第六部 勇者の降臨(7)
こんにちは。気が付くと第七話に突入していました。
長いですね・・・すみません。
お付き合い頂けると嬉しいです。
その時、アルノルドの剣がぐにゃり、と形を変えた。
まるでサエに、かんなに頭を垂れるように白い光は地に這い、その輪郭がぼんやりと大気に混ざって行くように薄れていく。
何が起こったのか分からぬまま、アルノルドはふたりから数歩、後退した。戦意は一瞬で失われていた。
きつく握り締めていた剣の柄も、その瞬間を待っていたかのように芯を失ったかのようにぬるりと彼の手から抜け落ちた。
その白い光の塊は暫く膨張と収縮を繰り返し、不規則に形を変えつつゆっくりと何者かになろうとしていた。
立ち尽くすアルノルド。
あれが何者なのか、忘れる筈がない。
己の人生の分岐点、そのきっかけである者の存在を。
「サエさん、怪我は」
自らが傷だらけの小さなかんなが、気遣うようにサエの背中に手を伸ばす。
それはまるで、甘えて抱き付いているただの子供の仕草のようにも見える。
サエは普段と変わらぬ様子で身体を起こすと傷付いたかんなの身体をそっと抱き締めた。
それを静かに見守っているのは『白き聖獣』、かんなの前に頭を垂れ、背の翼を折りたたみ、まるで従者の如く控えていた。
「そう、あなたがボクを・・・ありがとう」
かんなはそっと聖獣の頭を撫でた。
彼は恐らく、最も信頼し愛した親しき人間の妄執に囚われつつあった心を助け出す者をずっと捜していたのだろう。
それはアルノルドが『堕天の神』への憎しみを募らせ始めた頃からだったのだろうか。
想いを言葉に出来ず伝える事も叶わず、それでもただ彼に寄り添った。孤独な人生の旅をただひたすら共に過ごしながら。
勇者の孤独をせめて分かち合いたいと。
聖獣はかんなに全てを委ねるようにされるがままとなっている。
それ以上の事実は必要なかった。
アルノルドは己の相棒の姿を暫く見つめ、力なく膝をついた。金属の重い音が静かな部屋に響いた。
ふわりと少し遅れて臙脂のマントが彼の背後に垂れる。まるで彼が流した血のように。
聖獣がふとアルノルドを見た、そしてアルノルドも聖獣を見た。
言葉はなくとも、今のアルノルドには旧友の想いが静かに伝わって来た。
この世界だからこそ起きた奇跡なのだろうか。
知るのが遅すぎた、ずっと共に旅を続けた親友の抱き続けた慈悲深い心。
傷付いたかんなはそれでも何とか大地を踏み締めるように立ち上がり、静かに告げた。
「貴方は、確かに『勇者』なのだとボクは思います」
アルノルドに手を差し伸べるでも近付くでもなく、ただ淡々と言葉を続ける。
今のかんなには、ローウェはおろか、サエさえも触れる事は禁忌のように感じられる。
「でも、それはあくまで『あなた達の正義』と言う揺るがない前提があってのことに過ぎない」
貴方の世界が貴方の血族にそれを願い、貴方たちはそうして生きる事しか許されなかった。
人としての生ではなく、勇者としての誉れ在る死を望まれた、まるで呪いをかけられたような人生。
アルノルドに最早返す言葉はなかった。
呪い。『堕天の神』により与えられた呪い。だが先程、目の前の小さな子供が言った、呪いをもたらしたのは貴方達人間だ、と。
その言葉に己を忘れるほどに激高したのは。
或いは気付いていたからなのかも知れない、その呪いの正体に。
勇者の名を与えた者も、預言を授けた者も、一族の終焉を信じた者、全て人間、そして己自身・・・。
「では、違う正義の下に生きる者達にとって、あなたは果たして『勇者』たりえたでしょうか?」
貴方が進む道の礎となり命を落とした者、彼らに愛し愛された者にとって、貴方が拓いた未来は果たして安寧の場と言えるのでしょうか?
