第七部 ユメワタリの樹(5)
(5)
突然、見知らぬ言葉が脳裏に浮かび上がる。
『再接続を実行中』、『接続に失敗』、『システムに致命的なエラーが発生』。
次々に言葉の洪水に襲われる。
何が起きたのかは全く分からなかった。
ただ、ひとつだけ何故か理解出来たこと。
『樹木』に何らかの異変が起こったのだ。恐ろしい何かが。
帰らなければ、と咄嗟に思ってから質量を持った手の平を見る。
今の自分にはその手立てがない。
ユメからユメへ渡り損ねて消滅したユメワタリの末期を思い出す。
『僕は消えてしまうのかも知れない』
無意識に、そう発していた。
誰もが手を止め、ユメワタリを見た。
何らかの異変が外部からも確認出来るのか、皆が神妙な面持ちをしていた。
ボクに治せる?痛いの?辛いの?ごめんね、何も出来なくて。
そんなかんなの声が徐々に遠くなる。
景色に不快なノイズが走り、故郷の事もユメワタリとしての生き方も記憶から徐々に失われて行く。
『大樹』と生きていた自分が、人間が呼吸をするようにずっとユメを渡って来た当たり前の感覚が薄れて行く。
だが失われて行く膨大な記憶の中でたったひとつ、ここへ自分が訪れた理由だけは未だにそこに刻まれていた。
忘れる前に、伝えなくちゃいけない。あの人の思いを。
自分が壊れていく感覚に恐怖を抱きながらも必死に最後の記憶をたぐる。
それすら忘れてしまっては、全てが消えてしまう気がした。
いつの間に落としたのか、座り込んでいたその足下に転がっていた光の珠をそっと震える両手で抱えて差し出す。
『・・・かんなにって、これを託されたんだ』
ほんの少しの羨ましさと意地悪な気持ちがわだかまって渡しそびれていた光の珠を、そっと差し出す。
どうしてそんな意固地になっていたのか、後悔の思いが沸き上がる。
僕達は、もっと親しくなれたかも知れなかったのに。
おずおずとかんなはそれを受け取る。
銀色の光は、先日失った砂時計のそれのようだ。
その表面を覆っていた銀色の渦は次第に薄れ、中には人が赤子のように浮かんでいた。
「あ・・・!」
その小さな姿ですら、かんなは彼が誰なのかを一目で理解した。
「お兄さんが・・・」
そうだ。
ボクに名前を与えてくれた、大切な人。
なのにお兄さんは自分の名前を教えてくれず行ってしまった。
ボクもお兄さんに尋ねる事が出来なかった。尋ねるという行為を知らなかった。
やがて、光の珠はゆっくりと解けるように広がり、ヨハネス本来の姿を形取った。
かんなと出会った時よりも彼は10歳ほど歳を取っているようだった。
彼の世界ではそれなりの時間が流れたのだろう。
かんな。
お前は変わってないんだな。
苦笑してヨハネスはかんなの頭を撫でようとしたが、その手はかんなの体をすり抜けた。
だが、誰もがさして驚きもせずその様子をただ見守っている。
お前の名前を決めたのに、俺は自分の名前を名乗らずに戻ってしまった。
だからずっと気になっていた。
勿論、中途半端なあの小屋の事も。
お前が、どんな生き方に辿り着いたのかも。
あれから理由も分からないままひたすら大工仕事に励んで、街一番の建築家になった。
毎日、がむしゃらにかんなをかけた。
周りは皆『幸運の神隠し』のお陰だと言ったけれど、俺は自分自身の努力の賜でもあると思ってる。
ここで出会ってここで知った事、それを俺はこうして心の奥深くで憶えていた、だからお前に恥ずかしくないように毎日を過ごしたんだと思う。
それこそが、俺達の国に伝わる『幸運の神隠し』の正体なのかも知れないな。
誰もがきっと、お前に出会って生まれ直したんだ。
…ああ、今のこの記憶も想いも、きっとまた忘れてしまうだろうけれど。
また会えて嬉しかった、『かんな』。
お前がいつか、本当の自分を取り戻した時に何が起きても・・・俺は、お前の味方だ。
そして、茫然と佇むローウェや以前と変わらぬサエを見た。
もう、ひとりぼっちじゃないんだな。
・・・良かった。
「待って、お兄さん!」
かんなが叫んだ。
ボクに名前を付けてくれた人。
あれから、たくさんの事があったんだ。たくさん話したい事もあるんだ。
でも、そうじゃなくて。
「・・・お兄さんの名前をボクに教えて!」
だって、ボクはまだお兄さんから『聞いていない』から。
それは、一番話したかった事よりも何よりもボクにとって大切なこと。
