第七部 ユメワタリの樹(3)
(3)
『彼の名は、ヨハネスと言うそうです。』
かんな達の住む家に通されて落ち着きを取り戻したユメワタリは記憶の断片をぽつぽつと語り始めた。
あの渦の中で拾い上げる事の出来た彼の想いは、味わった恐怖には釣り合わぬ程にささやかだった。
聞き覚えはありませんか。ユメワタリは言葉を続けた。
ほぼ同時に誰もが首を傾げる。
その様子から、再び不安になる。
僕は間違った場所へ来てしまったのだろうか。
それとも彼の無意識による探索の時間は余りにも長く、かなりの時間が経過し過ぎてしまったのだろうか。
実体を持ってしまった身体で居心地悪く時間だけが過ぎていく。
とにかく今のユメワタリはさっさと用事を済ませてこの状況の解決方法を少しでも早く知りたかった。
男の願いを叶えたら本当に元の姿に戻れるのか、という不安を払拭しながら。
この重たく不自由な体から解放されればどこかの安全なユメの中へ逃れることも可能だろう。
・・・例えば目の前のこの能天気そうな、先程自分を巨大な生き物で轢き殺しかけたこの子供のユメだとか。
3対の瞳を、姿を、無遠慮に順番に見定める。
そうして男が探していた相手の名前を思い浮かべるが、特段インスピレーションが刺激されるでもない。
そもそも、そんな能力など持ち合わせていないのだから、姿形が変わっても結局は自分の内面は変わらないらしい。
そうなれば考えるしかない。
ユメワタリである自分の存在を歪めて探したいと願い続けた相手・・・。
そして、ひとつの答えに行き当たった。
『彼は、あなたを呼んでいました。本当に忘れてしまったのですか?・・・かんなさん』
そうしてローウェを見上げる。初めて出会ったその人、身を挺して見知らぬ自分を守ってくれたこの人こそ、恐らく彼が捜していた相手なのだと。
ローウェはちんまりと佇むかんなに視線を落とす。
サエも静かにかんなを見る。
ユメワタリもつられて、その小さな生き物に視線を落とす。
かんなは困惑した様子で振り返って、何の変哲も無い石造りの壁を見る。
「お前の知り合いだとよ、かんな」
え?とユメワタリが困惑の表情を浮かべた。
自分よりも小さな子供が彼の探していた相手だったなんて。
『このちっ・・・いえ、この方が、かんなさん?』
かんなは少しムッとした顔でユメワタリを見た。
そしてユメワタリは不安を隠せない表情でかんなを見た。
互いの瞳が互いの奥底を窺うように交錯した。
瞬間、ユメワタリの魂に静かな衝動が走り抜ける。
かんなさえ忘れたその記憶の正体に打ちのめされ、そして塗り固められた嘘の中で閉じ込められた小さな魂の瑕を見た。
ユメワタリをここへ誘った男の想いを今ははっきりと感じられた。
・・・ああ、彼が捜していたのは。
もう間違うはずがなかった。
不意にサエがローウェに声をかけた。とても小さな声で。暫く、ふたりきりにしてあげましょう。
我に返ってローウェは頷いた。
かんなとユメワタリ。
互いに、自分のようなただの人間には感じられない何かを共有しているのかも知れない。
かんながただの子供ではないのだと感じさせられる瞬間だ。
そもそも目の前にいるかんなが、自分が日頃見ているかんなであるのか、それとも以前のように、奥に秘められているらしい他のかんなであるのかも分からない。
それが少し悔しい。
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「ボクはずっと自分に名前がなかったから、他の人に名前があるんだって分かってても、つい聞くのを忘れてしまって・・・」
いつか誰かに同じ事を話した気がする。
出会った相手の名前を知ることが日常の一部となった今出会ったなら、ヨハネスという名前にも思い当たるの事が出来たのに。
そして傍らでかんなの独り言に耳を傾けるユメワタリも名前というものに意義を見出さない。
ユメワタリには名前という個々の存在に対する識別、そして他の同胞と異なる存在である意味を持たせる必要がないからだ。
ユメワタリは彼らの故郷、『樹木』と呼ばれる場所から飛び立ち、そこへ帰る。
ミツバチが巣へ蜜を運ぶように、彼らはそこへ集めたユメの欠片を運び込む。そうして暫しの休息を得た後に再びユメの世界へと飛び立つのだ。
故郷に帰ったユメワタリは、そこに蓄えられたユメの記憶を『樹木』から与えられる事によってそれらを共有する事も出来た。
つまりユメワタリという存在はそれぞれが完全に独立した個体ではなく、『樹木』を中核とした数多のユメワタリをも含んだ集合体こそが真のひとつの生命なのだ。
その一部であるユメワタリのさらにたったひとつの存在など、さして重要ではないとも言える。
人間が髪の毛一本に想いを馳せ名付けない様に、ユメワタリもまたそういう存在でしかないのだ。
強いて言うならば故郷を飛び立ち、再び戻るまでの時間だけがユメワタリが個体として経験し、感じ、己だけで成り立つの「かりそめの命」として存在しているとも言えなくもないが。
けれど、何故だろう。
かんなの事が羨ましいという気持ちが微かに芽吹いていた。
名前を得るというのは己の存在を認めてもらったという証。
得たものを共有する前の、小さな自分という存在を。
例えば最初に出会った人間が自分に名前をくれたなら、どんな気持ちになるのだろうか。
もしも自分に特別な存在として名前を与えてくれた人がいたならば、相手の事を自分は決して忘れないのにという想いが一瞬浮かんで消えた。
そうして光の珠を強く抱き締めて、ユメワタリはただ黙り込んでいた。