ローウェの中を過去の思いが過ぎる。
あなたに言われるまでもない、ずっと知っていた。
私と共に世界を救う旅に挑んだ名も無き人々、戦いの最中に命を落とした者、その残された家族。
世界に平穏が戻ろうと、彼らの最も愛した者がそこにないのなら、それは今までと何が変わるだろうか。
平和が訪れたとしても、それが己の大切な者を踏み台として作られたものならば、その世界を愛する事が出来るだろうか。
訪れた平和への感謝の言葉の裏に、私を恨む思いが垣間見える時もあった。
…世界に平和を取り戻せる勇者ならば。
どうして、最も大切なあの人を守ってくれなかったのか、と。
それでも歩みを止める事は許されなかった。
己自身も、それを許すつもりはなかった。
守れなかった仲間の分、正義の剣を振るう以外に自分が出来る事はなかった。
貴方は、貴方の生きる道に於いて勇者だった。
けれど、誰かの生きる道に於いては貴方は倒すことが適わなかった敵に過ぎない。
貴方が勇者としての在り方を唯一の希望として胸に抱いたまま生きていけるのならば、それは貴方にとって正道なのでしょう。
ボクはそれを否定しない。
貴方がボクを討ち倒し、それが長年捕らわれて来た『勇者』の血族の解放と完成となると思っているならば。
でも貴方の心には疑念があった。
だからこそ貴方はボクを目指して突き進む事に意味を見出して生きるしかなかった。
考えて立ち止まる事は、貴方にとってこの上ない迷路に迷い込む事に等しかったから。
うなだれたままのアルノルドの体に戦慄が走る。
何かを言おうにも、混乱した思考の中で言葉を紡ぐことが出来なくなっていた。
それでもやがて、ゆっくりと思考は流れ始める。
かんなの言葉は、己が心の奥に抱いていたものとどれ程違うと言うのだろう。
一族に呪いをかけた『堕天の神』は最大で最後の敵。
それを葬るためならこの道をひたすら進むのだという決意と、奪われた命の傍らで生き延び戦う事に迷いを感じた時に唯一己を奮起させた最後の砦。
その願いが叶ったならば。
今度こそ、もう剣を取る事もなく。
もう、勇者と名乗る必要もなく。
やっと言えるのだ。
自分もただの弱い生き物なのだ、と。
弱々しくこの世に生を受け、子供から大人へと育ち、いずれ年老いてこの世を去っていく、誰とも変わらないひとりの人間なのだ、と。
だからこそ。
だからこそこの目の前の子供の姿をした未知なる者を、私は殲滅しなければならなかった。迷ってはならなかった。
例えそれが誤った選択だとしても、私は・・・。
救われたかったのだ。
長き時を共に過ごして来た、剣の本性である聖なる獣がおもむろに立ち上がるとアルノルドの元へゆっくりと歩み寄る。
アルノルドの俯いた顔をその柔らかな毛並みが優しく撫でていく。
慰めるように、愛おしむように。名残惜しげに。
初めて見た聖獣は見上げるほどに大きく、威厳に満ち、その角は悪しき者全てを打ち払う強い刃のように幼いアルノルドの脳裏に焼き付けられた。
だが成長した己が見るその身体は思い出よりもずっと小さく、それでも変わらずに威厳に満ち溢れている。いや、むしろ優しげに。
本当に、長い時間が流れたのだな、と実感する。
『勇者』の血族という呪縛が生まれ、代々それを背負って生きて来た私達一族の、そして私の時間が。
そして、改めて感じた。
この高潔な獣が己の為に心を砕き、救いを求め続けてくれていたのだ、と。
これ以上の誉れがあるだろうか。
それが聖なる獣だからではなく。己が憧れ、生涯の相棒として信頼を寄せていたその尊敬すべき相手も私の為に憂い、喜び、ただずっと側に居てくれたのだという事実が。
言葉などは必要なかった。だが、アルノルドは一言だけありがとう、と小さく呟いた。
暫くして白い獣、『勇者』に受け継がれし剣は再び小さな子供の傍らに戻って行った。
それが示すのは、私と相棒との別れだけではあるまい。
若干の名残惜しさと寂しさが胸に刺さる。
だが。
私も行かなければならないのだろう、己の人生を。
それがたった今、言外に交わされた友との最後の約束。
しばしの沈黙の後、かんなはアルノルドの名を呼んだ。
聖なる獣と『勇者』との最後の別れを妨げないよう、存分な時間を与えてくれたのだろうか。
彼を見つめるかんなの瞳は、彼を裁く冷たさを帯びているようでもあり、彼への慈しみを滲ませているようでもあった。
それは、白き聖なる獣のものとどこか似ていた。
貴方ももう気付いている筈だ。
勇者という妄執に囚われた世界の呪いから免れるために、あくまで勇者としてボクと言う『堕天の神』に対峙するならば。
もしくは、ひとりの人間としての貴方自身がボクに剣を向けたならば。
・・・貴方はもう『勇者』ではないのだと。
ボクにとっても、貴方にとっても。
今の貴方は、ただの人間に過ぎない。
アルノルドの口が、声にならないまま動いた。
『もう勇者ではない』、とかんなの言葉を反芻して。
不意に涙が溢れた。
同時に聖なる獣がまるで仔犬の様に鼻を鳴らした。友を気遣うかの如く。
最早、恥も外聞もない。そういえば、最後にこんな風に涙したのはいつだっただろうか?
今、自分は赦されたのだ。
ただの人間である己を引きずり出され、古から続く呪いの如き『勇者の妄執』に縛られ続けた哀れな男であると晒されて。
私は今、弱い人間になれたのだ。
『勇者』ではない、ひとりの男に。
その一方、聖なる獣を傍らにかんなは考えていた。
貴方は貴方の世界の願いの通りに己の運命を全うすべきだったのかも知れない。
勇者として望まれ祝福の中に誕生し、勇者として惜しまれながらも人生を終える、それが貴方の幸せだったのかも知れない。
例え貴方がボクに敗れたとしても、ボクは『堕天の神』として貴方に引導を渡すべきだったのかも知れない。
それとも、ボクが貴方に討ち取られ、その首級を挙げて凱旋したのなら。
それが貴方の世界の摂理だったのだとしたら。
貴方は苦しまずに『勇者』という己を受け容れて行く事が出来たのに。
それでも、と柔らかな白い毛が血に染まる事も構わずにかんなの側を離れない聖なる獣の姿に目を落とす。
貴方の戦友が願い、そして『かんな』が貴方を選び召還したというのなら。そこに、きっと必然があったのだ。
一呼吸おいて、かんなはアルノルドを真っ直ぐ見据えて言葉を続ける。
それを見返すアルノルドのそれには既に躊躇いはなかった。
「ボクは、ボク自身が貴方を召還した、その責に於いて貴方を元の世界へお返しします」
どうか、貴方の大切な親友の想いを忘れないで・・・。
アルノルドの朦朧としていく意識の中、最後の言葉はどこかへ消え去って行った。
お読みいただきありがとうございました!
また3日後に更新予定です。




