第五部 夢の欠片(2)
サエが『食材の仕入れ』から戻ると、息を切らしたローウェが待ちかねた様子で駆け寄って来た。
息を切らした上、鬼のような形相だ。
「…あのくそガキ、やりやがった」
サエが不在だったのは、ほんの2日程だった。
その間に一体何が起きたと言うのだろう。
「あ!サエさんお帰りなさい!!」
同じようにサエを待ちわびていたらしきかんなが、こちらは嬉しそうに小走りで近寄って来た。
慌て過ぎて長いローブを自分の足で踏み付けて一度転がりながら。
起き上がったかんなは両手を大きく広げた。
世界そのものが大きなキャンパスであるかのように。
サエは頭上を見上げた。
そこには逆光を浴びる鳥のようなものが空を切り、視線を落とせば草むらから小動物たちがこちらを伺っている。
菜の花の黄色い絨毯の上には、ひらひらと宙を舞う白い蝶の姿。
鳥の囀りが、木々のさざめきと共に心地良い。
つい先日までは3人だけだった、草木に囲まれただけの静かな世界に今は様々な生き物が溢れ返っている。
それがかんなの仕業であることは考えるまでもなかった。
「ボク、あの絵本を読む夢を見たんだ。そしたら夢の中でたくさんの動物がボクの周りに集まって来て」
・・・何て素敵で、楽しいんだろう。かんなはうっとりと世界を眺めた。
それでも、これは現実ではないのだとはっきりと理解している自分にも気付いていた。これが現実だったらどんなに素敵だろう。
そこでかんなの夢の記憶はぷつりと途絶えた。
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世界には、こんなに沢山の命がある。
なのにボクはそんなことも忘れてしまっていた・・・。
懐かしいという感覚ではなく、未知の世界を知ったという想いしか自分になかったことが無性に寂しかった。
目が覚めたら、この動物たちはみんな消えてしまう。ボクの記憶と同じように。
気が付いた時からボクの世界はいつも静か。
そしてずっとずっと、ボクは『救世主様』を待ったまま・・・。
自分の周りに集っていた動物たちの姿が不意に薄れていく。
触れていた柔らかな毛並みの感触すら覚束なくなってきた。
行かないで。
ボクは手を伸ばした・・・けれど何も掴めない。
初めから何もなかったように、周囲は暗くなっていく。
ああ、今はもう、星空さえ見えないよ・・・。
上も下も分からなくなった世界で必死に手を伸ばす。
何でもいい、誰でもいい。
ボクを見つけて。
ボクの事を忘れないで。
ボクはずっとここに居るのに。
そう。ずっと。
それらのかんなの想いは、夢の奥底へとどんどん沈み込んでいく。
自分自身ですら思い出すことの出来ない、『過去』の記憶の中へ。
最も深い場所へ降りて行ったそれは、やがてどこかへ辿り着く。
・・・『我』ハ、ズット此処デ待ッテ居ル。
そこは、未だかんなも、誰も知り得ないずっと遠い場所。
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そうして翌朝、夢の欠片を抱いたままかんなは目を覚ました。
いつもとは違う朝の空気に外を覗いてみると、既にこの有り様だったということらしい。
かんなは無邪気に喜びはしゃぎ回り、ローウェはあの絵本の中の全ての生物がこの世界に現れた事を想定して青ざめた。
何せ、人を襲う生き物も山ほど載っていたのだから。
それでなくとも、肉食動物が他の動物を襲う姿をかんなが見てしまったら、どんなに怖がるだろうなどとも考える。
この純粋な子供が傷付き、悲しむのは見たくなかった。
そして、一体どんな経過を辿ってこの生き物たちが『召還』されたのだろうとふたりは頭を捻った。
何せ、『召還』の証である砂時計は相変わらずかんなが所有したままだったからだ。
これは『救世主様』を召還するために行使されたものではなく、かんなの中に存在する別の力が引き起こしたものなのだろう。
かつてこの大地を揺るがした力、真の暗闇に星々のあかりを灯した奇跡、ローウェを弾いた光。
かんなが『召喚』以外の力を行使するだけの能力をまだ持っているらしいというサエのかねてからの想像は確信に変わった。
それでも・・・大丈夫だとサエは思っている。
特別な根拠もない、かんなと、この移ろいゆく世界への信頼感。
かんなが進む道次第では己自身も喪われるのだろうと感じつつも、不思議な程に穏やかな心。
サエは改めて周囲を見渡した。
そして、ふふっと笑う。
笑ってる場合かよ、とローウェは今にもその辺りから獰猛な獣が現れるのではないかと言わんばかりの表情を浮かべ、それぞれの想いを知る由もないかんなは相変わらず興奮した様子で空を見上げたり繁みに顔を突っ込んだりしている。
大丈夫よ。
サエは固い表情のままのローウェにそう告げる。
それに、もしわたしたちが獣に襲われたとしても、きっとローウェさんが助けてくれるでしょう?と悪戯っぽく言葉を続ける。
ローウェは最早返す言葉も失い、がっくりと肩を落とす。
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「あいつに猟の仕方や動物の捌き方でも教えていいもんなのかね」
しばらくかんなの様子を見守った後に男はボリボリと頭を掻きながら呟いた。
実際、自分に経験があるのはせいぜい家畜を捌く程度だが。運が良ければ兎の一匹でも捕まえられるかも知れない。
けれど目の前の解体ショーにショックを受けたかんなに、出会いの時の様に、あの力に吹っ飛ばされるのも御免被りたい。
「かんなに聞いてみたらいいんじゃないかしら」
あの子は、実際それ程こどもでもないのだもの。
サエは手にした食料の山を倉庫へと運ぼうと一度は置いた荷物をもう一度持ち上げる。
ローウェはサエの手助けをするために荷物のひとつに手を伸した。
・・・驚くほどに、それはずっしりと重い。
「なあ、前から聞きたかったんだが」
このクソ重い荷物は一体どうやってどこから持って来てるんだよ。
その問いに、サエはナイショ、と微笑んだ。
かんなも分からないが、やっぱりこのサエという女性も良く分からない。
この世界の中で単細胞な人間は自分だけってことかよ。
ローウェは少し拗ねたような気分で重い荷物を倉庫に放り込んだ。
それから、そんな風に拗ねている自分がまるでかんなみたいだとゲンナリしつつも、可笑しくも感じた。
子供も大人も、年を経るだけでその魂は変わらないって事か。
「ほらかんな!お前も少しは手伝えよな!」
どうやら地面を移動している小さな虫でも発見したらしい、しゃがみ込んでじっと地面を見ているかんなに大声を上げる。
はぁーい、と呑気な返事が返って来る。
後日、かんなのお気に入りの温泉に『人間と良く似た全身が毛に覆われた姿の』珍客が訪れる様になり一悶着が起きたが、それはまた別のお話。
(第五部・完)
と言う訳で、短編にしては長く長編にしては短くなってしまいましたが第五部お送り致しました。
男さんにも名前が付いて、めでたしめでたし(?)。
お読みいただきありがとうございました。




