スピカの声は聞こえない。
「物わかりが悪い相手にはまず火力を叩き込むべきです! 動けなくしてぼこぼこにして逆らう気を消し飛ばしてから、ゆっくりと話をする。それを魔法使い流の『おはなし』と呼ぶのだと知識に……!」
「それ、真似しちゃあかんやつだろ」
「ダメですか」
「却下」
効果的なのは認める。
何か誤解があるようだし、この程度で近隣住民を痛めつけるのも躊躇われる。かといって無視して通り抜けることも難しい。
「この通りだ……ソフィア嬢ちゃんを、放してはくれんか」
「爺さん! こんなやつに頭を下げるなんて」
「大事なのはソフィア嬢ちゃんの安全じゃ。そのためならこんな老骨の頭など、いくらでも下げよう……!」
「ゾリ爺……っ!」
俺はいったいどこまで極悪非道な存在として見られているんだろう。
「あんたぁ! ソフィアちゃんのこと、目の敵にしてたんじゃ……?」
「儂にとってはな……孫のようなもんじゃ。だからこそ厳しく当たろうと」
「そうだったのかい……わたしゃ、ずっとゾリ爺が気に入らないだけだと」
「こうなって、ようやく分かったんじゃよ……」
「分かってくれるよ。ソフィアちゃんも、きっと分かってくれる」
「ああ、儂の命なんぞくれてやる! だからソフィア嬢ちゃんには二度と関わらんでくれるな! 頼む、この通りじゃ……」
しまいにゃ泣くぞ。
こんな大騒ぎをしていたらソフィアも気づく。
集中したかっただろうに、作業を放り出して大慌てで店から飛び出してきた。
「なんなんですかこの騒ぎ!」
周囲を見回し、ぽかんとしていた。
「安心しろソフィアちゃん、俺たちが助けに来たぞ!」
「早くこっちに! そんなやつから離れて!」
「すまなかったね……あとはわたしらに任せて、急いで向こうに逃げるんだ! さあ!」
「いいかい! 絶対に振り返るんじゃないよ! サボ、ミエラ、打ち合わせ通りに!」
ため息もつけない。
俺がわずかに動こうとするだけで、若い男連中がびくり、と震える。
下手に動くと彼らは暴走しそうだ。
俺の言葉は耳に届かないだろうが、当惑しているソフィアが状況を把握してくれさえすれば、すぐにでも状況が好転するはずだ。
「あ、あの、何がいったいどうなって」
「おい! なんだこの騒ぎは!」
「とりあえず散れ! 固まるな! 誰か事情を説明しなさい!」
あたふたするソフィアと、向こうから来る警邏の二人組に気を取られていると、男の子が木の棒で殴りかかってきた。
狙いはもちろん俺である。
へっぴり腰なわりに、振り下ろし方に躊躇がない。
「オレがソフィア姉ちゃんを助けるんだ! お前なんか、お前なんかーっ!」
一応避けたが、たとえ当たってもほとんどダメージはない。
グランプル撃破によって得られた浮遊マナは通常では考えられないほど膨大な量だった。
肉体が相当に強化された自覚があるだけに、子供相手に下手に反撃するのも躊躇われる。
振り回された棒を避け、死角に回り込むと、子供は俺を見失ったようだ。
「ああっ、オレの剛剣がぁーっ!」
危ないからと、手にしていた棒は取り上げておく。長く太いごつごつとした棒で、子供が剣と呼びたくなる気持ちは分からないでもない。
スタンに限らず、たとえここにいる全員から攻撃されたとしても、俺は無傷で切り抜けられる。それくらいには身体能力が上がっている実感があった。
「あ、くそっ。お前なんか、お前みたいなやつがっ」
「貴様! そんな子供まで……暴れるなよ!」
「全員離れろ! 誰か応援を呼んでくれ! ここはなんとか俺たちが足止めする!」
警邏の二人が、俺を凶悪犯か何かだと思った状態で接近してきていた。
……もうやだ。
「あ、あの。ヨースケさんが、なにか」
「なに言ってるんだい……! ソフィアちゃん、あいつに好き勝手されたんだろ!」
「そうだよ! 逆らえないのをいいことに襲われて、身体を弄ばれたり……」
「ばかっ。ソフィアちゃんの気持ちを考えなっ。口に出すんじゃないよっ!」
「もてあそばれ……わたしが!? 違います! そんなんじゃありません!」
ソフィアが顔を真っ赤にして、俺をかばうようにして前に出てきた。
「け、けどよ、ソフィアちゃん」
「皆さんが集まった理由はよく分かりました! ご心配、ありがとうございます! でも余計なお世話です! もう、すっごく恥ずかしい……!」
「じゃ、じゃあ、何もなかったのか……綺麗な身体のままなんだな?」
「あんた馬鹿! そういうのを口に出すんじゃないわよ!」
「でもよ、母ちゃん」
「でもじゃないわよ! ごらん、ソフィアちゃんが泣きそうな顔してるわよ!」
発言主は奥さんにひっぱたかれて、怒声にせっつかれながら、そのまま向こうへと消えていった。
怒りを向けるには、あまりにも情けなさ過ぎる相手だった。
「ヨースケさんはすごく素敵な方です! 勘違いしないでくださいっ!」
一方でソフィアはすごい剣幕で、口々にしゃべる近隣住民を叱りつけている。
居並ぶ大勢の大半がそろって安堵していた。
鈍い動きで包囲は解かれた。
しかし生暖かい視線と殺気が増えたのは、気のせいではなさそうだった。