ヨハネスは目を細めた。
そうして次第に消えゆく姿とは逆に、空まで届くかのような大声で言った。
初めて出会った時の、酔っ払いの姿の記憶まで吹き飛ばすように。
俺の名前は、ヨハネス。
ヨハネス・モイストロだ。よろしくな、『かんな』。
一陣の風が吹き、次の瞬間ヨハネスの姿は消えていた。
彼が消えたその場所には小さな『何か』が残されていた。
それにかんなは躊躇うことなく手を伸ばす。
見覚えのある形。砂時計を模した、木の彫刻がそこにはあった。
ただ、それはかんなの砂時計とは似て否なるものだ。
恐らくヨハネスの世界に伝わる伝承や、彼が本来属している世界に不在だった時間に替わりとして存在していた砂時計を見た誰かから聞き出して、彼なりにイメージして作り上げたのだろう。
「こんなんじゃないのになぁ、もう」
それでも細やかに掘られたそれはとても美しく、もし彩色して飾ったなら本物の砂時計のように見えるだろうと思う。
けれどかんなのそれとは大きく異なる。一回りか二回りほど小さく、それに施された華奢で繊細な装飾は逆にそれがヨハネスの優れた技巧を証明している。
おずおずとそれを手の平に載せる。まるで計算されていたかのように小さな手の握り締めたその中にすっぽりと収まって、かんなの肌に不思議と良く馴染んだ。
彼の残した建物に視線を送る。
多少はローウェによって手直しはされて風雨に晒されていても、未だに表面はあの時に近い、荒削りのまま。
あの建物のように。
・・・ボクも、あの時のままなのだろうか。
それとも何か変わったんだろうか。
ボクに名前をくれた人。
記憶をなくしたはずのその人が、それでもどこかでボクの事を忘れずにいてくれた。
お兄さん・・・ヨハネスさんは、心のとても深い場所でボクにこの小さな宝物を渡したいとずっと思ってくれていたのかな。
『良かった』
いきさつを黙って見届けていたユメワタリがぽつりと呟いた。
その場にいた全員が、その声の主を見た。
とても穏やかな表情を浮かべているその姿を。
もうすぐ、自分も消えて行くのだろう。
それでも最後に、人間の願いを叶える事が出来た。
ちっぽけなユメワタリの自分がその本来の役目を超えたのだ。
それでいいんだ。
でも、最期に。
『ローウェさん』
ユメワタリは、初めて自分を抱き締めてくれた人間の名前を呼ぶ。
そして、勇気を振り絞る。
どうせ消えてしまうのなら、最期くらい我が儘を言ってみたい。
人間みたいに。
『僕を、あの時みたいに・・・抱き締めてもらえませんか』
は?とローウェは間抜けな声をあげる。
暫し考えて、それがかんなとコカトリスの例の一件の事だと思い当たった。
そう、このユメワタリと初めて出会ったあの時の。
『消えて行くなら、あなたの側がいい』
拒否される事を恐れているのか、語尾が掠れている。
ローウェは一瞬躊躇したが、足を踏み出した。かんなをキッと見て、こっちを見るなよ!絶対だぞ!と言い置いてからユメワタリにそっと触れた。
そして、そっとその体を抱き締めて気が付く。
あの時は必死だった為に全くそんな余裕がなかったのだ。
女、だったのか・・・。
柔らかな体は仄かに女性としての成長の兆しを伺わせる。
心なしか、ふんわりと優しい香りがその髪から漂って来る。
ユメワタリはゆっくりとローウェの背中に腕を回した。
白くて細い、だがまだ幼さを残すその腕。
だが、その身体は偽りのものなのだ、分かっていても。
少し離れた場所から静かにユメワタリとローウェを見つめるサエの姿があった。
ユメワタリに起きつつある変化を、まだどちらも気付いていないようだった。
ふたりが互いにそれに気が付いた時、どんな表情をするのかしら。
そして今、その胸に抱いている感情を何と呼ぶのかも、あの少女はまだ知らない。
かさぶたが鋭い針先で何度もつつかれるように、ローウェの心のどこかが痛む。
俺は、また失うのか。
こうして何も出来ないまま。
薄れた筈の記憶が吹き出そうとするのを押さえるかのように小さな身体を抱き締めると、ユメワタリは少し苦しげに声を上げた。
その声に我に返りほんの少し力を緩めながらも、ローウェはいつまでもその身体を離さずにいた。
お読みいただきありがとうございます。
4日後にまたお会い出来たら幸せです。




