第十一話 『針で刺されたような胸の痛みは』
ソフィア視点です。
長らく感じていた体の重さが、少しずつ消えてゆく。
強ばっていた体から力が抜けて、やわらかいものに身を委ねる。
初めては誰にでもあるものだ。
赤い血が落ちて、染みになる。
さすがに初めてで何度も何度もというのは予想外だけれど、どうせなら早いうちに慣れた方が良くて、慣れてきたら楽しめると聞いたことがある。
最初から色んなことを試したせいで、疲れたけど。
すごく疲れたけど。
戸惑いながらでも、やっているうちに上手くなって気持ちよくなる、と。
そして真っ白になって――
真っ白で、眩しくて。
朝の光が、まぶしくて。
がばっ、と我ながらスゴイ勢いで体を起こした。
爽やかな朝の光が窓から射していた。
カーテン越しに照らされた白い陽光は、わたしの寝室を明るくしてくれた。お腹を隠すようにかけられた毛布が床に落ち、ひとりベッドの上にいる自分に気がついた。
そして自分の隣に誰も居ないことに驚いてしまった。
もうずっと、一人で寝ているのに。
両親が生きていたときだって、一人で寝ていたはずなのに。
「……あれ、今のって、夢だった?」
すごい勢いでなんだかとっても恥ずかしくなって、顔が熱くなる。
うわ。うわわ。
わたし、何かすごい夢を見てたような。
あ、いや、お仕事だ。見ていたのはお仕事の夢のはず。
両親を手伝うため、小さい頃に初めて針仕事をやったときの。血も、刺さった針で指先からぷっくりと血が出たときの。
それでついハンカチで拭いたら、そのハンカチはお店に置くための大事な商品で、お母さんに怒られたのだ。
かき回すように動かした棒は、きっと、かぎ針か何かだ。毛糸を編んで、それを上手に出来るようになるまで。
脳裏に浮かぶ言葉がなんだかアレな感じだ。
ああ、違うのだ。
そんなことは思ってない。あああああ。夢! 夢だから! 恥ずかしい。
違うの。違うんです。なんかすごく恥ずかしい。
それもこれもヨースケさんと逢ったせいに違いない。
あれ。天井を見た。横を見た。わたしはベッドで寝ていて、昨日何があったか、自分が何を口にしたかを思い出して、凍り付いた。
うあ。
うああああああああああ。
あわ、あわわ。
恥ずかしい。さっきの比じゃないくらい恥ずかしい!
なにさっきの夢、ばっかじゃないの!? わたし何考えてるの!? っていうか、昨日あのあとどうなったの!?
わたし、ベッドの上。
ヨースケさんの姿は無い。
はっとして確認するけど、変わった様子は見当たらない。何にもない。逆に不思議なくらい普段通りだった。
ほっとする。
いや、なんでほっとしてるの、わたし。違うでしょ。
と、ようやくここでヨースケさんが部屋の外、廊下の壁に寄りかかって寝入っていることに気づいた。寝息が聞こえてきて、今の醜態、そう、醜態だ。
恥ずかしくもだえているわたしのみっともない動揺を見られてはいなかったことに安堵する。
えーと。
うーんと。
寝起きではっきりしていない頭で、考える。
考えて、考えて、昨日のことを思い出して、頭を抱えた。
ふああああああああ!
声に出して叫ばなかったのは、わたしに残った最後の理性のおかげだった。
音を立てないようベッドからそっと降りて、ブランケットにくるまれたヨースケさんを起こさないよう、抜き足差し足で部屋から抜け出る。
いや、起こすべきだとは分かっているのだ。
昨日のことについて話す――謝る? ええと――必要があるわけで、なんだけど何を喋ればいいのか全然まとまっていないから、とりあえず顔を洗いたい。
分かっている。
問題の先送りだということは。
で、冷たい水で顔を洗いながら、なんとか思考をすっきりさせる。
最初に気になったのは、貨幣のぶつかり合う音だった。
お金があれば、何か上手い手が使えるかも知れない。そう考えていたせいだ。
鞄の中に入っているのは銅貨じゃなくて銀貨。
いや、もしかしたら金貨かもしれない。確信ではないけれど、推測は出来た。
そうだ。
わたしは一番最初、ヨースケさんの鞄の中身を気にしていた。
なんて浅ましい。
盗もうと思ったわけじゃない。
ただ、お金をいっぱい持っていると気づいて、目が追っていたのだ。
裕福な方の着るような服って、いったいどんなものだったかしら。
このときはもう貴族の方から注文された内容をどうしようと、頭がいっぱいで、少しでも参考になりそうなものを探すため街中を彷徨っていた。
いつもと違うひと、違う音、違う動き、そういうものを探し回っていて。
次の瞬間、自分の間抜けさを呪いたくなった。
視線を上げて服だけを見ていたときには気づかなかったけれど。
ヨースケさんは、有り体に言って……怖かった。
とってもとっても怖かったのだ。
銀貨でも金貨でも、あんなに大量に、しかもたった一人で鞄に入れたまま(その鞄もあまり見ない珍しい造りだったけど)平気で持ち運んでいる時点で、わたしみたいなのが関わっちゃいけないのは、はっきりしていた。
そんな当たり前のことすら見失うほど、わたしは追い詰められていた。
ヨースケさんは、触っちゃいけない雰囲気をまとっていて。
見たこともない服を着こなしていて。
それがあんまりにも鮮烈で、劇的で、まるで暗闇の中に射し込む一条の光のように目を奪われるものだったから。
わたしは前に出た。
勇気を出して、声にしたのだ。
「お願いがあります。……その服、わたしに見せていただけませんか」
心の限り冷静に伝えた、つもりだ。
失礼にならないよう、ただ想いを込めて、お願いしたはずである。
口に出してから、今更のように不安が過ぎった。殴られるかもしれない。殺されるかもしれない。日頃感じない恐怖が、お腹のあたりをきゅうっとさせた。
知人のおじさんが横から余計なことを叫んだ瞬間は、頬を引き攣らさないことに必死だった。
ここで怖がったりしたほうがよっぽど相手を不快にさせる。
当たり前のことだった。
しかも、声を掛けたのはわたしのほうなのだ。
これで謝って逃げるとか、それこそ殴られても文句が言えない。顔から血の気が引いたのは、さすがに仕方のないことだと思う。
でも、ヨースケさんは少しだけ笑んで、普通に対応してくれた。
その笑顔にほっとしたのを、よく憶えている。
あとは勢い任せだ。
スーツを見せて貰ったり、話したり、色々。
なんであんな剣呑な雰囲気だったのか分からないくらい、わたしの言葉に真摯に耳を傾けてくれて、長くなった話にイヤな顔ひとつせず付き合ってくれた。
わたしも初対面の相手になんでこんなに色んなことを話しているのか不思議なくらい素直に口に出来て、それで、聞いているあいだヨースケさんはずっと優しく見守っていてくれた。
もちろん、スーツはすごかった。
困り果てていた今、あれ以上に参考になるものなんて存在しない。
でも、スーツを見せてくれたことに対する対価として、身体を捧げようなんて思ったわけじゃない。
ただ……とても、嬉しかったのだ。
お礼なら、お金でも良かった。幸いというかなんというか、家には高位貴族の方が注文の手付けとして置いていった金貨があった。
だからそれを渡すという選択肢もあった。
でも、それは嫌だった。
自分の身体を金銭の代わりにしたつもりはない。日頃感じる視線から、これが十分な対価として利用できることは分かっていたけれど。
感謝とか、嬉しさとか、安堵とか、好意とか。言葉で言い尽くせないくらいの、そういうものが全部綯い交ぜになった気持ちを、どうにかして表したかったのだ。
近所のひとたちとの関係は悪くない、と思う。
だけどそれは頼れることを意味しない。裏表無く付き合っているのはスタンの両親くらいだけれど、そんな彼らを巻き込むことは出来なかった。
貴族様からの注文を受けざるを得なくて、でもどうしようもなくて、周囲には助けてくれるひとなんか見当たらなかった。
服のことは専門外だから。
貴族様関係じゃ手に負えないから。
やっとの思いですがったひとたちは、みんな同じ困った顔で逃げていった。
分かってた。きっと、そうすることしかできなかった。
貴族の方相手の商売は、怖い。
装いから分かってしまったが、この小さな店には不釣り合い過ぎた。
貴族の方を怒らせてしまえば、直接的に手を出されることがないとしても、素知らぬ顔で日の当たる場所で商売を続けていくことは難しい。
服飾以外の技術など持っていないわたしが、この店を奪われたら。その不安に苛まれながら、ただひたすらに探し求めた答え。
彼は助けてくれたのだ。
誰も救ってくれなかった、単なる町娘に過ぎないわたしを。
与えてもらった分を返すのは、当たり前のことだ。
その、わたしとしても、少々頭に血が上っていたのは事実だ。
ひどく短絡で即物的だったことは否めないけれど。
……うん、ちょっと早まったような気がしないでもない。
後悔しているワケではないけれど、なんというか、お礼としてなら、誰にでもそうするとヨースケさんに思われたら、悲しい。
そう思われかねない行動を取ったことが迂闊だったと反省している。
ただ、ひとつだけ確かなことは。
やっぱりヨースケさんは、優しいひとなのだろう。
洗った顔を拭いて、すっきりした頭で廊下を引き返す。まだ目覚めていないヨースケさんはブランケットにくるまったままで、その寝顔をしばらく眺めた。
落ち着いて見ていると、なんだか。
短く切りそろえられた黒髪。ハミンスでは珍しい髪の色だ。瞳の色も黒くて、きっとすごく遠い国から来たのだろう。
最初逢ったときから、昨日話している最中も、ずっとすごい威圧感があって、優しげな表情なのにどこか怖い雰囲気を感じていた。
けれど、こうしてじっくり眺めていると、寝顔はどこか可愛らしかった。
わたしの知る精悍な職人の顔とも、美形の貴族様の華やかさとも違う、不思議な顔立ち。
昨日の夜とは違う意味で、ドキドキしてきた。
近い年齢の男のひとの寝顔を、こんなにまじまじと見たことなんてない。
いや、昨晩すっごく大胆な真似をしてしまっておいてなんだけど、結局何もなかったわけで、つまり、ええと、今になってから妙に意識してしまう。
それに気づいたとき、目を逸らそうとしていた事実が再び思い出される。
ちくりと、胸に小さな痛みをおぼえた。
その痛みは切なくて、悲しくて、寂しかった。
そっか、わたし、何にも分かってなかった。
一晩置いたことで、それが分かった。
わたしは――




